名古屋鉄道
名古屋鉄道株式会社(なごやてつどう、英称 Nagoya Railroad Co.,Ltd.)とは、愛知県・岐阜県を基盤とする大手私鉄である。通称、名鉄(めいてつ、英称 Meitetsu)。本業の鉄・軌道業では、この両県に総営業距離約445kmにおよぶ近鉄・東武に次いで日本の私鉄第3位の路線網を擁している。本社は愛知県名古屋市中村区名駅一丁目2番4号、JR名古屋駅に隣接する名鉄名古屋駅上に設けた名鉄バスターミナルビル内に置いている。
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 市場情報 | |
| 略称 | 名鉄 |
| 本社所在地 |
450-8501 愛知県名古屋市中村区名駅一丁目2番4号 |
| 設立 | 1921年(大正10年)6月13日 |
| 業種 | 陸運業 |
| 法人番号 | 8180001031837 |
| 事業内容 | 旅客鉄道事業 他 |
| 代表者 | 代表取締役社長 木下栄一郎 |
| 資本金 | 747億1230万円(2005年3月末現在) |
| 売上高 | 1,092億円(2004年度・単独) |
| 決算期 | 3月31日 |
| 主要子会社 | 名鉄バス・名鉄百貨店・豊橋鉄道・大井川鐵道・名鉄運輸など |
| 外部リンク | meitetsu.co.jp/ |
名古屋鉄道は、中部地方を中心に日本国内でも有数の不動産所有企業であり、これらを中心に「開発事業」も経営の重要な柱となっている。関連事業を中心に多角的な企業展開を行っており、連結決算の対象・非対象併せて200社以上のグループ企業がある。
2005年に開港した中部国際空港(セントレア)に空港連絡鉄道として乗り入れる唯一の鉄道会社でもある。
なお、保有する車両関係の詳細は下記「車両」の項にある各形式の、営業路線の詳細は同「路線」の項にある各路線のリンクを参照のこと。
また、関連項目として以下の記事もあるので、各々の詳細はそちらも参照されたい。

沿革
創業・黎明期
現在の名古屋鉄道(名鉄)は、太平洋戦争の終結以前に中京圏の多くの鉄道会社が合併して成立したものであるが、その起源は1894年(明治27年)6月に名古屋市内で馬車鉄道を運行する名目で設立された企業の「愛知馬車鉄道」である。同社は当初から「電気鉄道」の運行を目論んでいたが、当時の当局(内務省)が最先端技術を使用した「電気鉄道」の設立・路線免許の申請を受け付けられず、取敢えず前例がある「馬車鉄道」として設立許可・路線免許を得て発足した。
その後、先行していた京都電気鉄道(後、市営化され京都市電となる)の支援を受けつつ「電気鉄道」の路線免許を得て、1896年(明治29年)6月には社名を「名古屋電気鉄道」(名電)に改め、京都市についで日本で2番目の電車運行を開始し、以後、同社は市内のみならず郊外へも次第に路線を延ばし、尾張北中部の各市町と名古屋市を結ぶ路線を充実させていった。
明治末期から大正時代に入ると、東京市(当時)はじめ主要都市では市内電車の「市営化」が進み、名電も名古屋市から市内路線の買収を申し入れられていた。当時の名電は郊外路線の拡充に精力を傾けている時であり、ドル箱である市内路線の譲渡は会社の存立基盤を危うくするため、時代の趨勢は感じつつも譲渡時期の引き延ばしを図っていた。折り悪しく「大正デモクラシー」の風潮も手伝って、1914年(大正3年)には市民(群集)による本社・駅設備・車両等に対する焼き討ち事件が発生した。
名電は市内線の譲渡を決断して、1919年(大正8年)に熱田電気軌道を合併した後、郊外線部門を分離するため1921年(大正10年)(旧)「名古屋鉄道」を新たに設立、市内線を1922年(大正11年)8月に名古屋市へ譲渡して名古屋市電とし、名電は解散した。
また、1909年(明治42年)には、名古屋以西の路線(名古屋本線の東枇杷島駅以西・犬山線など)を建設していた名古屋電気鉄道に対し、以東の路線(名古屋本線の神宮前駅以東・常滑線など)を建設する事になる「知多電車軌道」(後に「愛知電気鉄道」と改称)も設立された。
「名鉄」誕生の経緯
現在の名鉄は、1935年(昭和10年)に、(旧)「名古屋鉄道」が1930年(昭和5年)9月に改称した「名岐鉄道」(名岐)と「愛知電気鉄道」(愛電)が合併して誕生したものである。
大正中期から昭和初期の愛電は、福沢諭吉の甥(後に養子)である福沢桃介が経営に携わり、自らの構想である「東海道電気鉄道」(日本電気鉄道の計画を引き継ぎ、東京~名古屋間の鉄道敷設を目論んで、豊橋市まで免許を収得)の実現に向けて、当時としては画期的な高速鉄道を目指して神宮前~豊橋間の路線を高規格で建設していた。このため設備投資が嵩んで相当な負債を抱えており、あまつさえ、当時の日本はアメリカに端を発した世界恐慌による強烈な不況風が全国に吹き荒れていたこともあって、愛電は深刻な経営難に陥っていた。 その後、福沢は経営責任を取る形で愛電から手を引いたものの、福沢の理想主義的で強引な経営手法を間近に見て学んだ藍川清成らが経営を引き継ぎ、結局、会社の体質そのものは変わらなかった。一方、合併前の名岐は多額の内部留保を蓄えて名古屋式経営のお手本とも言うべき無借金経営を行っており、資本金の規模こそほぼ同等ではあったが、その財務内容には雲泥の差が付いていた。
折りしも1930年代の日本は、世界恐慌を境として欧米列強との戦時(対決)色が強くなり始めた頃であり、民間企業の間にも次第に競争から合同(民族団結)への機運が高まってきた。その時点では、戦時立法である「国家総動員法」や「陸上交通事業調整法」の成立前であったが、長引く昭和恐慌の影響もあって、交通事業の再編が名古屋財界の有力者を中心に民間主導の型で進められることとなった。
当初名岐側は、事実上「愛電の救済合併」との意味合いが強いこの合併を渋っていたものの、当時の名古屋市長が仲立ちしたこともあって結局この話を断れず、更には愛電側の顔を立てるため表面上は対等合併(合併比率は名岐1:愛電0.8)の形を取って行われた。 このため、新生「名古屋鉄道初代社長」の座は名岐社長の跡田直一が就任する筈であったが、合併日(8月1日)を目前にして病死した事から、急遽、愛電社長の藍川がその座に就く事となり、旧名岐の社員からは、病床にあった跡田の死を見越した「藍川の会社乗っ取り」との声も聞かれた。 「陸上交通事業調整法」が施行された後も、愛知・岐阜の交通各社は法律(強制統合)の直接的な対象とはならず、名鉄を中心とした統合は「戦時」と言う時勢の後押し(法律の趣旨に沿うための半強制的な風潮)はあったものの、形式上は各社の自主的な判断で行われた。
