大東亜共栄圏
大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)とは、東アジア・東南アジアに共存共栄の新秩序を建設するという意味のスローガンであり、大東亜戦争(太平洋戦争・15年戦争)において日本が大義名分として掲げた。 1940年に近衛文麿内閣が決定した基本国策要綱の中で大東亜共栄圏の構想が提唱された。日本・満州・中国を一つの経済共同体とし、東南アジアを資源の供給地域に、南太平洋を国防圏として位置づけるものである。
1943年11月5日~11月6日に東京で日本の影響下にある東アジア諸国の首脳(中華民国国民政府行政院長汪兆銘、タイ総理大臣ピブーンソンクラーム代理ワンワイタヤーコーン、満州国国務総理大臣張景恵、フィリピン大統領ホセ・ラウレル、ビルマ内閣総理大臣バー・モウ、陪聴者自由インド仮政府首班チャンドラ・ボース)が集まり、大東亜共栄圏の理念に基づいた大東亜宣言が採択された。大東亜各国を米英から解放し、共存共栄の秩序を建設すること、相互の自主独立と伝統を尊重すること、人種差別を撤廃することなどが宣言の内容。
大東亜共栄圏の実態と評価
上記の大東亜宣言を善解すれば、大東亜共栄圏の目的は、アジア各国を列強の植民地支配から解放、独立させ、EUのような対等な国家連合を実現させることであったとも理解できる。もしこれが本当に実現していれば、大東亜共栄圏への今日的評価は大きく異なっていたであろう。一方で、日本軍占領下で形式上の独立を果たした諸国(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア、満州国)の政府と汪兆銘政権(中華民国)は、いずれも日本政府の絶対的指導権の下に置かれており、ソ連に対する東欧諸国、アメリカ合衆国に対する中南米諸国のような、事実上の植民地(衛星国)化を目指したに過ぎないという考えもある。また、1943年5月31日に決定された*大東亜政略指導大綱では英領マラヤ、蘭領東インドは日本領に編入することとなっていた(ただし、蘭領東インドについては、戦争末期にジャワ島のみ独立を認める方針に転じた)。シンガポールは昭南特別市と改名され正式に日本に併合された。日本の同盟国であったヴィシー・フランスの植民地インドシナ連邦では、日本軍占領下における植民地支配をフランス本国でヴィシー政権が崩壊したのちの1945年3月9日まで承認していた。
大東亜共栄圏の真意がどこにあったにせよ、日本軍は占領者、植民地的支配者として敗北し撤退した。その結果として「日本の行為は、入植者を追い出したのは一時的に過ぎなかったうえ、しかもその際の戦闘で多くの犠牲をもたらした。そして、日本もまた、その『一時的』の間は侵略者であった」という評価もある。しかしながら、日本軍が宗主国勢力を排除したことが結果として独立に繋がったという評価や、日本軍統治下で様々な近代化が行われたため、旧宗主国に比すれば日本はよりましな統治者であったという評価もあり、今なお議論が続いている。
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