内田百閒
内田百間(うちだ ひゃっけん、1889年5月29日 - 1971年4月20日)は夏目漱石門下の小説家、随筆家。戦後は筆名を百閒と改めた(閒は門構えに月、U+9592)。別号は百鬼園(ひゃっきえん)。本名は内田栄造。
「百閒」は、故郷にある旭川の緊急放水路である百間川から取ったもの。「百鬼園」は「借金」の語呂合わせである。
迫り来る得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。
人となり
造り酒屋の一人息子として生まれ、また祖母に溺愛されて育ったため、非常に頑固偏屈、かつ我侭で無愛想な人物として知られ、またそのことを自認もしており、よく作品内のネタに使用した。「官僚趣味」であるとも公言しており、位階勲等や規則秩序が好きであった。この好みのためか、秩序の破壊と復讐を行った赤穂浪士が大嫌いだとも書いている。
しかしながら持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、教え子(なお、百間自身はこの呼称を非常に嫌っていた)たちに慕われており、還暦を迎えた翌年から教え子や主治医を中心メンバーとして毎年摩阿陀会(まあだかい)という誕生パーティーが開かれていた。摩阿陀会とは、百間は還暦を祝ったのにまだ死なないのか、即ち「まあだかい」に由来する。ここにも百間のユーモアを垣間見る事が出来る。黒澤明監督による映画「まあだだよ」はこの時期を映画化したもの。
旧制岡山第一中学(現・岡山県立岡山朝日高等学校)在学当時に父の死により実家の造り酒屋が没落し、それからは生涯金銭的には恵まれなかったようである。著作には借金を主題としたものも多いが、借金の大元の原因は明らかにされていない。(一説では、家族全員がインフルエンザにかかった際に一ヶ月間雇った看護婦への賃金が原因といわれる)
琴、酒、煙草、小鳥、鉄道、猫などを愛し、それぞれについて多くの著作が残されている。特に琴は「春の海」などの作曲で知られる宮城道雄に最初は師事していたが、のちに二人は親友となり、彼との交流を描いた随筆は数多い。また、宮城道雄の著書には百間指導のものも多い。
鉄道に関しては、全く無目的な、汽車に乗るためだけの汽車旅行をする旅を描いた「阿房列車」シリーズなどの紀行があり、百間著作の代表作となっており、作家の阿川弘之や鉄道紀行作家の宮脇俊三も百間を自らの先達として挙げている。
晩年には飼い猫のノラとクルツを溺愛した。ノラが失踪し、その後に居ついたクルツも病死してしまい、その悲しみを綴った「ノラや」、「クルやお前か」もまた代表作の一つとなっている。
年譜
- 1889年(明治22) 5月29日、岡山市古京町に造り酒屋の一人息子として誕生
- 1905年(明治38) 父・久吉死去。実家の志保屋倒産。
- 1911年(明治44) 療養中の漱石を見舞い、門弟となる
- 1912年(大正元) 中学時代の親友の妹、堀野清子と結婚
- 1914年(大正3) 東京帝国大学独文科を卒業。漱石山房で芥川龍之介と知り合う。
- 1916年(大正5) 陸軍士官学校ドイツ語学教授に任官
- 1918年 (大正7) 海軍機関学校ドイツ語学兼務教官を嘱託される。友人である芥川龍之介の推薦による。
- 1920年(大正9) 法政大学教授に就任。祖母・竹が死去。
- 1922年(大正11) 処女作品集『冥途』刊行
- 1923年(大正12) 陸軍砲工学校附陸軍教授を命ぜられる。関東大震災により前年刊行の「冥途」の印刷紙型焼失。同震災により機関学校も崩壊焼失したため、嘱託教官解任。
- 1925年(大正14) 陸軍士官学校教授を辞任 家族と別居(以後生涯同居せず)
- 1927年(昭和2) 砲工学校教授依願免官
- 1929年(昭和4) 東京市牛込区の合羽坂に転居(佐藤こひと同居) 中野勝義の懇請を受けて法政大学航空研究会会長に就任
- 1933年(昭和8) 随筆集『百鬼園随筆』を刊行、ベストセラーとなる。いわゆる「法政大学騒動」を機に法政大教授を辞職。文筆業に専念
- 1936年(昭和11) 長男・久吉死去(24歳)
- 1939年(昭和14) 日本郵船嘱託となる( - 1945年)。同年台湾旅行。百間原作・古川緑波主演で映画「ロッパの頬白先生」製作。
- 1945年(昭和20) 空襲により居宅焼失。隣の松木邸内の掘立小屋に移住。
- 1948年(昭和23) 新居である三畳間が3つ並んだ通称「三畳御殿」完成。
- 1950年(昭和25) 大阪へ旅行。これをもとに随筆『特別阿房列車』を執筆。『阿房列車』はシリーズとなり、1955年まで続く
- 1957年(昭和32) 愛猫「ノラ」が失踪。『ノラや』をはじめとする随筆を執筆
- 1959年(昭和34) 小説新潮に『百鬼園随筆』を連載開始。死の前年まで続く
- 1964年(昭和39) 妻・清子死去(72歳)。翌年、佐藤こひを入籍。
- 1967年(昭和42) 芸術院会員に推薦されるが、断る。辞退の弁は「イヤダカラ、イヤダ」として知られる
- 1971年(昭和46) 4月20日、東京の自宅で老衰により没する。享年81
東京中野区金剛寺の句碑「木蓮や塀の外吹く俄風」から、忌日を木蓮忌とも言う。
代表作
小説
- 冥途
- 旅順入城式
- 東京日記
- サラサーテの盤
- 贋作吾輩は猫である
随筆集
- 百鬼園随筆
- 百鬼園日記帖
- 大貧帳
- 御馳走帖
- 戻り道
- 禁客寺
- ノラや
- 日没閉門
紀行
- 第一阿房列車
- 第二阿房列車
- 第三阿房列車
童話
- 王様の背中