戦中・戦後の動き
合併後の名鉄は最初の課題として、旧名岐鉄道路線(西部線)と旧愛知電気鉄道路線(東部線)の連絡線建設を進め、国鉄(当時)名古屋駅の移転跡地を譲受し、そこに新ターミナルとして地下駅の「新名古屋駅」(現、名鉄名古屋)を建設・開業し、新生名鉄(東西連絡)のシンボルとした。新駅には手狭になった西部線のターミナル押切町を置き換える目的もあったため、まず西部線から建設を進め、次第に物資統制が厳しくなる中にあって1941年(昭和16年)に完成・開業させ、その後、東部線のターミナル神宮前までの路線建設に着手し、1944年(昭和19年)に連絡線が開通した。その間、太平洋戦争の開戦など情勢は日増しに悪化する中、戦時緊急整備路線の指定を受けたものの、物資の調達には困難を極め、新名古屋~山王間の高架(築堤)部分を木材で建設するなど、急場しのぎの工事であった。また、線路は繋がったものの、当初同時期に予定された西部線の昇圧工事はこの情勢では見送らざるを得ず、金山を境にして以西は架線電圧が600Vに据え置かれ、結局、架線電圧が1500Vの東部線とは直通運転が出来ないままに終戦を迎えた。
終戦直後は、名鉄も他の各私鉄・国鉄(当時)と同様に車両や設備の疲労・消耗が激しく、定時運行も侭ならない、更には満足な資材とて揃わない中ではあったが、いち早く西部線の主要各線を東部線と同じ1500Vへ昇圧する工事に着手し、東西路線の一体化を戦後復興の第一目標に据えて取り組んだ。この結果、戦災の傷が未だ癒えない1948年(昭和23年)には第一次の昇圧工事が完成し、新岐阜(現、名鉄岐阜)・新鵜沼~新名古屋(現、名鉄名古屋)~神宮前~豊橋・常滑間が一体的に運営されるようになり、現在の運行形態の基礎が出来上がった。
主要年表
愛知馬車鉄道~名岐鉄道
愛知馬車鉄道・名古屋電気鉄道
- 1893年(明治26年)6月 名古屋駅前~県庁前・名古屋駅前~枇杷島間に馬車鉄道敷設特許を申請。(1894年3月特許)
- 1894年(明治27年)6月 愛知馬車鉄道設立。
- 1896年(明治29年)6月 愛知馬車鉄道、動力を馬から電気に改めて社名を名古屋電気鉄道に改称。
- 1898年(明治31年)5月 笹島~県庁前(現在の名古屋市中区栄付近)間を開業。京都に次ぐ、日本で2番目の電車営業を開始した。
- 1901年(明治34年)2月 路線拡張に乗務員の増員が間に合わず、初の労働争議が発生。乗務員が2日間ストライキを行う。
- 1906年(明治39年)12月 尾張電車鉄道・一宮電気鉄道が名古屋電気鉄道への吸収合併に合意し、競願していた押切~岩倉~一宮間・押切~津島間・岩倉~犬山間の軌道敷設特許を取得。名古屋市郊外へ進出する足掛かりを掴む。
- 1912年(明治45年)3月 アメリカのインターアーバン視察を元に、初の郊外線となる押切駅(当時の名古屋側ターミナル駅、後の押切町駅)~枇杷島駅(後の枇杷島橋駅、現・枇杷島分岐点)間開業。
- 1913年(大正2年)11月 郡部線の始発駅として柳橋駅開業。郡部線車両の市内線(押切町~柳橋間)乗入れ開始。
- 1915年(大正4年)10月 皇太子(当時、後の昭和天皇)市内線(白鳥~築港間)にご乗車。
- 1919年(大正8年)4月 熱田電気軌道を合併。
- 1921年(大正10年)6月 市内線(路面軌道)部門を全て名古屋市へ譲渡するための準備として、「郡部線」部門の経営母体となる(旧)名古屋鉄道を名古屋電気鉄道の全額出資会社として設立。
(旧)名古屋鉄道・名岐鉄道
- 1921年(大正10年)7月 名古屋鉄道、名古屋電気鉄道から「郡部線」部門の譲渡(資産の現物出資と「郡部線」を担当する社員の移籍)を受ける。
- 1922年(大正11年)8月 名古屋電気鉄道、市内線部門も名古屋市に譲渡(移籍)して解散。市内線部分は名古屋市電(名古屋市電気局・現交通局)となる。
- 1925年(大正14年)8月 1896年(明治29年)6月に創立され、現在の尾西線を当時運営していた尾西鉄道が名古屋鉄道に合併される。
- 1927年(昭和2年)11月 昭和天皇の犬山行幸時に押切町~犬山橋間を往復ご乗車。
- 1928年(昭和3年)4月 岐阜へ直接向かう路線の延長を計画し、その第一歩となる押切町駅~新一宮駅(現名鉄一宮駅)間が開業。
- 1930年(昭和5年)8月 1909年(明治42年)11月に創立され、現在廃止された岐阜市内線・揖斐線・美濃町線を当時運営していた美濃電気軌道が名古屋鉄道に合併される。
- 1930年(昭和5年)9月 名古屋鉄道、名岐鉄道に社名変更。
- 1932年(昭和7年)10月 省線(当時)高山線へ直通列車(柳橋~下呂間)を運転開始。(戦況悪化により中止)
- 1935年(昭和10年)3月 1924年(大正13年)4月に創立され、現在の各務原線を当時運営していた各務原鉄道が名岐鉄道に合併される。
- 1935年(昭和10年)4月 木曽川橋梁の完成により新一宮(現、名鉄一宮)~笠松間が開通し、押切町~新岐阜(現、名鉄岐阜)間が全通。新製車のデボ800形電車を用いて、押切町~新岐阜間を34分で結ぶ直通特急を設定。
愛知電気鉄道
- 1909年(明治42年)9月 知多電車軌道設立、軌道法による熱田~常滑間の特許を申請。
- 1910年(明治43年)11月 軽便鉄道法による鉄道に申請を切り替え、社名を愛知電気鉄道に改称。
- 1912年(明治45年)2月 初の路線である、伝馬町(現在廃止、名古屋市熱田区)~大野間(現常滑線大野町駅)を開通。
- 1913年(大正2年)8月 現在の常滑線にあたる、神宮前~常滑間が全線開業。
- 1917年(大正6年)3月 名古屋本線の東側の第一歩にあたる、有松線(現名古屋本線の一部)神宮前~笠寺(現本笠寺)間開業。
- 1922年(大正11年)7月 1920年(大正9年)8月に設立され、御器所(名古屋市昭和区)~下地町(豊橋市)間の鉄道免許を得ていた東海道電気鉄道が愛知電気鉄道に合併される。
- 1926年(大正15年)4月 豊橋線(現名古屋本線の一部)東岡崎~小坂井間開通。豊川鉄道の豊川まで直通運転を開始。
