黒田博樹
黒田 博樹(くろだ ひろき、1975年2月10日 - )は、ニューヨーク・ヤンキースに所属するプロ野球選手(投手)。
| ニューヨーク・ヤンキース #18 | |
|---|---|
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ドジャース時代(2010年) | |
| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 | 大阪府大阪市住之江区 |
| 生年月日 | 1975年2月10日(50歳) |
| 身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 205 lb =約93 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1996年 ドラフト2位(逆指名) |
| 初出場 |
NPB / 1997年4月25日 MLB / 2008年4月4日 |
| 年俸 | 1000万ドル(2012年)[1] |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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| 国際大会 | |
| 代表チーム |
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| 五輪 | 2004年 |
この表について
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| オリンピック | ||
|---|---|---|
| 男子 野球 | ||
| 銅 | 2004 | 野球 |
父は元プロ野球選手の黒田一博。
経歴
日本時代
父・黒田一博が監督を務めたボーイズリーグのチーム・オール住之江で活躍。上宮高から東都の専修大学へ進学。上宮高では控え投手だったが、大学にて力をつけエースに君臨。チームは4年生春から東都大学1部リーグに昇格する。同年から大学野球でのスピードガン場内表示が始まった神宮球場において、大学生で初めて球速150km/hを計時し注目を浴びた。1部リーグ通算6勝4敗。
1996年、ドラフト逆指名2位で広島東洋カープに入団。1999年、シドニーで行われたインターコンチネンタル杯に日本代表として出場し韓国戦で勝利、台湾戦で完封勝利を収める。同年、カープの先発ローテに名を連ねる。
若い頃はスピードはあるものの制球難で、好投したかと思えば次の登板で初回5失点するなど好不調の波が激しく、成績も不安定であったが、2000年9月20日の巨人戦から閉幕まで4連続完投勝利を挙げ、一本立ちを果たす。
2003年はそれまでのエース・佐々岡真司に代わって開幕投手となる。前半は不調で勝てない時期が続いたが、後半から本来の調子を取り戻し、最終的に13勝を挙げ3年連続2ケタ勝利を達成し、アテネオリンピック野球アジア予選にも出場。
2004年は6月20日に自己最速の157km/hを記録。アテネオリンピックでは野球日本代表中継ぎとして2勝し、銅メダル獲得に貢献。
2005年4月15日の横浜ベイスターズ戦では三浦大輔と互いに完封リレーを行い0-0というスコアで引き分けた。オールスターゲームではファン投票で選出され4年ぶりの出場を果たし、リーグ最多勝利で初タイトルを獲得。タイトル料込みで年俸2億円に達する。
2006年の国別対抗戦WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)には広島から新井貴浩と共に選出され、岩村明憲、福留孝介と共に「無名の注目選手」とされるも、2月24日の12球団選抜との練習試合で打球を右手に受け負傷。出場辞退を余儀なくされる。
5月31日にFA権を取得。本人は「これを機に他球団の評価も聞いてみたい」と語った。6月まで5勝6敗、防御率、WHIP1.11と安定した投球を続け、オールスターゲーム出場直前の7月2日の中日ドラゴンズ戦からは負け無しの8連勝を記録。7月は4勝0敗、防御率0.84、WHIP0.78の活躍で月間MVPをチームメイトの栗原健太と共に受賞。更に8月も続けて4勝0敗、防御率1.11、WHIP0.86の活躍で月間MVPを連続受賞。球団史上初の2ヶ月連続月間MVP受賞となった。この時、「広島カープの歴史に名前を残せて嬉しい」と発言した。しかし、9月には右ひじを痛めて長期離脱。10月16日の中日戦で救援で復帰登板、プロ初セーブを記録した。この年、13勝6敗1セーブ、WHIP1.00、防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得。1点台でのタイトル獲得は1992年の赤堀元之以来、セ・リーグでは1989年の斎藤雅樹以来の快挙となった。また、テンポの良い投球を評価されてスピードアップ賞を受賞。