品川隆二

1933-, 俳優、作詞家、ナレーター。

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品川 隆二しながわ りゅうじ、本名 同じ、1931年4月11日 - )は俳優、作詞家である。

来歴・人物

1931年、山梨県に生まれる。(1933年生まれとする出典が多いが、2007年に出版された「品川隆二と近衛十四郎 近衛十四郎と品川隆二」ワイズ出版による本人のインタビューで訂正された。)

1951年、ミスター日本コンテスト(スポーツニッポン社と大映が主催)の5人に選ばれ、同年12月大映東京の養成所入り(若尾文子より3ヶ月遅れ)。1952年、正式入社となるも仕出しの扱いを受け、月給3500円で通行人等で映画出演。

1954年、ようやく役がつくようになる。(これまでこの年に大映入りしたと報道されてきた)

1956年、「女中さん日記」で初主演。市川崑監督のカラー大作「日本橋」の葛木晋三役を鶴田浩二が降板したため急遽、品川がこの大役を務め、ヒットする。「高校生と殺人犯」に主演。

1957年以降、役が小さくなる。永田雅一の息子永田秀雄と恋敵になり冷や飯を食わされる。

1960年、第二東映入りし、これまで現代劇がほとんどだったが、時代劇出演が続くことになる。「次郎長血笑記」で準主役の森の石松役を得る。「あやめ笠 喧嘩街道」、「百万両秘帖 前後篇」に主演。

1961年、ニュー東映「情無用の喧嘩状」、「旅がらす花嫁勝負」、「首なし島の花嫁」に主演。

1962年、東映「壁の中の美女」、「怪談三味線掘」に主演。以後、脇に回る。

1965年から1968年、近衛十四郎とコンビを組んだTV時代劇「素浪人 月影兵庫」の“焼津の半次”役で茶の間の人気者になる。時代劇の不振で東映が大規模な首切りを行う中、中村錦之助と共に最後まで労働組合活動を行うが、他の役者に裏切られ、東映を退社。

1969年、「素浪人花山大吉」でまた“焼津の半次”役をやった後、TV時代劇やCM(大塚食品ボンカレー」など)で活躍。

1970年代後半より俊藤浩滋の傘下に入り、ヤクザ映画やVシネマ、舞台等、息の長い役者生活を送る。

近年は体を壊し演歌作詞家をやっている。2007年、テレビ朝日系で近衛の息子松方弘樹主演「素浪人月影兵庫」放送に際してゲスト出演の他、毎回ナレーターを務めている。