- 1926年(大正15年)12月 1910年(明治43年)2月に創立され、岡崎新駅~西尾駅~吉良吉田駅~吉田港駅・西尾駅~平坂駅間の鉄道(西尾駅~吉良吉田駅間は現在の名鉄西尾線の一部、他は現在廃止)の鉄道を運営していた西尾鉄道が愛知電気鉄道に合併される。
- 1927年(昭和2年)6月 伊奈~吉田(現、豊橋)間を開通により、神宮前~吉田間全通。豊川鉄道との相互乗入れ(双方の単線を相互利用して複線運転)を開始。新製の電7形電車を用いて、直通急行(1往復のみ特急)運転開始。このとき特急は63分、急行は72分運転であった。なお、この特急の表定速度は当時日本一となる59km/hを誇った。
- 1930年(昭和5年)4月 電鉄事業と並ぶ主力事業であった電灯事業(電力供給)を分離、翌年に東邦電力へ事業譲渡。
- 1930年(昭和5年)9月 電9形電車を用いて、神宮前~吉田間を57分で結ぶ超特急「あさひ」運行開始。
- 1934年(昭和9年)5月 神宮前駅本屋を東海道線の西側に新築移転。
名古屋鉄道
戦前・戦中
- 1935年(昭和10年)8月 名岐鉄道と愛知電気鉄道が合併、(新)名古屋鉄道が発足した(形式上は「名岐鉄道」が存続会社となって同時に(新)「名古屋鉄道」と改称し、「愛知電気鉄道」は解散した)。
- この日より、旧「名岐鉄道」の各線を「西部線」、旧「愛知電気鉄道」の各線を「東部線」と総称した。
- 1938年(昭和13年)5月 現在の中央道特急バスの前身となる、名古屋~飯田間の急行バスを飯田街道(国道153号線)経由で運転開始(1941年8月休止、1952年7月再開)。
- 1939年(昭和14年)9月 1902年(明治35年)3月に創立され、現在の瀬戸線を当時運営していた瀬戸電気鉄道を名鉄が合併。
- 1940年(昭和15年)9月 1922年(大正11年)3月に創立され、現在の豊橋鉄道渥美線を当時運営していた渥美電鉄を名鉄が合併。
- 1941年(昭和16年)6月 1912年(明治45年)に創立され、現在の三河線、蒲郡線を運営していた三河鉄道を名鉄が合併。
- 1941年(昭和16年)8月 東枇杷島駅(移設)~新名古屋(現、名鉄名古屋)駅間を開業。「郡部線」当時からのターミナルであった押切町駅~東枇杷島駅間と柳橋駅までの市電乗り入れを廃止し、国鉄(現JR)名古屋駅前に地下線(駅)で乗り入れる。
- 1943年(昭和18年)2月 1927年(昭和2年)に創立され、現在の河和線を運営していた知多鉄道を名鉄が合併。
- 1943年(昭和18年)3月 1926年(大正15年)に創立され、現在の広見線の一部区間を当時運営していた東美鉄道と、1919年(大正8年)に創立され、現在の竹鼻線を当時運営していた竹鼻鉄道を名鉄が合併。
- 1943年(昭和18年)8月 子会社の名鉄自動車へ名鉄直営のバス事業を譲渡・統合。同時に愛知県内の尾三自動車ほか4社も名鉄自動車が合併。
- 1944年(昭和19年)3月 1925年(大正14年)5月に創立され、現在の西尾線の一部を運営していた碧海電気鉄道と、1924年(大正13年)1月創立で、現在廃止された谷汲線を当時運営していた谷汲鉄道、並びに元来共に現在のJR東海飯田線の一部を運営していたが、既に鉄道路線が国家買収されていた豊川鉄道(1896年(明治29年)2月設立)と鳳来寺鉄道(1921年(大正10年)9月設立)を名鉄が合併。
- 1944年(昭和19年)9月 旧名岐鉄道系の路線(西部線)と旧愛知電気鉄道系の路線(東部線)が、金山駅(翌1945年に金山橋駅に改称。現、金山駅)で繋がる。
戦後
- 1945年(昭和20年)12月 GHQ(駐留軍)の指導により、名古屋鉄道労働組合(名鉄労組)を結成。
- 1947年(昭和22年)6月 名鉄自動車を合併し、バス事業を全て名鉄直営とする。
- 1948年(昭和23年)5月 西部線の主要路線を東部線と同じ1500Vへ昇圧し、東西路線の直通運転を開始。
- この日より、新岐阜(現名鉄岐阜)駅~豊橋駅間を「名古屋本線」と名称変更(全線に亘って路線名を見直し・変更)。
- 1950年(昭和25年)4月 飯田線への直通運転を不定期列車で再開。(1954年小坂井支線と共に廃止)
- 1952年(昭和27年)4月 創業記念日を(旧)名古屋鉄道の設立日である6月13日に制定。
- 1954年(昭和29年)10月 旧渥美電鉄系の渥美線を、豊橋鉄道へ譲渡。
- 1957年(昭和32年)7月 名鉄ビル全館完成。本社事務所をビル内に移転、業務開始。
- 1958年(昭和33年)3月 庄内川橋梁を新橋梁へ切り替え。これにより名古屋本線の最急曲線を緩和し、通過速度を20km/hから45km/h(後に50km/h)へ引き上げ。
- 1959年(昭和34年)4月 ダイヤ改正。5500系電車が登場し、量産車としては日本国内初となる料金不要冷房車の運行を開始。また、知立駅新設(移転)・配線変更により、名古屋方面から三河線への直通列車を増発。
- 1961年(昭和36年)6月 初代パノラマカーと呼ばれる7000系電車、名古屋本線の特急に就役。これにより、最高運転速度を110km/hに引き上げ認可・運行開始。
- 1962年(昭和37年)3月 ラインパーク(現、モンキーパーク)モノレール線、日本国内初の跨座式モノレールとして開通。
- 1965年(昭和40年)8月 戦前に行われていたが中断していた国鉄高山本線との直通運転を、神宮前駅~高山駅間に準急「たかやま」を新設したことで再開する。
- 1965年(昭和40年)11月 須ヶ口駅~鳴海駅間にM式ATS(速度照査式ATS)を設置。1968年(昭和43年)7月までに全線(岐阜軌道線区間を除く)の設置を完了。
- 1967年(昭和42年)6月 名鉄バスセンター開業、本社事務所を同バスターミナルビル内に移転。
- 日本国内初のビル(立体)型バスターミナルであり、当時としては東洋一の規模を誇った。
- 1970年(昭和45年)6月 田神線が開通、600系を使用して新岐阜駅~美濃駅間の直通運転を開始。世界的にも稀有な軌道車両による鉄道線乗入れが始まる。
- 1971年(昭和46年)3月 日本民営鉄道協会(民鉄協)を脱退。(1982年8月に民鉄協へ復帰)
- 1971年(昭和46年)9月 名鉄と住友商事との共同出資で「名鉄住商車両工業」(後に名鉄住商工業へ改称)設立。日本国内で初めて車両保守部門を分社化し全面委託を行う。
- 1973年(昭和48年)8月 岐阜市内線でワンマン運転を開始。
