名古屋美人
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名古屋美人(なごやびじん)とは、愛知県名古屋市とその周辺、広義では愛知県出身の美人を指す。


明治、大正、昭和にかけて、日本を代表する美人[1]であり、ことに明治、大正期には、美人の産地として有名だった、秋田、新潟、京都を圧倒する日本一の美人の産地として名古屋が絶賛され、名古屋美人は大絶賛された[2][3]。もちろん現在ではその限りでなない。名古屋不美人説なるものがあるが、1980年代に作られ[3]、一部週刊誌によって流布された[3]もので意味はない。
歴史
名古屋美人の歴史は古く、日本武尊の妃だった宮簀媛まで遡る[4]。さらに歴史は遡るが孝昭天皇の妃、世襲足媛。崇神天皇の妃、大海媛。継体天皇の妃、目子媛なども挙げられ[4]、二千年近い歴史を持つ。
古代より美人の産地であることを利用した尾張氏は、権力者だった天皇家へ娘たちを后として送りこんでいる[5]。
名古屋美人の歴史の中でも、有名な人物はお市の方[4]である。絶世の美女、戦国一の美女など賞賛は尽きない。また、名古屋から少し離れるが、他にも江島生島事件の絵島や、「唐人お吉」こと、斎藤きちも広義の名古屋美人である。
純粋培養された名古屋美人
熱田神宮がある名古屋は古代から格式のある地域だったが、軍事的には強固な場所ではなかった。名古屋を「大坂(大阪)への征西、後方の兵站地、西方勢力東侵の前線防御地として重大視」[6]した徳川家康は、徳川御三家の筆頭の地と定めると同時に、自らが名古屋に足を運んだ[7]。そして緻密な「軍事計画」[8]の下、名古屋城と名古屋の街を作り上げたことで、江戸時代の名古屋は、名古屋城下に他地域の人間が簡単に入り込めないようになっていた[9]。
そのため古代より天皇家や皇族に嫁した[4][5]名古屋美人の血脈が[10]純粋化し、他地域の住人の血が混じることのない純血種の名古屋美人たちが居住することになった。
朝鮮通信使の金仁謙は、名古屋美人の美しい姿に驚愕して、日東壮遊歌の中でこう綴った。
日東壮遊歌は、訳したものが平凡社から出版されていて、訳文をそのまま引用すると、
人々の容姿のすぐれていることも 沿路随一である
わけても女人が 皆とびぬけて美しい
明星のような瞳 朱砂の唇
白玉の歯 蛾の眉
茅花の手 蝉の額
氷を刻んだようであり 雪でしつらえたようでもある
人の血肉をもって あのように美しくなるものだろうか
趙飛燕や楊太真[12]が 万古より美女とのほまれ高いが
この地で見れば 色を失うのは必定[13]
と表現した。また、別の箇所では
女人の眉目の麗しさ
とも表現している。
名古屋美人に対する大絶賛の時代
明治、大正、昭和初期になると名古屋美人に対する大絶賛の時代がやってくる。
名古屋美人の名声の高まりは「近代史」[3]の中で起った。鎖国が解かれ、線路が敷設され鉄道網が作られ、人の往来が自由になると、名古屋は「美人の街として評判」[3]になった[15]。「美人の産地として有名な名古屋」「昔から名古屋は美人が多いとされている」「名古屋美人と言われている程だから、事実美人の多いことに間違いはない」など[3]、その名声は、秋田美人、新潟美人、京美人を遥に上回った[3]。
名古屋美人のブランド力が圧倒的なものになると、名古屋以外の出身の女性も名古屋出身だと詐称するようになった[3]。詐称した女性の半分程度が岐阜の出身で、大垣[16]の出身者が多かったという[3]。
日本全国を席巻する名古屋美人たち
テレビも無く映画も草創期だった、明治、大正、昭和初期の美人の基準は芸者だった[3]。名古屋美人は芸者の世界も圧倒した[3]。日本全国の花街が名古屋の娘を求め、僅か1年の間に全国に散った名古屋出身の娘は3千5百人程度に達した[3]。しかも、その統計は紹介屋によって登録されたものだけで、未登録の娘は入っていない[3]。
東京の花柳界も名古屋の女性に席巻[17]されていた。まず二人の美人芸者が、名古屋から東京の花柳界に送りこまれた[3]。日本全国の男性が名古屋の女性に憧れていた為[18]、「莫大な」[3]数の地元の娘が全国に送りこまれていた[19]が、美女は尽きなかった。東京の花柳界へも「美貌」[3]の女性が次々と集められ送りこまれていく[3]。それは東京の芸者を駆逐していき、やがて東京の花柳界の女性の六割程度が名古屋出身者になった[3]。東京の花柳界では名古屋弁が隆盛をきわめ[3]、名古屋弁が名古屋美人の証として使われていた。