シーズン終盤、FA移籍の情報が各スポーツ紙を賑わせている真っ只中、長いカープの低迷と共にファンの熱も冷めてしまったと評されたファンが動き、完成させたのが広島市民球場外野席に突如現れた巨大横断幕である。それには多くのファンからのメッセージ、そして大きな文字で「我々は共に闘って来た 今までもこれからも… 未来へ輝くその日まで 君が涙を流すなら 君の涙になってやる Carpのエース 黒田博樹」と記されていた。更にシーズン最終登板試合には満員のファンが黒田の背番号15の赤いプラカードを掲げ球場を赤色に染め上げ、後に「あのファンの気持ちは大きかった」と述べた。この一連のエピソードは翌年7月に『誰がために〜黒田博樹物語〜』(漫画:吉原基貴、原案協力・取材:戸塚啓)として漫画化され、ヤングアニマル(白泉社)に掲載された。オフには監督のマーティ・ブラウンの奨めで渡米し右肘関節のクリーニング手術(数か月で投球可能となる軽い手術)を行った。
FA権取得に伴い、10月15日に球団から「4年10億円+生涯保障、指導者手形」という条件を提示される。年俸だけを単年ベースでみると、1年2億5000万円であり、2006年の年俸が2億円であることから、タイトル奪取などの活躍とFA宣言をもってしても5000万円のみの昇給で、以後3年は現状維持だが、カープで従来2億円超えを経験した選手は前田智徳と金本のみであり、破格の条件と言えた。そして11月6日に4年12億円(基本年俸2億5000万円+単年最大5000万円の出来高込。当初の条件に出来高を上乗せしている)でFA権を行使せずに残留することを表明。「今後も国内他球団の移籍はない」と明言し、国内なら「生涯広島」を宣言した。なおこの契約は、4年の契約期間内で自由にメジャーリーグ挑戦できるようになっていた。
FA権を行使せずに残留を決めたこと、残留会見での「僕が他球団のユニフォームを着て、広島市民球場でカープのファン、カープの選手を相手にボールを投げるのが自分の中で想像がつかなかった」、「僕をここまでの投手に育ててくれたのはカープ。そのチームを相手に僕が目一杯ボールを投げる自信が正直なかった」という発言は各方面に主に好意的な反響を呼んだ。また、この年の選手会のベストエピソード賞に選ばれ、黒田の野球用具を担当するSSKは、社を挙げて黒田をキャンペーンすることを決定した。そして市民に感動を与えたことが評価され、広島市は「広島市民表彰」を黒田に授与すると発表した(球団4人目)。
2007年も開幕投手となり、長谷川良平以来球団2人目の5年連続開幕投手となる。またデーゲームは大の得意で、6月3日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦では2003年7月6日からのデーゲーム13連勝を記録した。7月14日の東京ドームでの読売ジャイアンツ戦にて通算100勝を達成した(ちなみにプロ初勝利も東京ドームでの巨人戦だった)。オールスターゲームに2度目のファン投票選出で4度目の出場。例年夏場を得意としていたが、この年の8月からはクオリティ・スタートすら守れない試合が続き、8月と9月は2勝3敗、防御率4.58、WHIP1.48を喫した。
10月18日にFA権を行使する事を明らかにした。MLB球団は以前から黒田に目を付けており、特にテキサス・レンジャーズのゼネラル・マネージャーのジョン・ダニエルズが興味を示した発言をしていた。ジョー・アーボンと代理人契約を結び、12月1日に球団本部長の鈴木清明へ退団を申し入れ、メジャーリーグのチームへ移籍する事を明らかにした。その一方で記者会見では「評価されるのもカープのおかげで、また日本に帰ってプレーするならこのチームしかない」とも語った。
12月15日、ロサンゼルス・ドジャースと3年3530万ドルで契約を結んだことをAP通信が明らかにした。これにより、カープ初の日本人メジャーリーガー誕生となった。背番号は18だったが、会見場では08番を着けた。これはユニフォームが間に合わなかったためであり、同年にドジャースとマイナー契約したロバート・ブースが先に背番号08番を着けていた。ドジャースから提示された条件は4年契約だったが、契約年数短縮を申し出た。
メジャーリーグ時代
ロサンゼルス・ドジャース
2008年4月4日のサンディエゴ・パドレス戦でメジャーデビューし、初勝利[2]。6月6日のシカゴ・カブス戦でメジャー初完封を記録[3]。7月7日にはホームでアトランタ・ブレーブスを相手に9回1安打無四球完封勝利。7回終了時点までは完全試合の内容[4]で、最終的にも走者は8回に出した1人しか許さなかった。MLBにおいて新人投手が8回途中まで完全試合を続けるのは、1984年のオーレル・ハーシュハイザー以来初めて[5]で、完全試合を達成していれば、サンディ・コーファックスに次ぐドジャース史上2人目、日本人メジャー初の快挙となるはずだった[6]。監督のジョー・トーリから「どちらが本当の彼なのか」と言われるなど好不調の波も激しかった他[7]、好投しても打線の援護を得られなかった試合も多く9勝10敗でシーズンを終了したが、防御率とWHIP、クオリティ・スタートでリーグ20傑に入り、FIPではリーグ9位の3.59を記録。
