循環論法

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循環論法(circular reasoning, circular argument、vicious circle[1])とは、

  • ある命題の証明において、その命題を仮定した議論を用いること[1]。証明すべき結論を前提として用いる論法[2]
  • ある用語の定義を与える表現の中にその用語自体が本質的に登場していること[1]

概説

 
循環論法の概念図。

一口に循環論法と言っても、証明における循環論法と、定義における循環論法がある[1]ともされる。

証明における循環論法とは、ある命題の証明において、その命題自体を仮定した議論を用いることである[1]。どのような形式かと言うと、今、命題をPと表すとして、P1, P2… Pn(nは自然数)がある時に、P1を証明するのにP2を用い、P2を証明するのにP3を用い、といったように証明を進めて、Pnを証明するのに(証明したと思いつつ)P1を使ってしまうような形式、論の進め方のことである[1]。右の図で言えば、Aの根拠としてBを用い、Bの根拠としてCを用い、と進んでゆき、Eの根拠としてAを用いた段階で循環論法になってしまっている。

定義における循環論法とは、ある用語の定義を与える文や表現の中に、その用語自体が本質的に登場していることを言う[1]。その形式とは、今、用語をWと表すとし、W1, W2… Wnがあり、W1の定義する文(表現)の中に W2が現れ、W2の定義する文(表現)の中に W3が現れ、Wnを定義する文の中にW1が現れるような形式、構造である[1]

ひとつの文章の中に循環論法が含まれている場合や、循環の鎖の個数が2~3個程度であると比較的容易に発見できるが、数百ページにもおよぶ書物にそれが埋め込まれて巨大な循環を作っていてそれがあるページにおさまっていなかったり、鎖の個数が多かったりすると、なかなか気付かれないことがある。循環論法は様々な言説の中に紛れ込んでおり、日常的な言説や政治的な言説にも見られるが、学問や科学にも多々見られる。循環論法を含んだ体系は、しばしば熱心な信奉者や信者を生みだす。

循環論法の例

まず分かりやすい例から挙げると、「『ハムレット』は名作である。なぜなら『ハムレット』は素晴らしい作品だからだ」といった言明は循環論法である[3]

定義における循環論法の例を挙げる。例えば、《知識》(知られていること)とは何か? に関して、古典的な認識論では「知識とは、正当づけられた真なる信念である」と定義されていたことはよく知られている(この定義自体は特には問題はない。)だが今、知識の定義として、この「正当づけられた真なる信念」を採用した状態で[1]、「正当づけられた」という意味あるいは定義は何ですか?と問われた場合に、もしも「“正当づけられた” というのは証明や証拠が知られていることだ」と答えてしまうと、この説明は循環論法に陥ってしまっていることになる[1]

コーランこそがものごとの正しさを決定する。なぜそうなのかというとそれはアラーが决めたからである。なぜアラーがそう决めたとわかるのか、というとそれはコーランに書いてあるからである。」といった理屈がイスラム教で言われることがあるが、こうした論法は異教徒から見れば循環論法と見える[4]と指摘する人もいる。

また「神の言葉であるものは真である。聖書に書かれているのは神の言葉である。(なぜならその書には、それが神の言葉だとして書かれているから)」という考え方は循環論法だとされる[5]。 こうした循環論法で何らかの記述や言明を正当化して絶対視してしまう思考様式は「原理主義」と呼ばれている。

また「知識とは科学だけだ。それ以外は知識ではない。なぜなら(現在の)科学が全ての知識を記述しているからだ」とか「科学だけで全部できる。他は不要だ。なぜなら(現在の)科学は万能だからだ」という循環論法に陥った主義・主張・信仰は「科学主義」とか「科学原理主義」と呼ばれている。(なお、科学主義・科学原理主義に陥ってしまっている人の心における妄想的な位置づけはともかくとして)、実際には知識には様々なタイプのものがあり、科学というのは人類の知識全体の中の特定のタイプのものでしかなく、分類上、科学というのは人類の知識の数分の一にすぎない[6]とか、科学で扱えることは世の中のことのほんの一部にすぎない[7]、科学以外の考え方も大切だ[7]、ということは科学者・工学者などからも指摘されている。

同様に「全てが今の物理学の物理法則によって記述されている。なぜそうなのかというと、今の物理学の物理法則というのは自然の全てを記述しているからだ。」という循環論法に陥っている思考・信仰は物理主義と呼ばれている。(物理主義に陥ってしまっている人の考えはともかくとして)物理法則というのは人間が恣意的に作り出した記述にすぎず、自然そのもののありかた(自然法則)とは異なっている、と哲学者たちによって指摘されている[8]。物理主義というのも原理主義だと指摘されている[9]