オイルショック後
- 1974年(昭和49年)9月 都市間連絡(特急)主体から急行を復活させるなど、都市圏輸送に改める白紙ダイヤ改正を実施。
- 1976年(昭和51年)12月 名鉄初の本格的な3扉通勤車6000系登場。第1次オイルショック後に急増した通勤客輸送で威力を発揮し、名鉄における「通勤車」の地位を確立。
- 1977年(昭和52年)3月 ダイヤ改正。座席指定特急のみを「特急」とし、料金不要の特急を「高速」に種別変更。
- 1979年(昭和54年)7月 豊田線が開通、名古屋市営地下鉄鶴舞線との間で名鉄初の都市型相互直通運転を開始。
- 1982年(昭和57年)3月 ダイヤ改正。7000系5編成を名鉄初の線内特急の専用車(通称白帯車)に改造・運用開始。以降、特急運用の専用車化を進め、1988年(昭和63年)に特急専用車1000系「パノラマSuper」を新造・登場させるきっかけとなる。
- 1983年(昭和58年)6月 特急列車に女性乗客掛(正式な乗務員としては戦後国内初)が乗務を開始。以降、順次増員を進めて早朝・深夜を除く全特急列車(指定席)に乗務となる。
- 1983年(昭和58年)11月 特急座席管理システム完成、座席指定券のオンライン発売を開始。
- 1985年(昭和60年)3月 ダイヤ改正。前年に八百津支線へ導入したLEカーを、広見線(新可児~御嵩間)・三河線(猿投~西中金間)にも導入・本格運用を開始し、ワンマン運転を実施。
- 1987年(昭和62年)3月 新名古屋駅(現、名鉄名古屋)全面改装工事完成。これにより、普通乗車券を含めた自動改札機の本格使用を開始。(以降、主要駅の自動改札化を進める)
- 1988年(昭和63年)5月 全日空・名鉄グループ各社の共同出資で中日本エアラインサービス(NAL)を設立。コミューター路線の開拓に着手。
- 1989年(平成元年)7月 金山総合駅完成。東西連絡線開業時からの金山橋駅を移転し、駅名も「金山」に改称。
- 1990年(平成2年)4月 名鉄初のプリペイドカード「パノラマカード」を発売開始、名古屋本線金山~神宮前間の複々線化完成。
- 1990年(平成2年)6月 サンライズバス設立。同年10月に名鉄バス蒲郡営業所(名古屋鉄道蒲郡自動車営業所)を移管し、採算(存続)の難しいバス路線を分社化する嚆矢となる。
- 1990年(平成2年)8月 特急専用車(1000系)増備により、名古屋本線特急の120km/h運転を開始。
- 1990年(平成2年)10月 ダイヤ改正。本線特急を指定席車と自由席車併結(一部指定席化)とし、自由席特急の性格を持っていた「高速」を統合。また、瀬戸線以外の準急を急行へ統合し、停車駅の見直し(特別停車駅による停車駅調整)を行う。
バブル崩壊後
- 1991年(平成3年)4月 片道普通乗車券の様式を、郡部線開業時より続いた行先表示から「金額表示」式へ変更。
- 1992年(平成4年)4月 CI導入、新社章・コーポレートカラー(メイテツブルー)等を制定し、(旧)名古屋鉄道以来の社章を変更。
- 1993年(平成5年)8月 上小田井駅周辺の連続立体化工事完成により、犬山線も地下鉄鶴舞線と相互直通運転を開始。
- 1996年(平成8年)4月 ダイヤ改正。旧型(非冷房)車淘汰により1500V路線の全車冷房化を達成。
- 1999年(平成11年)5月 ダイヤ改正。特急列車を設備の揃った専用車のみで運行開始(7000系白帯車の特急運用終了)。これに併せて、従来の「座席指定車」(座席指定券)を「特別車」(特別車両券)へ変更する制度改正も実施。
- 1999年(平成11年)10月 名鉄バス加木屋管理所を知多乗合へ移管。
- 2001年(平成13年)9月 特急「北アルプス」の運行を廃止。これをもって36年間(戦前を含めると通算で50年近く)続いた国鉄・JR高山本線への直通運転に終止符を打つ。
- 2003年(平成15年)3月 上飯田連絡線が開通、小牧線と新規開業の地下鉄上飯田線と相互直通運転を開始。同時にSFカードシステム「トランパス」を小牧線に導入(SFパノラマカード発売開始)。以後、順次「トランパス」導入路線(駅)の拡大を進める。
- 後に市営地下鉄部分の上飯田~平安通間の運行乗務を名古屋市交通局より委託される(実施は2007年度から)。
- 2004年(平成16年)4月 名鉄の全額出資会社として名鉄バスを設立。名鉄のバス部門を全面的に移管・分社化。同時に、岐阜市内・近郊の路線を関連会社の岐阜乗合自動車(岐阜バス)へ譲渡。
- 2005年(平成17年)1月 空港線が正式開業。白紙ダイヤ改正により、定期列車としては初めて豊橋駅から常滑線への直通列車が運転開始。同年2月中部国際空港開港により空港連絡鉄道としての使命を担う。
- 2005年(平成17年)4月 岐阜600V線区(岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線)を全廃し、事実上「鉄道線」として運行されている豊川線を除き、軌道線(いわゆる路面電車路線)が消滅。
鉄軌道事業
路線
1894年(明治27年)の創業後、1935年(昭和10年)の愛知電気鉄道との合併により、現在の路線網が完成した。 愛知県の郊外鉄道の中では最もきめ細かい路線網であり、名古屋通勤輸送ではナンバー1の鉄道である。中京地方随一、東海地方全体ではJR東海に次ぐ最大の民間交通機関。このうち、一部路線の列車が、名古屋市営地下鉄(鶴舞線・上飯田線)とも相互直通をしている。
総営業キロ数は、鉄道線437.0km、軌道線7.2km、モノレール線1.2kmの合計445.4kmにおよぶ。 中京圏は首都圏・関西圏と比較して人口密度が低く、またモータリゼーションの発達により鉄道の利用が少ないため、合理化を進め、また運賃の確実な収受を行うために2003年から駅集中管理システム、2005年6月29日から小牧線、2006年4月29日から名古屋本線はじめ主要9線区に乗車券確認システムを導入、各線に順次設置を進めている。
- 各列車種別の説明は列車種別の項を参照のこと。
- 廃止路線は閑散線区の合理化・廃止の項を参照のこと。
| 路線名 | 運賃計算上の区分 | 列車種別の設定 | 路線名 | 運賃計算上の区分 | 列車種別の設定 | ||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 快速特急 | 特急 | 快速急行 | 急行 | 準急 | 普通 | 快速特急 | 特急 | 快速急行 | 急行 | 準急 | 普通 | ||||