2009年は野茂英雄、松坂大輔に次いで日本人史上3人目の開幕投手として4月6日のパドレス戦に登板。チームは4-1で勝利し2003年の野茂以来となる勝利投手となった。しかし直後に左脇腹を痛めて故障者リストに入り、前半戦はWHIP1.14と安定した投球を続けるも3勝5敗、防御率4.67を喫する。8月16日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではラスティ・ライアルの打球を頭部に受けるなど故障者リストに名を連ねる時期もあって規定投球回には達しなかったが、後半戦は5勝2敗、防御率2.98、WHIP1.13と好投を続けた。
2010年は2008年を上回るQSを記録し充実した投球内容であったが、好投した試合で打線の援護に恵まれない場合が多く、監督のジョー・トーリにも同情された。それでも8月30日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で10勝目を記録し、自身メジャー初の二桁勝利を達成した。後半戦は14試合に先発し防御率2.87、WHIP0.93。8月2日のパドレス戦での4回での降板以外は、全て6回以上を投げる安定した投球を続け、8月13日のブレーブス戦ではメジャーでの自己最速となる98mph(約158km/h)を記録。最終的に11勝、防御率3.39、投球回数196回1/3、奪三振数159と主要カテゴリーでメジャー自己最高の成績を記録する充実のシーズンとなった。
オフにはドジャースとの契約が終了しFAとなる。ESPNが作成したFA選手ランクリストでデレク・ジーターを上回るベスト30に入り「援護が少なく、勝利数が伸びなかったため過小評価されている」と高評価を受け、複数球団が獲得を目指し去就が注目された。一部報道で古巣広島へ復帰の可能性も報じられ、日本の球団も獲得に動いたが、11月15日に1年1200万ドル(約9億8400万円)でドジャース残留が決定。その後自身のブログで「日本に復帰するならカープしか考えていなかった」と改めて明言した[8]。
2011年7月1日のロサンゼルス・エンゼルス戦でメジャー通算100先発を達成。前半戦は18試合の登板で6勝、防御率3.06、WHIP1.22の成績で折り返すが、10敗を喫する。10敗中6試合がクオリティ・スタートだったが、前年に引き続き得点援護率がリーグワースト2位を記録するなど打線の援護に恵まれなかった。しかし、その投球内容は高く評価され7月までポストシーズン進出を目指す複数の球団がトレードでの黒田の獲得を目指していることが盛んに報じられたが、トレード期限前の7月30日にトレード拒否権を行使して残留。「プレーオフの魅力はあったし葛藤はあった。昨年契約した時ドジャースでやると決めたし、その原点に戻りました」とコメントした[9]。後半戦は14試合の登板で7勝6敗、防御率3.09、WHIP1.20と安定した投球を続け、シーズン通算では16敗を喫したものの13勝、リーグ9位の防御率3.07、161奪三振と主要3部門で2年連続キャリアハイを更新する記録をマークし、目標としていた初の200イニングにも到達した。
ニューヨーク・ヤンキース
2012年1月13日にニューヨーク・ヤンキースへの加入で合意し[10]、26日に正式発表された[1]。4月13日のエンゼルス戦で移籍後初勝利を挙げた[11]。
プレースタイル
2008年から2011年にかけて両リーグの現役先発投手中8位となる通算与四球率2.10と安定した制球力を誇り、スリークォーターから平均球速92.1mph(約148.2km/h)、最速157km/hを計測した速球(ツーシーム、フォーシーム)と平均球速87mph(約140km/h)の高速フォーク、平均球速84mph(約135km/h)の高速スライダー、最速150km/hを越えることもあるシュート(メジャーではシンカーまたはツーシームと呼称される)を武器にする本格派右腕で、カーブやカットボールも投げ分ける[12][13]。中でもスライダーとフォークはメジャーでも高い評価を得ており[14]、特にフォークはダン・ヘイレンのスプリッターと共に「現役最高のスプリッター」と評されている[15]。広島時代はフォーシームを主体としていたが、ドジャースに移籍する数年前から「ツーシーム系を内に、スライダー系を外に、フォークで高低をつける。打者が狙っている球を投げ、打たせて取ることが理想」という理想図を描いており、移籍後はフォーシームをほとんど投げずツーシーム主体の投球となった[16]。スライダーに関しては08年のシーズン序盤に痛打を浴びる事が多かったために握りを変えたという[17]。広島時代は完投数リーグ1位の年が6度もあるタフネスぶりから「ミスター完投」の異名を持った一方で[18]、完封数は年に1回程度。11年間で74完投を記録したが、完封に関しては14回に留まっている。
