官軍
天皇及び朝廷に属する軍
官軍(かんぐん)は、君主に属する正規の軍のこと。日本においては天皇及び朝廷に属する軍を指す。

概要
尊皇思想が根ざす日本史上において「天皇陛下の軍隊である」という意識は、軍全体の士気にも大きく影響した。
対する言葉は「賊軍」。しかし、官軍・賊軍の立場はその状況次第で変動が激しく、天皇(朝廷)の勅書や後継をめぐる戦略が繰り返される傾向にある。江戸時代の民衆がこれを揶揄した歌(狂歌)があり、後に「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった諺も生まれている。
元々の歌は、
- 勝てば官軍 敗ければ賊よ 命惜むな 國のため
明治維新における官軍
「官軍」の呼称が用いられていた例として著名なのは、戊辰戦争において新政府軍が旧江戸幕府軍を賊軍として討伐した際のものである。
1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦い後、仁和寺宮彰仁親王を征討大将軍、有栖川宮熾仁親王を東征大都督に任じて諸道鎮撫使・諸道総督府などを各地に派遣した。この際、官軍は菊章旗(「錦の御旗」)を掲げた。鎮撫使や総督府には長州藩・薩摩藩などを雄藩の実力者が参謀などとして参加していた。
官軍といっても実態は新政府側についた諸藩の軍と草莽の部隊によって構成され、大都督府がこれらの部隊を統制した。また、各地に民政局を設置して窮民保護を掲げて民衆に宣伝を行った。その一方で、窮民保護方針に基づく「年貢半減令」を伝達した赤報隊を偽官軍として弾圧したり、世直し一揆を鎮圧するなど、宣伝と矛盾する措置が行われたこともあった。
備考
- 『日本書紀』の記述では、神代、神武東征のおり、長脛彦軍と「孔舎衛の戦い」の際、五瀬命が流れ矢で致命傷を受け、助からないとわかった時、のちの神武天皇は長脛彦軍を「賊」として表現しており、官軍意識を強調した内容が神話の時点でみられる。
- 神武東征では、女性部隊も存在し、戊午の年9月5日条に、「女軍(めのいくさ)」を女坂に置き、11月7日条では、女軍を進ませ、敵は大兵が来たと思って、尽力して迎え討ったとあり、官軍が女兵を用いた例である。
参考文献
- 井上勝生「官軍」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4)