明治、大正期の有名な美人芸者は名古屋出身だった[3]。明治時代の美人論者の一人である青柳有美は、東京の花柳界は名古屋女性の天下になっていると言っている[3][20]。
永井荷風は「新橋(しんばし)第一流の名花と世に持囃(もてはや)される名古屋種(なごやだね)[21]の美人」と書いた[22]。
名古屋美人は軽々しく論ずべきテーマではなかった[3]。『中央公論』は[23]名古屋美人を論ずる青柳有美の為に、56ページもの紙数を与えた[3]。それは原稿用紙で130枚近くになった[3]。
他の美人論者たちも名古屋美人について論じ、「美形[3]」、「美貌[3]」、「綺麗首[3]」、「中京美人[24]」、などと表現した。その表現の基底に流れているものは名古屋が圧倒的な美人の産地[3]として認識されている事実だった。
『婦人世界』は「美人ぞろいの名古屋の婦人」という一文を載せ[3][25]、美人の産地として有名な名古屋…名古屋は美人が多いだけでなく、名古屋の娘はそれぞれのレベルが高く、玉石混淆の東京とは違うと論じた[3][26]。
名古屋美人の名声が圧倒的なものになると、それを批判するものもいた[3][27]が、名古屋の女性が美人である事は否定しなかった[3]。名古屋は美人の産地だが、名古屋の女性を美人という観点からのみ理解する事は間違いだと指摘する者もいた[3]。
西川嘉義・豊竹呂昇・桂可那子
その名声が日本全国を席巻していた時代に、3人の有名な名古屋美人が登場する。「芸所名古屋」が生んだ西川嘉義と豊竹呂昇、公爵夫人の桂可那子である。
西川嘉義[28]は「日本舞踊」西川流の名手で、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に招かれて舞った。また大阪の遊郭に招かれて舞踊の師匠になり、その名声は「東京・名古屋・大阪の三都」[29]にわたった。
もう一人は豊竹呂昇[30]である。豊竹呂昇の妖艶な美貌と美声を長谷川時雨は絶賛している[24]。呂昇は寄席芸だった娘義太夫、後に女義太夫と呼ばれることになるその芸を、美貌と美声で庶民だけでなく、当時の上流階級まで巻き込んで熱狂させた[24]。
長谷川時雨によると、著名な貴族、実業家、政界の要人たちが、呂昇の支持者や後援者となり、その美貌と美声を絶賛したという[24]。長谷川時雨が呂昇の芸に接した頃、呂昇は三十路なかばを過ぎていたが、後援者は彼女が若返っていくと賞賛し、長谷川時雨も同じ感想を漏らしている[24]。
明治43年5月に東京の3つの雑誌社が共同で刊行した雑誌『名古屋大共進会紀念画報』の表紙には金鯱の上に一人の女性が座っていた。桂太郎の妻であり公爵夫人の桂可那子である[3][4]。
キャプションには「名古屋の二大名物 云う迄もなく金鯱に美人」と記されており、名古屋美人と云う必要もなく名古屋と聞けば、人々は「反射的」に「圧倒的な美人の産出地」を「イメージ」[3]した。
名古屋不美人説について
名古屋不美人説は、1980年代に作られた[3]。名古屋の女性を中傷する、この記事は、一部週刊誌によって流布された。それは、名古屋以外の都市の女性も中傷していた[3][31]。以降も一部の男性週刊誌などによって、他の都市の女性と共に名古屋の女性に対する中傷記事は続いていく[3]。
こうした単純な捏造記事にプロである芸能プロダクションの関係者は騙されなかった。彼らは1980年代に名古屋とその周辺から、次々と女性アイドルを発掘して成功させている。
石川ひとみ、石川秀美(いずれも紅白歌合戦出場)、伊藤麻衣子(現・いとうまい子。アイドル女優、初代ミス・マガジン)、岡田有希子(日本レコード大賞最優秀新人賞)、河合その子(4曲オリコン1位)、渡辺美奈代(5曲連続オリコン初登場1位)、仙道敦子(アイドル女優)など、他にも1980年代だけでも多数輩出した。
美人の産地について
地名に美人を付けて、その地域が美人の産地であるように装ったり、マスメディアの誘導によって特定の地域が美人の産地であるかのようにイメージさせる場合があるが、明治、大正、昭和初期の美人の産地は4つしかない。
秋田、新潟[32]、京都、そして圧倒的な筆頭格である名古屋である[3][33]。
この四つの地域に特徴的なことはマスメディアの未発達な時代[34]に、人々の自然発生的な評価として美人の産地として認められていることである。
平成期・名古屋嬢の登場
平成期になって名古屋嬢の登場は、マスコミの論調を、明治、大正、昭和初期の名古屋美人に対する絶賛の時代に戻している。「気がつけば美女はみ~んな名古屋生まれ」[3]、などだが、ある地域を絶賛したり中傷したりするマスコミの態度を、井上章一は冷静に分析している[3]。
