法典調査会
法典調査会(ほうてんちょうさかい)は、明治時代に内閣に設置された、法典の起草・審議・編纂を行なう機関である。通常、1898年(明治31年)の大規模再編を境に、前期と後期に区分される。前期法典調査会では現行民法典・商法典が創られるなど[1]、日本の法典整備に大きな役割を果たした。
概要
法典の整備は、明治政府による不平等条約改正のための必須条件であったが、法典論争によって旧民法および旧商法の施行が延期され、既成法典(旧法典)は1896年(明治29年)12月末までに内容を修正すべきものとされた。これを受けて1893年(明治26年)3月21日、時の首相・伊藤博文は、後の法典調査会の主要メンバーとなる数名の法律家を官邸に招いて協議を行い、同年3月25日、勅令第11号「法典調査会規則」に基づき法典調査会を内閣に設置した。
組織および審議手続
前期
前期法典調査会は、1894年(明治27年)3月の組織改編を境に第1期と第2期に区分され、施行が延期されていた民法と商法が優先的に起草・審議された。
- 前期第1期
1893年(明治26年)当初の組織構成は、同年4月27日内閣送第3号「法典調査規程」により、総裁1名・副総裁1名・主査委員20名・査定委員30名とし、主査委員中から起草委員3名のほか、整理委員、報告委員が置かれ、各起草委員には専属の書記(後の補助委員)が附された。また、審議手続は、主査委員会・総会の二段階を踏むものとされた。
- 前期第2期
発足から1年後の1894年(明治27年)3月27日、審議時間の短縮と効率化を図るため、勅令第30号により、組織および審議手続が改正された。主査委員・査定委員の区別は廃止されて単なる「委員」に統一され(定員は35名以内)、主査委員会・総会も統合されて「委員会」による1回の審議に変更された。一方、これを機に、欠席の多い委員の罷免も行われている。
- 総裁・副総裁
法典調査会の総裁と副総裁は内閣が替わる度に交代し、総裁は内閣総理大臣が務めた。第2次伊藤内閣では、伊藤博文が総裁、西園寺公望が副総裁に就任し、第2次松方内閣では、松方正義が総裁、清浦奎吾が副総裁に就任した。第3次伊藤内閣では、再び伊藤が総裁、西園寺が副総裁に就任し、後に曾禰荒助が西園寺に代わって副総裁に就任した。
- 起草委員
民法起草委員には梅謙次郎・富井政章・穂積陳重の三名が、商法起草委員には梅謙次郎・岡野敬次郎・田部芳の三名が任命された。
後期
後期法典調査会はいくつかの部に分けられ、刑法典の改正作業は法典調査会第三部で行なわれた。
- 刑法改正案の起草・編纂
刑法改正案が法典調査会で審議されるようになるのは、1899年(明治32年)以降の後期法典調査会においてである。それまで刑法典の改正作業は司法省内に設置された「刑法改正審査委員会」で進められていたが[2]、そこで起草にあたっていたメンバーが法典調査会でも刑法典起草を担った。すなわち、刑法改正審査委員会の委員長であった横田国臣は法典調査会第三部の部長となり、委員であった倉富勇三郎・古賀廉造・石渡敏一の三名が法典調査会での刑法起草委員となった。
- 法典調査会の廃止以降
1903年(明治36年)に法典調査会が廃止された後は、司法省に設置された「第2次法律取調委員会」に法典編纂事業が引き継がれ、刑法改正案は1907年(明治40年)になってようやく帝国議会を通過し、現行刑法として成立した。
発言回数ランキング
法典の起草・編纂に対する貢献度を測るひとつの物差しとして、法典調査会での発言回数が挙げられる[3][4]。以下、その発言回数のランキング[5]を掲載する。
順位 | 氏名 | 発言回数[6] | 前期法典調査会での役職[7] |
---|---|---|---|
1 | 梅謙次郎 | 7963回 | 主査委員・民法起草委員・商法起草委員 |
2 | 箕作麟祥 | 5395回 | 主査委員 |
3 | 穂積陳重 | 4150回 | 主査委員・民法起草委員 |
4 | 富井政章 | 3748回 | 主査委員・民法起草委員 |
5 | 横田国臣 | 2815回 | 主査委員 |
6 | 土方寧 | 2586回 | 主査委員 |
7 | 高木豊三 | 2293回 | 主査委員 |
8 | 西園寺公望 | 2186回 | 副総裁 |
9 | 長谷川喬 [8] | 2042回 | 主査委員 |
10 | 磯部四郎 | 1988回 | 査定委員 |
11 | 田部芳 | 1029回 | 主査委員・商法起草委員 |
12 | 尾崎三良 | 761回 | 査定委員 |
13 | 穂積八束 | 702回 | 査定委員 |
14 | 伊藤博文 | 594回 | 総裁 |
15 | 末松謙澄 | 429回 | 主査委員 |
16 | 本野一郎 | 415回 | 主査委員 |
17 | 奥田義人 | 392回 | 査定委員 |
18 | 元田肇 | 377回 | 主査委員 |
19 | 重岡薫五郎 | 372回 | 委員 |
20 | 岸本辰雄 | 340回 | 査定委員 |
21 | 清浦奎吾 | 281回 | 副総裁 |