| 名古屋本線 | A | ◎ | ◎ | ● | ● | ● | ● | 豊川線 | C | - | ◎ | ● | ● | - | ● |
| 西尾線 | B | - | ○ | ● | ● | - | ● | 蒲郡線 | B | - | - | - | - | - | ● |
| 三河線 | C | - | - | - | - | - | ● | 豊田線 | B | - | - | - | - | - | ● |
| 常滑線 | B | ○ | ◎ | ● | ● | - | ● | 空港線 | B | ○ | ◎ | ● | ● | - | ● |
| 河和線 | B | - | ○ | ● | ● | - | ● | 知多新線 | C | - | ○ | ● | ● | - | ● |
| 築港線 | B | - | - | - | - | - | ● | 瀬戸線 | B | - | - | - | ● | ● | ● |
| 津島線 | B | - | ○ | ● | ● | - | ● | 尾西線 | C | - | ○ | ● | ● | - | ● |
| 各務原線 | B | ○ | ○ | × | ● | ● | ● | 犬山線 | B | ○ | ◎ | ● | ● | ● | ● |
| 広見線 | C | ○ | ○ | × | ● | - | ● | 小牧線 | B | - | - | - | - | - | ● |
| 竹鼻線 | C | - | - | - | - | - | ● | 羽島線 | C | - | - | - | - | - | ● |
| モンキーパーク モノレール線 |
D | - | - | - | - | - | ● | ||||||||
- 運賃計算上の区分
- 列車種別の設定
- ●:設定・運行
- ○:全車特別車の列車のみ設定・運行(快速特急・特急)
- ◎:全車特別車・一部特別車の列車を設定・運行(快速特急・特急)
- ×:設定しているが、この種別を名乗っての運行はない
- -:設定なし
- 種別の色・文字
列車の方向幕(液晶式含む)については上記の表どおり。 ただし、駅で掲示されていたり配布されたりしている時刻表については「普通」の種別はそのままだと見にくいので、反転して白地に黒文字となる(「準急」については緑色なので反転してしまうと休日ダイヤの黄色地と重なってしまうのでそのままである)。 また種別は4文字の「快速特急」「快速急行」は液晶式の広い行き先表示の場合のみそのまま表記され、その他幕式や駅のLED式・回転式列車表示板には「快特」「快急」と略される。
列車種別
2005年1月から路線により最高6種類の列車種別となっている。各種別の運行路線については上記を参照。
1990年~1995年、2003年~2005年の間は「特急」・「急行」・「普通」(一部線区には「特急」・「急行」が無く、また瀬戸線では「急行」・「準急」・「普通」の3種別)のみであったが、同じ種別でも特別停車駅(運行時間・行先別などにより停車の有無が変わる駅)が異なるなど、一定の法則性は確保していたものの、一般利用者にはやや分かりにくい複雑なダイヤであった。
そこで中部国際空港の開業を機に、一部の例外を除いて各種別の停車駅を明確化(固定)するため、大幅に種別を増加した。またこれに伴い、各駅の時刻表(駅配布版を含む)の表記方法も一新した。色分けは上記を参照のこと。
- 快速特急:停車駅を最小限に抑え、名鉄名古屋駅・中部国際空港駅への最速達列車。名古屋本線・常滑線以外は特急と同じ停車駅。新安城・国府通過の特急と、神宮前~中部国際空港のノンストップ特急(ミュースカイ)がこれに当たる。
- 特急:沿線市(町)の中でも特に利用が多い駅や、沿線を代表する駅に停車駅を絞った列車。
- 快速特急・特急には特別車と一般車とがある。これらの詳細は「名鉄特急」のページを参照。
- 快速急行:沿線市町の代表駅、または利用者が多い駅などに停車する列車。大里・栄生・大江通過の急行がこれに当たる。
- 急行:快速急行よりも名古屋本線では2駅、常滑線・犬山線では各1駅多く停車。その他の線区では快速急行と同じ停車駅に停車する列車。
- 準急:急行の停車駅よりも、名古屋本線では5駅、瀬戸線では2駅、犬山線では1駅多く停車。各務原線は急行と同じ停車駅。
- 英語表記は本線系と瀬戸線では異なっており、本線系は「Semi Express」、瀬戸線では「Sub Express」となっている。
- 普通:全駅に停車するが、河和線では約半数の「普通」が椋岡駅を通過する。また現在、豊橋駅からの発着はない。
2005年1月のダイヤ改正で、以前の「特急」は「快速特急」・「特急」の2種類へ、「急行」は「快速急行」・「急行」・「準急」の3種類へ細分化された。また、改正以前の特急標準停車駅は「快速特急」の停車駅、急行標準停車駅は「快速急行」の停車駅を基準にしたが、新に上位列車の停車駅へ昇格した駅もある。
なお、1977年より1990年まで、それ以前の追加料金が不要の「特急」を「高速」へ、「座席指定券」が必要な「座席特急」を「特急」へ種別呼称を改めて運行していたが、「一部指定席(現、特別車)特急」ができたことで、再び「特急」に吸収された。
また、同様に1990年までは「準急」の種別も存在しており、これに関しては「急行」の特別停車駅を増やして統合している(2005年の種別増加は逆の流れとみなせる)。
さらに「快速急行」の名称は、1995年から2003年まで「全車一般車特急」の名称変更の形で存在し、それ以前にも線区を限定して運行されていたことがある。
車両
特急形車両
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パノラマカーと、これに準ずる車両
一般形車両
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瀬戸線の車両
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名古屋市営地下鉄乗り入れ用車両
かつては貨物列車の牽引なども行っていたが、それの全廃後は保線や車両搬入などの際に使用されている。