関連項目
脚注
- ^ 名古屋美人の名声は明治時代から戦時下体制が近づき言論統制が始まる昭和初期まで六十年近く続いた。
- ^ この部分は原典の表現を簡潔に纏めたものである
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 『名古屋と金シャチ』 金シャチ美人の章、井上章一、NTT出版。
- ^ a b c d e 『名古屋美人の源流』、遠藤昭二郎、リバティ書房。
- ^ a b 『国史大辞典』、尾張氏と宮簀媛の項、吉川弘文館。
- ^ 『愛知百科事典』、名古屋城の項、中日新聞本社。
- ^ 『名古屋城叢書2』、名古屋城年誌、服部鉦太郎。社団法人 名古屋城振興協会。
- ^ 『愛知百科事典』、名古屋市の項、中日新聞本社。
- ^ 防衛上の問題が優先された。
- ^ 天皇家や皇族関係者との関係は熱田神宮があった関係から古代から続いていて、後醍醐天皇の皇子である竜泉冷淬のような有名な人物も生んでいる。
- ^ 当時の朝鮮の人々は、豊臣秀吉の朝鮮出兵のせいで日本人を憎んでいた。また自分たちの方が日本人より優れているという自負心から日本人を馬鹿にしていた為、名古屋の女性を賞賛したのは、異例中の異例である。
- ^ 楊貴妃のこと。
- ^ a b 『日東壮遊歌』、東洋文庫、金仁謙著 訳注 高島淑郎、平凡社。
- ^ 日本のこと。名古屋の女性を日本一の美人と評価した。
- ^ 新聞や雑誌が誕生すると名古屋美人は喧伝されるようになる。
- ^ 大垣地方の産とあるので西濃地方の事かもしれない。
- ^ 明治時代の江戸の文化とか、風情といったものは戦後に作られた虚構らしい。古き良き時代だった江戸の風情とか情緒を懐古し、それを駆逐してしまった新しい支配者である薩長の官僚と、東京の花柳界の主流になっていく名古屋美人ともてはやされる名古屋の女性たちに対する恨みの念を表現した明治時代の文献が『名古屋と金シャチ』の中には幾つも紹介されている。あるいは名古屋の女性たちが、結果として明治時代の江戸の文化とか、風情、情緒を作っていたのかもしれない。
- ^ 名古屋の女性に対する憧れの気持ち、名古屋の女性を求める気持ちは、次に、何か名古屋と関係がある女性を求めるようになる。そのことを示す例を、井上章一は福地櫻痴の『買収政略大策士』という小説を使って解説している。
- ^ 明治15年頃には名古屋の女性を全国に派遣するようになっていたらしい。大正時代にはビジネスとして成立するものになっていた。それが愛知県の巨大な人材派遣業になっていた事を示すデータが『新愛知新聞』(現在の中日新聞の前身)、「名古屋女の研究」(1913年1月9日)に掲載されている。名古屋の女性を求める全国の男性の数が膨大な数になったため、名古屋周辺の女性だけでは、まかないきれなくなったのかもしれない、知多半島や三河の女性も名古屋美人として全国に派遣されている。
- ^ 青柳有美は新橋一の名妓の誰々は名古屋出身で、今売り出し中の誰々も名古屋出身だと指摘している。
- ^ 明治時代の東京の花柳界では、名古屋出身の女性を名古屋種と呼び、地元の東京の女性を江戸前と呼んでいたらしく、美人ぞろいの名古屋の女性が東京の女性を駆逐していく様子を、「江戸前を駆逐していく名古屋種」と表現している。
- ^ 『妾宅』、『荷風随筆集(下)』、岩波文庫、岩波書店。
- ^ 1910年四月号。
- ^ a b c d e 『日本美人伝』、長谷川時雨。後に『近代美人伝』として岩波書店から刊行。
- ^ 1918年7月号。
- ^ 明治時代の文章表現のため意訳した。
- ^ 批判というより、嫉妬の感情も散見できる。名古屋の女性たちが東京の花柳界に進出すると、地元の東京の女性は相手にされなくなったらしい。『日本美人史』の著者である栗島狭衣は名古屋美人を批判しながら「すでに廃って仕舞った江戸前」と書いた。他にも同じような表現は幾つもある。
- ^ コトバンク 西川嘉義
- ^ 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、「西川嘉義」の項。
- ^ コトバンク 豊竹呂昇
- ^ 井上章一は、具体的に『週刊ポスト』の記事を中傷記事として指摘しているが、他にも活字記録は存在すると言っている。
- ^ 新潟に関しては越後という表現もある。
- ^ 膨大な量の、明治、大正、昭和初期の新聞、雑誌などを調査した井上章一は、四つの地域しか挙げていない。
- ^ テレビは無く、映画は黎明期にあった。