甲信地方
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甲信地方(こうしんちほう)とは、日本の地方区分の一つで、中部地方の内陸部に位置する山梨県と長野県の総称である。場合によっては、岐阜県の一部または全体を含める事もある。
範囲
- 行政での甲信地方であり、現行の県で区分した範囲。
自然地理
糸魚川静岡構造線(糸静線)が縦断し、諏訪湖から南に中央構造線が走る。糸静線沿いに上高地や安曇野、赤石山脈(南アルプス)が位置する。
地域
内陸部に位置する甲信地方は、中山道と甲州街道が通っている地方であるが、大きく分けて中央自動車道沿線(太平洋側ルート)と、上信越自動車道沿線(日本海側ルート)に分けられる。
主な地域間交流
- 中央道・中央本線の沿線
- 山梨県西半分
- 松本、諏訪市(=上諏訪)など。諏訪湖を中心にした地域圏。松本が文化や行政の中心として、下諏訪(甲州街道と中山道の合流点)が交通の中心として機能している。
- 甲府と名古屋の双方からの結び付きが、比較的密である。名古屋からのアクセスの良さから、東海三県の私立大学が、松本で地方入試を実施する事もある。
- 木曽谷の町村
- 飯田線沿線
長野や軽井沢を初めとする上信越道・国道18号の沿線は、日本海側である北陸地方の影響が大きく、中央道沿線との結び付きは弱い(→上信越)。
主な区割り
- 国政選挙
- 山梨県・・・南関東ブロック
- 長野県・・・北陸信越ブロック
- 岐阜県・・・東海ブロック
- 山梨県・・・関東大会
- 長野県・・・北信越大会
- 岐阜県・・・東海大会
道州制と甲信地方
以上のように、太平洋側ルートと日本海側ルートに分かれているために、上記のような現行の県での区割りでは、交通網の広がりと一致させる事が困難であるとも言える。道州制の区割りでは、これを解決するために、現行の県を分割した上で合併する(分合両用)案も出されている。
- 道州制を巡る甲信地方の区割り
- 共に富士山麓に位置する山梨県と静岡県が合併する案。この場合、狭義の南関東と合併するか、東海三県(中京地方)と合併するかの二通りのパターンがある。
- 平松守彦・前大分県知事が山梨県と静岡県の合併案を提案しているが、平松案では、山梨県・岐阜県全域・静岡県全域を「東海道」として、長野県全域を「北陸信越道」として区分している。
- 長野県が「北陸道」に入るパターン
- 北陸地方、特に新潟県では、広義の北陸地方に長野県全域を加えて、「北陸信越道」とする案が出されている。上信越道沿線ではこの案に肯定的であるが、木曽郡や伊那地方などの中央道沿線では、この案に否定的である。
- 関東・甲信越
- 東京の官界や財界では、山梨県・長野県全域・新潟県(北陸東部)を一緒にして「甲信越」と呼び、関東の外延部として扱うパターンが見られる。しかし、便宜的な区分であり、この三地域一帯での総まりは無いに等しい。
- 中部五県
経済
経済史
涼しい気候を利用して、明治時代には養蚕業が多く立地し、高山盆地や伊那盆地の山村から女性工員が、諏訪湖界隈に多く集まった。そして、第二次大戦後は時計などの精密機器工業が多く立地している。この経緯から、特に諏訪市・諏訪大社周辺は、「日本のスイス」とも呼ばれている。
林業地帯でもあり、伊那盆地・高山盆地・木曽谷の木材が知られる。江戸時代には、木曽や飛騨の木材は、瀬戸市や多治見の陶器と列んで、尾張藩(尾張徳川家)の一大産業でもあった。
第一次産業
第二次産業
交通
交通史
律令時代には、畿内を中心とした地方区分であったため、東山道は畿内から東の内陸部に伸びる道路として整備された。
戦国時代には、武田家が甲府を本拠地として甲信地方を領していたため、武田家を中心とする軍勢によって、甲信~東海間の連絡線が整備された。この連絡線は、現在の国道52号や国道151号・国道153号などの源流となった。
江戸時代になると、中山道と甲州街道が整備され、東海道と列ぶ幹線ルートとなった。尚、中山道は、信濃追分で北国街道と分岐し、下諏訪で甲州街道と合流するルートとなっている。
明治時代以後は、名古屋以西の東海道ルートと、土岐以西の中山道ルートが変更され、名古屋を中心とする放射状交通網が整備された。これ以後は、中山道沿線である岐阜は東海道ルートに取って代わり、中央本線は名古屋駅を終点とする事になった。
(※ 中山道 のページも合わせて参照する事。)
主な鉄道
太平洋ルート |
日本海ルート |
主な道路
太平洋ルート |
日本海ルート |