江川卓からは自著で「調子がいい時の彼のストレートは、ど真ん中に放っても打たれない」と評され、中日ドラゴンズ監督(当時)の落合博満は「今日(2006年7月2日、3安打完封)の黒田はオレが現役の時でも打てない。だからウチの選手が打てる訳がない」と評された[要出典]。
フィールディングの評価も高く、2008年には35のアシストを記録した[12]。1999年の甲子園での阪神戦では満塁で決勝のセーフティバントを成功させたことがある一方、打撃は苦手で連続無安打の記録を作ったこともあり、2010年に開幕から39打席無安打を続けた際には地元紙から「いくらピッチャーでもひどい」と酷評された[19]。
打線の援護に非常に恵まれないことで有名であり、先述した通りドジャース時代には毎年のように好投しながらも援護に恵まれずジョー・トーリ監督からも同情されている他、ESPNからも「援護が少なく、勝利数が伸びなかったため過小評価されている」と指摘されている。黒田が援護に恵まれない傾向は広島時代から指摘されているが(実際に2006年の広島時代に最優秀防御率でありながら援護率で最下位を記録している[20])、何故黒田がここまで援護に恵まれないのかは現在のところ本人やチームメート・専門家からの指摘は何もない。
人物
この選手の人物像に関する文献や情報源が必要です。 (2011年7月) |
- アメリカでも常に広島カープの試合を細かくチェックしている。自宅ではカープの試合をインターネットで見られるように契約し、視聴も出来る環境にした。
- メジャー移籍後も、広池浩司、大竹寛、上原浩治らと頻繁にメールを交わしている。
- ほぼ毎日キャッチボールを共にするクレイトン・カーショウとは10以上歳が離れていながらも仲が良く[21]、投球についてたびたび話し合ったり、プライベートでも頻繁に食事を共にしている。2011年にトレードでの移籍に心が傾いた際にもカーショウにだけ心境を明かしたという[22]。
- 上述のFA去就の言動が好意的にとられていることや、初のカープ出身メジャーリーガーということもあり、現在でも広島の地方ニュースやローカルのスポーツニュースで登板試合が毎回報道されている。
- 両親をガンで失ったため、癌の研究や啓発を行う活動に多額の寄付をしており、ロサンゼルスのメディアに紹介されたこともある。父が肺ガンになった際は入院先の広島に足しげく通い、メジャー挑戦を1年先延ばしにしたのは父の闘病を支えたい気持ちが強かったというのも理由のひとつだった[14]。
- 日本とはやり方の違うアメリカのトレーニングについては「アメリカに来たのでアメリカの野球を受け入れないと、自分のことも受け入れてもらえないと思った。こっちに来た以上はこっちのやり方も自分でトライしてみないと。そういう姿勢というのは、みんなに伝わると思う。アメリカの野球をしに来たので、調整法であれ、トレーニングであれ、一度受け入れることは大事」として積極的に取り入れ、「結果も毎年良くなっているので、アメリカのやり方を信じてトライしたのも僕にとっては良かった」と語っている[23]。
詳細情報
年度別投手成績
| 年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997 | 広島 | 23 | 23 | 4 | 1 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 601 | 135.0 | 147 | 17 | 63 | 0 | 4 | 64 | 8 | 1 | 72 | 66 | 4.40 | 1.56 |
| 1998 | 18 | 6 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 199 | 45.0 | 53 | 5 | 24 | 0 | 1 | 25 | 1 | 0 | 34 | 33 | 6.60 | 1.71 | |
| 1999 | 21 | 16 | 2 | 1 | 0 | 5 | 8 | 0 | -- | .385 | 406 | 87.2 | 106 | 20 | 39 | 1 | 3 | 55 | 4 | 0 | 70 | 66 | 6.78 | 1.65 | |
| 2000 | 29 | 21 | 7 | 1 | 0 | 9 | 6 | 0 | -- | .600 | 623 | 144.0 | 147 | 21 | 61 | 2 | 1 | 116 | 3 | 0 | 73 | 69 | 4.31 | 1.44 | |
| 2001 | 27 | 27 | 13 | 3 | 3 | 12 | 8 | 0 | -- | .600 | 786 | 190.0 | 175 | 19 | 45 | 1 | 8 | 146 | 7 | 0 | 72 | 64 | 3.03 | 1.16 | |
