安久美神戸神明社

愛知県豊橋市の神社

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安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)は、愛知県豊橋市八町通三丁目17番地にある神明神社である。別名豊橋神明社(とよはししんめいしゃ)[注釈 1]

安久美神戸神明社あくみかんべしんめいしゃ

拝殿
所在地 愛知県豊橋市八町通三丁目17
位置 北緯34度46分5.491秒 東経137度23分40.96秒 / 北緯34.76819194度 東経137.3947111度 / 34.76819194; 137.3947111 (安久美神戸神明社)座標: 北緯34度46分5.491秒 東経137度23分40.96秒 / 北緯34.76819194度 東経137.3947111度 / 34.76819194; 137.3947111 (安久美神戸神明社)
主祭神 天照皇大神
社格 県社
創建 天慶3年(940年
本殿の様式 神明造
別名 豊橋神明社
例祭 2月10日2月11日鬼祭
地図
安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)の位置(愛知県内)
安久美神戸神明社(あくみかんべしんめいしゃ)
安久美神戸神明社あくみかんべしんめいしゃ
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祭神

歴史

天慶2年(939年)11月、関東において平将門を起こした。朝廷は、参議大伴保平勅使として東海伊勢神宮へ派遣し、関東平定を祈願した。この霊験のおかげか、翌年2月関東の承平天慶の乱は直ちに平定することができた。天慶3年(940年)、関東鎮圧を喜んだ時の帝の朱雀天皇三河国渥美郡北端である豊川左岸の安久美(飽海)荘(豊橋市中心部)を伊勢神宮へ寄進した。そのため、この地は安久美神戸(あくみかんべ)という名の神領地(神戸)となる[注釈 2]。その時に伊勢神宮祭主大中臣頼基の庶流・大中臣基守が磯部氏、川野氏、清水氏らを率いて伊勢国より来たり、この新神戸(しんかんべ)の屋代(やしろ)として創建されたのが当社である。

永正2年(1505年)、今川氏親の命によりこの地へ三河国宝飯郡長山一色城豊川市牛久保町)主の一色時家被官・牧野古白によって今橋城(後の吉田城。豊橋市今橋町)が築城された後も、歴代三河吉田城主の尊崇は篤かった[注釈 3] [1]。江戸時代には吉田城内にあり、城内神明宮や吉田神明宮と呼ばれた[2]。また、三河国を平定し後に征夷大将軍となった徳川家康も、当社の鬼祭を見物したとされる。神君の朱印をもって30石の社領を献じ、代々の征夷大将軍がこれを継承した[注釈 4]明治18年(1888年)、軍用用地となったため現在の位置に移転した[3]。神社名としては、神戸神社や吉田明神、吉田神明、吉田神明宮などの記録がある。明治維新時の宮号廃止により「神明社」となり、昭和26年(1951年)に「安久美神戸神明社」と改称した[4]

境内

 
 
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安久美神戸神明社の境内
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本殿
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幣殿・拝殿
3
神楽殿
4
社務所
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神庫
6
祭文殿
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手水舎
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儀式殿
9
参集殿
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潔斎殿
11
一の鳥居
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二の鳥居
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東照宮(家康公)御腰掛松
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伊勢神宮遙拝所

建造物

摂社・末社

史跡

飽海神戸

三河;太田亮(大正15)によると、三河国二葉松を根拠として、飽海本神戸・新神戸は、和地荘の神戸七郷を指すとしており、羽田八幡宮(豊橋市)神官の羽田野敬雄の三河国古蹟考の説である幡太郷飽海村とするのは、まがいであり、まことにあらず、と糾弾されている。なお、幡太郷の比定地や渥美・飽海の比定地において、田原市説と豊橋市説の両方があり対立している。

安久美神戸神明社という社名は戦後に改称されたものである。明応6年11月17日の安久美神戸神明社棟札銘などには新神戸郷が見える(豊橋市史5)。天正6年12月13日の安久美神戸神明社棟札にも「飽海郡新神部宮司盛秀」と見え、吉田城主酒井忠次は造営のため馬1疋を進献している(豊橋市史5)。これらの棟札を根拠として、豊橋市史では、飽海村は飽海新神戸であったとする説を主張している。ただ、安久美神戸神明社棟札以外に、新神戸郷とする資料は見当たらない。永禄3年12月2日の今川氏真安堵状に「参河国渥美郡飽海郷」。天正18年12月20日池田輝政「あくみ・吉田方両所之内」(豊橋市史)。戦国時代の同時代史料には、飽海郷(あくみ)となっている。