- デキ300形
- デキ370形
- 愛知電気鉄道から引き継いだ凸字型車両。1928年製。3両在籍で、2両は瀬戸線用。
- デキ400形
- デッキ付の角型ボディー車。愛知電気鉄道からの引継ぎ車で、1930年製造。2両在籍。
- デキ600形
運用離脱した車両
2001年以後の廃車
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2001年以前に廃車された車両
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その他の特徴
名鉄車両の特徴として長らく「赤い塗色」が挙げられてきたが、8800系や1000系などで大胆に白を取り入れるようになり、2000系に至っては塗色から赤が消えてしまった。一方車両番号標示に関しては、名鉄特有のローマン書体を、直近の2000系に至るまで長く用いている。
両端車両の車掌室のみでなく、途中車両にドア開閉装置が設けられている編成も多い。カーブなど見通しの悪い場所での安全確保や、各務原線のようにドアカットを行う駅が多いことが理由とされている。
また、駅発車の際には「2連打ベル制御器」と呼ばれる電鈴が鳴らされる。かつては路面電車などでも多く見られたが、現行では都電荒川線などと並んで、数少ないものとなっている。
名鉄線に乗り入れる他社車両
運賃
名古屋鉄道の運賃は、営業キロではなく、あらかじめ一定の割合を乗じた「運賃計算キロ程」によって運賃を計算する。計算方法は以下の通り(子供は半額、5円の端数は切り上げ)。運賃額は2006年4月1日現在。
(例)名鉄岐阜駅 -(名古屋本線)- 神宮前駅 -(常滑線)- 太田川駅 -(河和線)- 富貴駅 -(知多新線)- 内海駅の運賃
- 次の区間の運賃は競合上の理由から特定額に設定されている。また、この区間内で下記の運賃を上回る区間の運賃は下記の額を採用する。
- 以下の区間では均一運賃を採用している。
- モンキーパークモノレール線:150円
- 大人キロ制区間運賃表
| キロ程 | 運賃(円) | キロ程 | 運賃(円) | キロ程 | 運賃(円) |
| 初乗り3km | 160 | 33~36 | 590 | 73~76 | 1180 |
| 4km | 180 | 37~40 | 650 | 77~80 | 1230 |
| 5~7 | 220 | 41~44 | 710 | 81~85 | 1280 |
| 8km | 230 | 45~48 | 770 | 86~90 | 1330 |
| 9~12 | 290 | 49~52 | 840 | 91~95 | 1380 |
| 13~16 | 340 | 53~56 | 900 | 96~100 | 1430 |
| 17~20 | 390 | 57~60 | 960 | 101~110 | 1510 |
| 21~24 | 440 | 61~64 | 1020 | 111~120 | 1600 |
| 25~28 | 490 | 65~68 | 1080 | 121~130 | 1680 |
| 29~32 | 540 | 69~72 | 1130 | 131~139 | 1760 |
- 乗車する区間の、各乗車線区ごとに、営業キロを算出する。
- 列車乗り換えの都合上、枇杷島分岐点~東枇杷島駅・栄生駅・名鉄名古屋駅間を折り返し乗車する場合には、この区間の営業キロは含まない。
- 瀬戸線と名古屋本線を、栄町駅と名鉄名古屋駅、栄町駅と金山駅の間を他のバスや鉄道を利用して乗り継いで乗車する場合は、前後の乗車区間を通算する。
- 以下にあげる区間を経由する場合は、最短経路で計算する。
- (例)名古屋本線(A)名鉄岐阜駅~神宮前駅37.6キロ
- 常滑線(B)神宮前駅~太田川駅12.3キロ 河和線(B)太田川駅~富貴駅22.3キロ
- 知多新線(C)富貴駅~内海駅13.9キロ
- 各々の線区の運賃計算上の区分(A・B・C)が同じ線区同士の営業キロを足し合わせ、以下の倍率をかけ、小数点第2位以下を切り上げる(このキロ程が「運賃計算キロ程」である)。
- A:1.00倍 B:1.15倍 C:1.25倍
- (例)A:名古屋本線<37.6キロ×1.00=37.6キロ>
- B:常滑線・河和線<(12.3キロ+22.3キロ)×1.15=39.790→39.8キロ>
- C:知多新線<13.9キロ×1.25=17.375→17.4キロ>
- 運賃計算キロ程を足し合わせ、小数点以下を切り上げ、上の運賃表に照らし合わせる。
- (例)37.6キロ+39.8キロ+17.4キロ=94.8キロ→95キロ から、1,380円
- 以下のような乗り継ぎの場合には乗継割引運賃が適用され、大人20円・子供10円引きとなる。
- 均一制運賃を設定している線区(上表でD)が含まれる場合は、均一運賃を加算する。
- 加算額を設定している線区(上表で背景が赤)が含まれる場合は、加算額を加算する(加算額は以下のリンク先を参照)。
開発事業
バス・文化レジャー事業の分社化の後、本社の鉄軌道事業以外の事業は、全日空の航空代理業、ビル、駐車場などの賃貸、土地の分譲等となり、これを「開発事業」と呼称している。
変化
閑散線区の合理化・廃止
数多くの鉄道会社の合併や運営路線の譲り受けによって成立した名古屋鉄道は、多くの閑散線区を抱えることになり、そうした線区の合理化・廃止が進められてきた。特に、トヨタ自動車を核とした自動車産業が盛んな愛知県では車社会の進展がはやく、1950年代から路線の廃止が相次いでいる。1980年には広見線・八百津線にレールバス導入・ワンマン運転化がなされ、1985年に三河線・猿投~西中金間、1990年に三河線・碧南~吉良吉田間にもレールバスが導入された。鉄道事業法が2000年に改正され、鉄道廃止が届出制に変わると、閑散線区の廃止を相次いで表明している。
- 名古屋鉄道成立後の廃止路線(経路変更、駅移設による延長・短縮除く)
- 勝川線 - 1936年4月8日休止、1937年2月1日廃止
- 清洲線 - 1944年6月10日休止、1948年8月3日廃止
- 起線 - 1953年6月1日全線休止、1954年6月1日全線廃止
- 小坂井支線 - 1954年12月25日廃止
- (旧)西尾線 - 1959年11月25日福岡町~西尾間廃止
- (1943年 岡崎新~福岡町~西尾間休止、1951年 岡崎駅前~福岡町間が福岡線として営業再開)