同様に「自然とは(現在の)自然科学によって説明されているものだけだ。なぜなら(現在の)自然科学だけが自然を説明しているからだ。」あるいは「《自然》とは科学によって説明されているものだけだ。そして科学によって説明できないものは《自然》ではない。なぜなら、科学は《自然》の全てを説明しているからだ。」という理屈や「《自然》以外を「超自然」と呼ぶのなら、そのような《超自然》は一切存在するはずがない。なぜなら自然科学は《自然》の全てを完全に説明しており、その(自然科学の説明する)《自然》がこの世界に存在することの全てだからだ」という理屈も循環論法に陥っている。こうした(上述のイスラム教徒の論理にも似た)循環論法に陥った人は、自分の思考様式を「“科学的”懐疑主義(※)」と自称している。(こうした“科学的懐疑主義”は、上記の物理主義者がしばしば陥る態度であり、同一人物がしばしば物理主義と“科学的懐疑主義”なるものを信奉する。)だが、彼らが「科学的懐疑主義」と自称しているものの、懐疑主義者らのほうは基本的に、“科学的懐疑主義”なるものは懐疑主義とは別のもの、異質のものだと判断しており、“科学的懐疑主義”なるものは一種の信仰体系なのであると判断していることもある。また “科学的”と自称しているが、果たして本当にその方法論や論法が「科学的」と呼べるようなものなのか、疑念を呈する人もいる(※)。[要出典]

: (※)なお、論者たちが自分の説や論法に勝手に「科学的」という形容詞を冠してしまって、美化している(あるいは美化しているつもりになっている)いたとしても、当人が自称しているということと、他者から見てそれが本当に科学的と判断されているか、ということはまた別の問題である。当人たちが科学的なのだと考えて「科学的」という形容詞をつけていても、他者は、科学ではない、科学のニセモノだ、と判断することがある。歴史的にはそういうことが何度も起きている。(後述)[要出典]

経済学関連では、しばしば様々な説や理論が循環論法に陥っている、と指摘されている。 例えば循環論法に陥っていた有名な事例として、マルクスの主張した「労働価値説」がある。この説が循環論法に陥っているという問題点は、べーム=バヴェルク(1851-1914)によって指摘された。具体的に言うと、マルクスは『資本論』の第1巻で『商品の価格は投下労働量で定まる』と主張していたのだが、同書の第3巻1~3篇では『商品価格は商品の生産コストである「費用価格」に「平均利潤」を加えた「生産価格」で決まる』(結局、商品の価格は市場の需給で決まる)と主張しており、循環論法に陥っていた。べーム=バヴェルクは単純労働と専門的労働の双方に必要とされる平均労働時間と商品価値がどのような関係にあるかを研究していたのだが、その中で、マルクスの主張した労働価値説が循環論法に陥っていることに気付き、論文「マルクスとその体系の終結」においてそれを指摘したのであった。べーム=バヴェルクのこうした指摘のおかげなどもあって、マルクスの言説というのは、(当時、それを真に受けた者の間に熱烈な信奉者を生んでいたのであったが、またマルクスは自説を「科学的社会主義 (※)」などと呼んでいて、それを真に受けて科学的だなどと信じている人も多かったのだが)、マルクスの言説というのは、科学というよりもただのイデオロギー的な言説にすぎない、ということが人々に知られるようになり、説得力を失うことになった。その後、マルクスを熱心に信奉する論者が幾人も、何とかマルクスを擁護しようと、さまざまな論争を行ったものの、それによって擁護ができたというよりもかえってマルクスの説の体系の様々な問題点が浮き彫りにされてしまったような面もあり、結局、第三者から見て労働価値説はやはり科学や学問ではないと見なされ、政治の現場や運動家らの間では政治的な主張としての価値は変わらない、と考えられもしたが、(経済学などの)学問の世界においてはもはや十分に学問としての正当性はない、とも見なされるようになり、その価値は消極的に認められるにとどまるようになった。[要出典]

(※) マルクスは自分の政治的な論を勝手に「科学的社会主義」などと呼び、当時それを真に受けて、てっきり“科学的”だと信じてしまっていた人々も非常に多かった。例えば、若き日のカール・ポパーもマルクスの説に心酔していたが、ある日、マルクス主義者たちが極端な暴力に走ったり、「マルクスの説は完全だ。なぜなら、新聞に書かれている出来事の全てがマルクスの説によって説明できるのだから」といった主旨のことを述べているのを聞いて、マルクスの説は根本的に何かがおかしい、と気付いたという。(当時の西欧では、マルクスの説や、アインシュタインの説や、フロイトの説などが先端の説として熱狂とともに迎えられ、若者の間で非常に流行していたわけであるが)やがて、ポパーは、マルクスの説のような説と、アインシュタインの説のようなものとは一体どこが異なっているのか? ということに考えを巡らせるようになり、つまり線引き問題に思いを巡らせるようになり、やがて反証主義を構築してゆくことになった。ポパーは、マルクスの論のような説、それだけで自己完結してしまっていて、閉じた構造ものは、科学ではない(当人たちに科学だと主張され、そう見なされることがあっても、科学としての要件を満たしておらず、疑似科学だ)、と指摘するようになった。ポパーは、言説というのは(言説だけで)閉じた構造になっていてはいけない、言説は(言説の外の世界に対して)開いた構造(openな構造)になっているべきだ、と判断するようになった。[要出典]
当時、マルクスは自分の主張した社会主義のことを“科学的社会主義”、と呼称し、人々を扇動したわけだが、現在では結局、一般に、マルクスの主張した社会主義は“科学的”などとは全然見なされていないのである。[要出典]