祭事

 
豊橋鬼祭の赤鬼

豊橋鬼祭

例祭の鬼祭(おにまつり、国の重要無形民俗文化財)で知られる[5]。メインの赤鬼と天狗のからかい平安時代から舞われていたユーモラスな有名な田楽であり[5]、本来大晦日に行う年越しの神事であった。昭和43年(1968年)からは、祝日(建国記念の日)である2月11日を本祭として、その前日(2月10日)とともに祭礼日としている。現在の祭礼の赤鬼天狗の御面は、昭和15年(1940年)に神社創建1千年と皇紀2600年を祝って作られたものであるが、それまでの御面は当時三河国吉田を治めていた今川義元が寄進したものといわれる。

前夜祭では、社殿前の八角台で笛や太鼓の音に合わせて古代服に身を包んだ6人の舞姫と青鬼が「岩戸舞」を舞う[5]。 その後境内で厄よけのたんきりあめをまいたのち、「アーオー」という掛け声と共に町内へ駆けだし、氏子らを引き連れて1軒ずつにあめを配って回る[6]

この赤鬼をモデルに豊橋市役所で作ったマスコットトヨッキーである。今は市のマスコットであるが、元は市制施行100周年事業「とよはし100祭(ひゃくさい)」のマスコットであった。

文化財

重要無形民俗文化財(国指定)

  • 豊橋神明社の鬼祭 - 1980年(昭和55年)1月28日指定。

登録有形文化財(国登録)

2010年(平成22年)、「本殿」、「幣殿及び拝殿」、「神楽殿」、「神庫」、「手水舎」の5軒が国の登録有形文化財に登録された[7]

  • 本殿 - 2010年(平成22年)9月10日登録。1930年(昭和5年)建設[7]。[[内務省神社局の角南隆技師が建設に関わった[7]
  • 幣殿及び拝殿 - 2010年(平成22年)9月10日登録。1930年(昭和5年)建設[7]。内務省神社局の角南隆技師が建設に関わった[7]
  • 神楽殿 - 2010年(平成22年)9月10日登録。1885年(明治18年)移築[7]
  • 神庫 - 2010年(平成22年)9月10日登録。1930年(昭和5年)建設[7]
  • 手水舎 - 2010年(平成22年)9月10日登録。1930年(昭和5年)建設[7]

現地情報

所在地
交通アクセス

脚注

注釈

  1. ^ 愛知県渥美郡豊橋町立高等小学校編の郷土誌 明治30年6月(1897年)には、中八町神明社は村社にして、その鬼祭は賑やかなりと記載されている。安久美神戸神明社とは記載されておらず、単に神明社で、村社とあり、伊勢神宮の荘園についての記載もなく、その根拠は不明である。国立国会図書館蔵書には、『安久美神戸神明社千年誌』(1974年10月 神明社発行)、『安久美神戸神明社と司家』(1981年10月)など、近年に発行されたものがある。
  2. ^ これは既に現在の田原市神戸の地にあった本神戸(ほんかんべ、封戸数20戸:『新抄格勅符抄』収録の大同元年(806年)の牒による。)に対し、新神戸(封戸数10戸)と呼ばれた。また、三河では後の文治元年(1185年)に渥美郡大津郷(豊橋市老津町)に封戸を増加し、大津保と称した。
  3. ^ 牧野古白は、安久美神戸神明社の造営のために寄進した。その際、明応6年11月17日(1497年12月10日)銘の古棟札に「奉造立参川国於渥美郡新神戸郷社頭一宇棟上・・・」と記しており、新神戸の名称が知れる。
  4. ^ 愛知県図書館所蔵絵図のうち、伊那県足助庁作成管理の三河国全図(明治2年頃)では、その記載が確認できない。元豊橋県管轄之図(明治4年頃)に、神明社とあり、他の寺社との位置関係から、これが安久美神戸神明社と思われる。ここでは単に神明社とだけあり、安久美神戸という表記はない。

出典

  1. ^ 牧野古白棟札→『豊橋市史』(第2節 戦国時代の豊橋地方)、pp.364-365
  2. ^ 『豊橋の史跡と文化財』豊橋市教育委員会、1981年、16頁。 
  3. ^ 『豊橋の史跡と文化財』豊橋市教育委員会、1981年、16頁。 
  4. ^ 『安久美神戸神明社千年誌』安久美神戸神明社、1974年、34頁。 
  5. ^ a b c “青鬼が来たぞ~ 豊橋で前夜祭”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 夕刊 1. (2016年2月10日) 
  6. ^ “「アーオー」鬼駆ける 豊橋”. 中日新聞 (中日新聞社): p. 夕刊 1. (2015年2月10日) 
  7. ^ a b c d e f g h 「『保全さらに力を』 区に文化財登録の安久美神戸神明社(豊橋)喜ぶ禰宜の平石さん 本殿、幣殿・拝殿 第一級の評価」『中日新聞』2010年7月17日
  8. ^ 来社方法 安久美神戸神明社

関連項目

外部リンク