| 2002 | 23 | 23 | 8 | 2 | 1 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 671 | 164.1 | 166 | 16 | 34 | 3 | 1 | 144 | 1 | 0 | 69 | 67 | 3.67 | 1.22 | |
| 2003 | 28 | 28 | 8 | 1 | 4 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 827 | 205.2 | 197 | 18 | 45 | 2 | 3 | 137 | 5 | 1 | 77 | 71 | 3.11 | 1.18 | |
| 2004 | 21 | 21 | 7 | 1 | 1 | 7 | 9 | 0 | -- | .438 | 639 | 147.0 | 187 | 17 | 29 | 1 | 2 | 138 | 1 | 0 | 81 | 76 | 4.65 | 1.47 | |
| 2005 | 29 | 28 | 11 | 1 | 3 | 15 | 12 | 0 | 0 | .556 | 852 | 212.2 | 183 | 17 | 42 | 2 | 7 | 165 | 7 | 0 | 76 | 75 | 3.17 | 1.06 | |
| 2006 | 26 | 25 | 7 | 2 | 3 | 13 | 6 | 1 | 0 | .684 | 744 | 189.1 | 169 | 12 | 21 | 4 | 7 | 144 | 5 | 0 | 49 | 39 | 1.85 | 1.00 | |
| 2007 | 26 | 26 | 7 | 1 | 2 | 12 | 8 | 0 | 0 | .600 | 738 | 179.2 | 176 | 20 | 42 | 3 | 5 | 123 | 1 | 0 | 78 | 71 | 3.56 | 1.21 | |
| 2008 | LAD | 31 | 31 | 2 | 2 | 2 | 9 | 10 | 0 | 0 | .474 | 776 | 183.1 | 181 | 13 | 42 | 8 | 7 | 116 | 5 | 0 | 85 | 76 | 3.73 | 1.22 |
| 2009 | 21 | 20 | 0 | 0 | 0 | 8 | 7 | 0 | 0 | .533 | 485 | 117.1 | 110 | 12 | 24 | 1 | 1 | 87 | 5 | 0 | 59 | 49 | 3.76 | 1.14 | |
| 2010 | 31 | 31 | 0 | 0 | 0 | 11 | 13 | 0 | 0 | .458 | 810 | 196.1 | 180 | 15 | 48 | 13 | 5 | 159 | 12 | 0 | 87 | 74 | 3.39 | 1.16 | |
| 2011 | 32 | 32 | 0 | 0 | 0 | 13 | 16 | 0 | 0 | .448 | 838 | 202.0 | 196 | 24 | 49 | 6 | 5 | 161 | 12 | 1 | 77 | 69 | 3.07 | 1.21 | |
| NPB:11年 | 271 | 244 | 74 | 14 | 17 | 103 | 89 | 1 | 0 | .536 | 7086 | 1700.1 | 1706 | 182 | 445 | 19 | 42 | 1257 | 43 | 2 | 751 | 697 | 3.69 | 1.27 | |
| MLB:4年 | 115 | 114 | 2 | 2 | 2 | 41 | 46 | 0 | 0 | .471 | 2909 | 699.0 | 667 | 64 | 163 | 28 | 18 | 523 | 34 | 1 | 231 | 199 | 3.45 | 1.19 | |
- 2011年度シーズン終了時
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
表彰
- 最優秀投手:1回 (2005年)
- ベストナイン:1回 (2005年)
- ゴールデングラブ賞:1回 (2005年)
- 月間MVP:3回 (2005年5月、2006年7月、2006年8月)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (2003年)
- 優秀JCB・MEP賞:2回 (2001年、2006年)
- スピードアップ賞:1回 (2006年)
記録
- NPB投手記録
- 初登板・初先発・初勝利・初完投:1997年4月25日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、9回1失点 ※広島の新人として初登板初勝利は史上5人目、2011年5月現在でも8人しか記録していない快挙。その他の達成者は杉浦竜太郎(開幕完投勝利)、大田垣喜夫(開幕完投勝利)、佐々岡真司(完投勝利)、山内泰幸、黒田博樹(完投勝利)、小林幹英(救援勝利)、齊藤悠葵、福井優也。
- 初奪三振:同上、1回裏に松井秀喜から