22 | 井上正一 | 272回 | 査定委員 |
23 | 村田保 | 235回 | 主査委員 |
24 | 三浦安 | 203回 | 査定委員 |
25 | 菊池武夫 | 194回 | 主査委員 |
26 | 山田喜之助 | 174回 | 査定委員 |
27 | 鳩山和夫 | 150回 | 主査委員 |
28 | 中村元嘉 | 149回 | 査定委員 |
29 | 都筑馨六 | 140回 | 査定委員 |
30 | 金子堅太郎 | 96回 | 査定委員 |
31 | 星亨 | 91回 | 査定委員 |
32 | 三崎亀之助 | 74回 | 主査委員 |
33 | 岡野敬次郎 | 72回 | 商法起草委員 |
34 | 末延道成 | 63回 | 査定委員 |
35 | 山田東次 | 50回 | 査定委員 |
36 | 大岡育造 | 46回 | 査定委員 |
37 | 木下広次 | 45回 | 主査委員 |
38 | 曾禰荒助 | 40回 | 副総裁 |
39 | 岡村輝彦 | 35回 | 査定委員 |
40 | 南部甕男 | 33回 | 査定委員 |
41 | 熊野敏三 | 20回 | 主査委員 |
42 | 渋沢栄一 | 18回 | 査定委員 |
42 | 河村譲三郎 | 18回 | 委員 |
44 | 関直彦 | 17回 | 査定委員 |
45 | 江木衷 | 13回 | 査定委員 |
45 | 富谷鉎太郎 | 13回 | 委員 |
47 | 斯波淳六郎 | 10回 | 査定委員 |
48 | 阿部泰蔵 | 9回 | 査定委員 |
48 | 小笠原貞信 | 9回 | 査定委員 |
50 | 伊東巳代治 | 6回 | 主査委員 |
51 | 河島醇 | 5回 | 査定委員 |
52 | 小中村清矩 | 4回 | 査定委員 |
53 | 寺尾亨 | 1回 | 委員 |
53 | 小宮三保松 | 1回 | 委員 |
55 | 本尾敬三郎 | 0回 | 主査委員 |
55 | 島田三郎 | 0回 | 査定委員 |
55 | 木下周一 | 0回 | 査定委員 |
55 | 千家尊福 | 0回 | 査定委員 |
55 | 高田早苗 | 0回 | 査定委員 |
55 | 細川潤次郎 | 0回 | 査定委員 |
55 | 神鞭知常 | 0回 | 査定委員 |
55 | 西源四郎 | 0回 | 委員 |
55 | 松方正義 | 0回 | 総裁 |
55 | 鶴原定吉 | 0回 | 委員 |
55 | 加藤正義 | 0回 | 委員 |
55 | 内田嘉吉 | 0回 | 委員 |
55 | 倉富勇三郎 | 0回 | 委員 |
- | 仁井田益太郎 | - | 補助委員(富井政章付) |
- | 仁保亀松 | - | 補助委員(穂積陳重付) |
- | 松波仁一郎 | - | 補助委員(梅謙次郎付) |
参考文献
- 穂積陳重『法窓夜話』(岩波書店、1980年)
- 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(1)」『法学セミナー』653号(日本評論社、2009年5月)
- 吉井蒼生夫「現行刑法の制定とその意義」『裁判と法の歴史的展開』杉山晴康編(敬文堂、1992年5月)
脚注
- ^ ただし、その後も改正を繰り返しながら現在に至っている。
- ^ 刑法改正審査委員会は1892年(明治25年)1月に設置されたもので、当初の委員長は三好退蔵であったが、翌月には横田国臣が委員長となり、横田が中心となって起草作業が進められた。
- ^ 仁井田益太郎によると、ほとんど発言のなかった者も、これらの人々が納得するものを作ることが必要であるということで、重要な役割を果たしたという。「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」『法律時報』10巻7号25頁
- ^ 梅は編纂に際して法典の早期完成を最重要視して極力原案の維持を図ったことから、発言回数が異常に多くなっている。起草原案の作成にはむしろ穂積・富井の見解が採用された部分が多いが、穂積は梅の貢献度を高く評価している。なお箕作の発言は議長としてのものが大半。梅謙次郎「法典二関スル話」『国家学会雑誌』12巻134号542-543頁(国家学会、1898年)、穂積陳重『法窓夜話』96話
- ^ 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(1) 〔図表2〕法典調査会発言回数ランキング」『法学セミナー』653号と「法典調査会の構成メンバー」『ジュリスト』1331号(有斐閣、2007年4月)を基に作成。
- ^ 主査委員会・総会・委員会・整理会での発言回数の合計。なお、実際には書記による朗読が相当数あるが、人名を特定できないため数に入っていない。
- ^ ただの「委員」となっているものは、主査委員・査定委員の区別が廃止された後に委員になった者を指す。
- ^ 当時大審院判事。磯部と並び、民法修正案原案を改良するのに貢献度が非常に高かったという。仁井田・前掲