- 尾西線 - 1959年11月25日玉ノ井~木曽川港間廃止
- (1944年 奥町~玉ノ井~木曽川港間休止、1951年 奥町~玉ノ井間が営業再開)
- 平坂支線 - 1960年3月27日廃止
- 高富線 - 1960年4月22日廃止
- 安城支線 - 1961年7月30日廃止
- 岡崎市内線・福岡線 - 1962年6月17日廃止
- 岩倉支線 - 1964年4月25日廃止
- 鏡島線 - 1964年10月4日廃止
- 一宮線 - 1965年4月25日廃止
- 挙母線 - 1962年6月17日岡崎井田~大樹寺間廃止、1973年3月4日大樹寺~上挙母間廃止
- 瀬戸線 - 1976年2月15日堀川~東大手間廃止
- (1978年に栄町~東大手間の地下新線開業)
- 岐阜市内線 - 1988年6月1日徹明町~長良北町間廃止、2003年12月1日岐阜駅前~新岐阜駅前間休止、2005年4月1日岐阜駅前~忠節間廃止
- 美濃町線 - 1999年4月1日新関~美濃間廃止、2005年4月1日徹明町~関間廃止。
- 八百津線 - 2001年10月1日廃止
- 竹鼻線 - 2001年10月1日江吉良~大須間廃止
- 谷汲線 - 2001年10月1日廃止
- 揖斐線 - 2001年10月1日黒野~本揖斐間廃止、2005年4月1日忠節~黒野間廃止
- 三河線 - 2004年4月1日西中金~猿投間、碧南~吉良吉田間廃止
- 田神線 - 2005年4月1日廃止
閑散駅の合理化
名鉄では、2001年度より、無人駅・閑散駅を中心に駅務自動化システム(通称:無人駅システム)を導入した。このシステムは、自動改札機・自動券売機・自動精算機・列車接近警報装置を該当駅に設置し、近隣の管理駅から遠隔操作するものである。 2005年12月現在、三河線・豊田線・名古屋本線・豊川線・犬山線・津島線・尾西線・小牧線・常滑線・空港線で導入されている。導入前は有人駅であったが導入後は無人駅になってしまったという駅も多く、ミューチケットや企画きっぷ等を購入できないケースも出てきている。本システムは、2007年度までに全線全駅で導入される見込みである。 なお、これに伴って乗降人数が特に少ない駅の整理にも着手し、2006年12月限りで5駅の廃止が届け出された。
自動車事業の分社化・委託
かつてはバス事業も行い、名古屋駅からの高速バス、名古屋空港へのバス、路線バス、観光バス等を展開していたが、2004年10月1日から、愛知県内は名鉄バスとして分社され、岐阜県内はグループ企業の岐阜乗合自動車(岐阜バス)に移管された。また、名鉄バスとして残った路線も、一部路線について運営を子会社等に委託するケースが現れている。例:犬山地区路線の「岐阜バスコミュニティ」への委託等
文化レジャー事業の分社化
名古屋鉄道は、博物館明治村やリトルワールド等の施設を経営していたことでも知られている。これは「文化レジャー事業」と呼ばれていたが、経営効率化のため、これらの施設を経営・運営する子会社を設けて分社化することとなった。この経営または運営の会社として「名鉄インプレス」が設立され、2003年10月から次のような体制に変化した。
- 明治村・リトルワールド・杉本美術館は、本社が経営主体となり、名鉄インプレスに運営を委託。
- 日本モンキーパーク、スイミングスクール、テニススクール、南知多ビーチランド・文化センターについては名鉄インプレスによる経営とする。
- 内海フォレストパークと、沖縄の事業は撤退。
企画乗車券の大幅廃止
閑散駅の合理化で駅員非配置の駅が増えたことや、トランパス導入に際してカードにプレミアムをつけたこと、合理化のためもあって、昨今では大幅に「パノラマパック」などの企画割引乗車券を廃止する傾向が出ている。近畿日本鉄道・南海電気鉄道と共同で出していた「3・3・SUNフリーきっぷ」も、2006年夏限りで廃止される事が決定した。
その他
路線の特徴
- 名鉄の西半分を建設した会社である名岐鉄道は、市内線(路面電車)事業を発展させる形で路線を建設したことから、市内線の市営化後も1941年まで、名鉄の電車が市電に乗り入れて市内の柳橋駅をターミナル駅にしていた。
- 名古屋本線は古くからの市街地・宿場町を結ぶ目的で敷設された関係から、名岐鉄道の建設した東枇杷島~新清洲間、茶所~名鉄岐阜間と、愛知電気鉄道の建設した神宮前~前後間は曲線区間が多く、特に名古屋~岐阜間では、名古屋駅へ乗り入れる路線も無理な曲線で建設したことから、並行するJR東海の東海道本線に対して時間・料金いずれにおいても相当に不利な条件となっている。同じ名古屋本線でも、郊外の区間では高速運転を前提に敷設し、優等列車が120km/h運転(対応車のみ)を行っているのとは対照的である。
- 名古屋本線の伊奈~豊橋間の内、平井信号場~豊橋間はJR東海飯田線と線路を共用している。
- 1920年代中期、小坂井駅まで到達した名鉄の前身の愛知電気鉄道(愛電)が豊橋への延長を模索するにあたって、飯田線の前身である豊川鉄道が自社に並行する愛電線の建設を遮る動きがあったため、愛電・豊川鉄道がそれぞれ敷設した単線の線路同士をお互いに共用することで複線として機能させる協定を結んだ。愛電が名鉄に、豊川鉄道が国鉄からJR東海の路線へとそれぞれ移管された現在でも、この線路共用の協定は継続している。このため同区間は、制限速度が飯田線の規格である85km/hに、豊橋駅の発着番線が1線に、列車乗入れ本数が毎時6本以内(現行では快速特急・特急・急行とも各2本)にそれぞれ制限されるなど、名鉄ダイヤの大きなボトルネックとなっている。この影響で、毎時2本の急行が国府駅から豊川線へ分かれ豊川稲荷駅で、同様に本線系の普通も伊奈駅で折り返さざるを得なくなっている。
他私鉄との競合
現在の競合はJR東海との間で繰り広げられているが、過去には近鉄(近畿日本鉄道)・東急(東京急行電鉄)と路線やグループ企業の拡大を廻って競合していた時期がある。
近鉄との競合
昭和初期の三重県には伊勢電気鉄道(伊勢電)が、岐阜県の西部には養老鉄道(近鉄養老線の前身)が営業を開始していた。当時の名岐鉄道は三重県への拡大を目指しており、昭和恐慌の影響で経営難に陥っていた伊勢電に食指を伸ばし、名古屋~桑名間の路線免許を申請していた。同時期、近鉄の前身である参宮急行電鉄(参急、後の関西急行電鉄)も名古屋進出の足掛かりとして伊勢電を欲しており、両社が吸収合併を目的とした支援合戦を繰り広げていた。結局、この争いは参急側に軍配が上がり、現在の近鉄名古屋線の大部分を占める重要路線を手にした。