- 初完封勝利:1997年6月3日、対阪神タイガース9回戦(西京極野球場)
- 初セーブ:2006年10月16日、対中日ドラゴンズ22回戦(広島市民球場)
- 通算1000投球回:2004年4月22日、対ヤクルトスワローズ6回戦(明治神宮野球場)、4回裏にジェイソン・ベバリンを三振で2死目を奪い達成 ※史上295人目
- 通算1000奪三振:2006年4月6日、対阪神タイガース2回戦(倉敷マスカットスタジアム)、5回表に赤星憲広から ※史上117人目
- 通算1500投球回:2006年8月18日、対横浜ベイスターズ14回戦(横浜スタジアム)、5回裏1死に金城龍彦を中飛で2死目を奪い達成 ※史上157人目
- 通算100勝:2007年7月14日、対読売ジャイアンツ11回戦(東京ドーム)、9回2失点完投勝利 ※史上123人目
- NPB打撃記録
- 初打点:1997年4月25日、対読売ジャイアンツ4回戦(東京ドーム)、4回表に西山一宇から押し出し四球
- 初安打:1997年5月27日、対読売ジャイアンツ8回戦(福岡ドーム)、5回表に槙原寛己から右前安打
- 初盗塁:2005年5月17日、対千葉ロッテマリーンズ1回戦(福山市民球場)、5回裏に二盗(投手:小野晋吾、捕手:橋本将)
- NPBその他記録
- オールスターゲーム出場:4回 (2001年、2005年 - 2007年)
- MLB
- 初登板・初勝利:2008年4月4日(現地時間)、対サンディエゴ・パドレス戦(ペトコ・パーク)
背番号
- 15 (1997年 - 2007年)
- 18 (2008年 - )
関連情報
著書
- 『決めて断つ』(2012年5月、ベストセラーズ)
ドラマ出演
- ドリーム☆アゲイン - 本人役で登場。
脚注
- ^ a b “「ワールドシリーズ制覇を」=黒田ヤンキース移籍発表-米大リーグ”. 時事通信 (2012年1月27日). 2012年1月27日閲覧。
- ^ “黒田7回1失点で初登板初勝利”. Sponichi Annex
- ^ “イチローは2打点、黒田はメジャー初完封”. Reuters
- ^ “黒田7回までパーフェクトの快投!2度目の完封勝利”. MAJOR.JP
- ^ “July 29, 1984 Cincinnati Reds at Los Angeles Dodgers Box Score and Play by Play”. Baseball-reference.com. Sports Reference, Inc. (1984年7月29日). 2008年7月7日閲覧。
- ^ “完全試合に迫った黒田、「素晴らしいサポート受けている」”. MAJOR.JP
- ^ 輝きを放ったルーキーたち『月刊スラッガー』2008年12月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-12、29頁。
- ^ ドジャース残留黒田がブログで騒動を謝罪 日刊スポーツ、2010年11月19日。
- ^ 黒田は悩んでド軍残留「眠れなかった」日刊スポーツ、2011年8月1日。
- ^ “黒田、ヤンキース移籍=1年契約で合意と米報道-米大リーグ”. 時事通信 (2012年1月14日). 2012年1月14日閲覧。
- ^ 重圧に打ち勝ったヤンキース・黒田、最高のNYデビュー sportsnaviコラム、2012年4月14日
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- ^ FanGraphs Hiroki Kuroda
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- ^ 2010-11 MLB投手白書 球種別解説&データファイル スプリッター スカウト部長の解説 『月刊スラッガー』2011年2月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌15509-2、19頁。
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- ^ NHK MLB2008 日本人メジャーリーガーの群像」
- ^ 小関順二、西尾典文、泉直樹『プロ野球スカウティングレポート2007』アスペクト、2007年、374-375頁頁。ISBN 978-4-7572-1338-8。
- ^ 友成那智、村上雅則『メジャーリーグ・完全データ選手名鑑2011』廣済堂出版、2011年、450頁頁。ISBN 978-4-331-51518-1。
- ^ Run supportの項目を参照
- ^ 好調ドジャースが浮上 最下位からの巻き返しsportsnaviコラム、2010年5月25日。
- ^ 黒田 ドジャース残留決断は名誉よりチームへの愛着スポニチ、2011年8月1日。
- ^ 黒田が苦しみを乗り越えて得たもの=2011シーズンを終えてsportsnaviコラム、2011年10月11日。