マルクス経済学(マルクス主義経済学)を経営学に応用(転用)したものがいわゆる「批判経営学」というものである[10]が、この“批判経営学”なるものは、「“搾取システムとしての資本主義”の“正しい認識”のためには、搾取される労働者階級の立場に立つことが必要であり、その立場の階級的意味の正しい認識は、資本主義の“正しい”認識によってはじめて得られる」という循環論法を用いている[10]。こうした循環論法の中に入ってゆくということは(一種の)“信仰”の力を借りるしかなったと(皮肉も込めて)言われている[11][10]

(共産主義の理屈だけでなく資本主義の理屈についても循環論法が疑われているものがあり) ケインズの利子論について「将来における利子率の上昇や低下の予想が現在の利子率を決めるという循環論法に陥っている可能性がある」といったことをロバ—トソンは述べた[12]

またグローバル経済でドルが基軸通貨として使われていることに関して、「人々がドルを貿易などに使うのは、ドルで米国のものを買うためではなく、“取引相手がドルなら受け取るから”という理由からであり、“他国がドルを基軸として使うから、自国もドルを基軸として使う”という循環論法によっている[13]」と言われることもある。

ただし、資本主義の社会で複数の人々がかかわって実際に起きている事象までを循環論法と呼んでよいのか、呼ぶべきでないか、の判断は人によって異なっており、最近では、ひとつの論・説明の中に含まれる論としてのループと、社会に現に存在している事象としてのループは区別するようにして混同を避け、経済現象に関しては「循環論法に陥っていて誤謬だ」とやみくもに非難したりするのではなくて、「現実の経済というのは、それ自体が実際に再帰的なメカニズムや構造を持っている」とか「現実の経済には正の(強化方向の)フィードバックのループが含まれているがゆえに、極端な不均衡に陥ったり、予測不能な大きな変動を起こす」などといった説明をする学者・論者のほうが増えてきている。

素朴な批判への疑念

ところで、上に挙げたような多数の例とそれに対する批判の中には、「循環論法は絶対に悪しきものに決まっている、よってそこに含まれているものは全て機械的に捨ててしまってよいのだ」といったような判断や素朴な態度がしばしば含まれている。だが、そのような態度だけで本当に済むのか?、その態度自体を慎重に検討したほうがよい場合があるのではないか? といったことが(法律や倫理の分野などで)言われることがある。例えば、人の《権利》の憲法上の定義においては循環論法が用いられているが、こうした循環論法を用いた言説は、果たして循環論法であるというだけの理由で、空虚なものとして捨て去られなければならないのだろうか? という問題はある[14]。憲法上の《権利》の定義に、循環論法が用いられているからといって、果たして権利がまったく無意味なものになってしまうのか? という問題があるのである[14]。たとえそれの定義に循環論法が用いられているとしても、人がそれが循環論法であることを自覚しているかぎり、それはなお意味をもつ、とも指摘されている[14]。「たてまえ」が「たてまえ」にすぎないことさえ理解されていれば、それはなお、おおいに意味がある[14]とも指摘されているのである。


脚注・出典

脚注

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『世界大百科事典』平凡社、1988、第13巻「循環論法」
  2. ^ 大辞泉
  3. ^ 小野田博一『論理的に話す方法: 説得力が倍増する実践トレーニング』PHP研究所、2005、pp.144-146
  4. ^ 中央公論, 第 121 巻、第 7~9 号、反省社
  5. ^ 『マイペディア』
  6. ^ 市川惇信『暴走する科学技術文明―知識拡大競争は制御できるか』岩波書店、2000
  7. ^ a b 安斉育郎『科学と非科学の間 (改訂 増補版)』かもがわ出版、2009年
  8. ^
  9. ^ 養老孟司、茂木健一郎 『スルメを見てイカがわかるか!』 角川書店、2003年、p.100-124「原理主義を超えて」
  10. ^ a b c 裴富吉『経営学理論の歴史的展開:日本学説の特質とその解明』三恵社、2008、p.2-4
  11. ^ 竹内靖雄『経済学とイデオロギー - 市場経済の論理と倫理 -』日本経済新聞社、昭和51年、p.287
  12. ^ 根井雅弘『ケインズとシュンペーター: 現代経済学への遺産』
  13. ^ 白春『現代資本主義入門』pp.110-112
  14. ^ a b c d 『法学論叢 第128巻』1991、p.107~109

関連項目

  • 循環定義
  • 論点先取
  • トートロジー
  • 誤謬
  • 詭弁
  • 再帰的定義
  • en:Recursion (computer science) (再帰プログラミング。形式的には、「ある用語の定義を与える表現の中にその用語自体が登場」しており、一見すると循環定義そのもののような構造で書かれているが、ただし、再帰で辿っていける鎖の端に具体的な値を決定できる要素が最低でもひとつ見つけられるように記述しておけば、プログラムとして立派に作動する。決定できる要素が与えられないと再帰プログラムとして成立せず、まともに動作しない。)