その後、1961年(昭和36年)に近鉄が旧養老鉄道岐阜線免許を使用して、大垣から羽島間の新線の建設を発表し、さらに岐阜への延長を画策すると、名鉄では岐阜から羽島・養老を結ぶ、モノレールの建設を発表し、近鉄に対抗したことがあった(この計画は、後に羽島線建設に変更・縮小された)。
他にも、名神高速道が一宮まで開通した折には高速バスの路線免許を廻って争いが発生し、開業後も激しい競合のために、両社(名阪近鉄バス・日急バス)が共倒れ寸前に陥り、近鉄がテリトリーとしていた石川県において、北陸鉄道の支援を名鉄が行った際には、対抗措置として北陸日本交通なるバス会社の設立を目論む(後に北日本観光自動車へ合併させるが、路線拡大は却下された)など、名鉄と近鉄の両社は1970年頃まで激しく対立していた。
1980年代以降、次第に両社は競合から協調関係に入り、名鉄線各駅に近鉄テリトリーである「伊勢志摩」等の、近鉄各駅に名鉄グループの「明治村」等の広告を互いに出すようになり、南海電気鉄道とともに「3・3・SUNフリーきっぷ」(2006年に販売終了)を発行するなど、完全な提携関係を築いている。
東急との競合
一般的にはあまり知られていないが、名鉄はグループ展開を行う過程において、東急(グループ)と激しく競合・対立していた時期がある。その最も有名なものとして「全日本空輸」(全日空、ANA)設立時の経営権を廻る争いがあげられる。現在のANAは「日本ヘリコプター輸送」(日ペリ)と「極東航空」が合併して誕生したが、当時の日ペリは名鉄が経営権を握り、極東航空は東急系列として誕生していたため、合併後の経営権を廻って、株式や株主総会の議決権を委任する委任状の取得合戦を展開するなど、一時はお互い一歩も引かぬ総力戦の様相を呈した。やがて名鉄は争いに疲れてANAの経営権を諦めるが、近年になって東急側がグループ再編の一環としてANA株の一部を名鉄側に譲り渡し、再び名鉄が筆頭株主となり中部国際空港の開港を契機として、名鉄とANAは一層結びつきを増している。
また、北海道東部を自社グループのテリトリーとしていた東急は、名鉄が「網走バス」の支援を決めると様々な対抗策を打ち出して、名鉄の北海道進出を阻止する動きを見せた。その一つとして、名古屋の観光バス業界では老舗である「鯱バス」(現、東急鯱バス)が経営難に陥った折、名鉄に先んじて有利な支援を次々に行った。名鉄も地元の名門を手に入れるチャンスであっただけに、熾烈な支援合戦を展開したが、結局東急は「鯱バス」をグループへ取り込む事に成功して名鉄に一矢報いている。
その他
- 2000年以降の相次ぐ赤字線廃止が始まるまでは、民鉄の営業距離の中で近鉄に次ぐ2位、駅数は1位(JR四国をも上回り、JR各社を含めても全国第6位)であったが、現在は近鉄・東武に続く3位となっている。
- 名鉄線で使用されている踏切は、灯器を覆う部分が四角い独特の形状になっている。これは、自動車からの踏切視認性(特に警報時)を考慮したものであり、沿線の自動車保有台数に比べて踏切が多い名鉄の特徴となっている。
- 2006年7月より放送されている「いってらっしゃい おかえりなさい 名古屋鉄道」のCMソングを歌手の小田和正が担当している。デビューから37年が経つ同氏が地方ローカルのCMの楽曲を手掛けるのはこれが初めてであるためファンの間で話題になる。(楽曲名『大好きな君に』・アルバム「そうかな」収録)
関連商品
鉄道模型
過去にはキットを中心に鉄道模型メーカー各社から発売されている。
- HOゲージ(16番)では、主に日車夢工房とカツミから7000系・8000系を中心に出され、エンドウも8500系が出されている。
- Nゲージでは、TOMIXから7000系・8800系、グリーンマックスから5500系のキット・1000系パノラマSUPER(予定品)、2000系・2200系(2000系と2200系は日車夢工房との共同制作)・3100系(クロスポイントブランド)などがある。
他にもHO・Nを問わず各形式が、中村精密・タニカワ・モデモ(ハセガワ)・岩橋商会・銘わぁくす・リトルジャパンモデルスなどから、今までに発売されている。
玩具類
玩具メーカー各社から車両関係を中心に各種玩具(グッズ)が発売されている。
- トミープラレールでは、510形・7000系・1000系が過去に出され、現在は2000系が出されている。
- タカラチョロQでは、7000系・2000系電車、バスをはじめ各種出されたがいずれも限定品であり、一般発売はされていない。
- バンダイBトレインショーティーでは、2000系・5500系・510形・570形が各種出されている。限定品ではあるが、チョロQより出荷数が多いため、種類によっては相当数の在庫がある。
他にもいわゆる「食玩」の類のものに名鉄車両を題材にしたものがある。
その他
名鉄からも直接、カレンダー・ピンバッジ・駅名板マグネット・キーホルダー・ストラップなどが発売されており、日車夢工房からも同様にグッズ類が発売されている(基本的に数量は限定)。
代表的な名鉄グループ企業
愛知県に拠点を置く運輸業
愛知県以外に拠点を置く運輸業
その他グループ企業
その他関係の深い企業
2005年9月末現在、全日本空輸(ANA)の筆頭株主であり、単体で発行済株式の3.03%をもつ。ANA設立時は一般的に東急系列として認識されているが、前身の「日本ヘリコプター輸送」時代から名鉄は資本的な繋がりを続けており、名鉄傘下の中日本航空にはANAも出資していたほか、名鉄、中日本航空との合弁で、コミューター会社の「エアーセントラル」(旧:中日本エアラインサービス)を設立している。昨今では中日本航空の定期便部門をANAに譲渡した事から、一層繋がりが深くなっている。
1951年からは中日ドラゴンズに出資(これに伴い、球団名を「名古屋ドラゴンズ」に変更)、中日新聞社と隔年で球団経営を行ったが、3年で撤退。その後球団数拡大を目指すパシフィック・リーグから新球団設立の話を持ちかけられたが、中日との観客の奪い合いによって共倒れになることを恐れたため断っている。
外部リンク
- 名古屋鉄道
- 名鉄グループ
- AGUI NET
- 岐阜地区の路面電車についてのレポート―都市交通の専門家による廃止問題の分析。