三浦つとむ
三浦 つとむ(みうら つとむ、1911年(明治44年)2月15日 - 1989年(平成元年)10月27日)は、日本の言語学者。在野のマルクス主義者。
三浦 つとむ | |
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ペンネーム | 高木場務、高木場努 |
誕生 |
三浦 二郎 1911年2月15日 東京都小石川区白山御殿 |
死没 |
1989年10月27日(78歳没) 東京都東村山市 |
職業 |
言語学者 評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
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最終学歴 | 府立工芸学校(現在の東京都立工芸高等学校)中途退学(1927年) |
活動期間 | 1948年 - 1989年 |
ジャンル |
言語論 表現論 認識論 |
主題 |
日本語論 マルクス主義 |
代表作 |
『日本語はどういう言語か』(1956年,1976年) 『弁証法はどういう科学か』(1968年) 『言語学と記号学』(1977年) 『認識と言語の理論』(2002年) |
デビュー作 | 『哲学入門』(1948年) |
配偶者 | 横須賀壽子(妻) |
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経歴
本名、三浦二郎。東京都生まれ。
フリードリヒ・エンゲルス及びヨセフ・ディーツゲンを師と仰ぎ、製版の仕事をしながら独学した[注 1]。謎解きによって具体的な問題を論理的に扱う思惟活動の訓練を行う中で、弁証法が優れた武器であることを学ぶ[注 2]。日本軍の用いた日本語の暗号電報の盗読に成功したハーバート・オズボーン・ヤードリーの手記『アメリカン・ブラック・チェンバー』を青年期に読み、日本語の文法に理論的な関心を持った[1]。
1946年、民主主義科学者協会が結成され会員になった。1948年、真善美社からの依頼により『哲学入門』を執筆した。対話形式のやさしい文体で、神がかり哲学と対比しながら弁証法的唯物論を説いていく内容は、多くの読者に歓迎された[注 3]。日本共産党入党。
1950年にスターリンの言語論が出ると、「中央公論」はそれに対する時枝誠記の批判的な論文を掲載した。時枝の『国語学原論』(1941年)を読んでそれを公に評価していた三浦は、覚悟を決めてスターリンの言語論を批判し、その結果、次の年に民主主義科学者協会を除名された[3]。日本共産党除名。
1955年、講談社のミリオン・ブックスの一冊として出した『弁証法はどういう科学か』が十数万部売れた。1956年に『日本語はどういう言語か』を出版し[注 4]、製版の仕事から著述業となった[4]。
1977年1月に脳出血で倒れるまでの10年間、吉本隆明が発行する『試行』に毎号欠かさずに論文を発表した[5]。1980年6月に退院。
研究内容
言語過程説の展開
弁証法的唯物論の立場から時枝誠記の時枝文法・言語過程説を批判的に継承することで、独自の言語論を打ち立てる。ソシュールを祖とする構造言語学や言語過程説における機能主義を批判した。
三浦は言語を絵画や彫刻などと同じ表現の一種であると規定した上で、「対象-認識-表現」という言語表現の客観的生成過程が、その表現である言語形式に関係として保存されたものが意味であるとした。
音声や文字には、その背後に存在した対象から認識への複雑な過程的構造が関係付けられているわけで、このようにして音声や文字の種類に結び付き固定された客観的な関係を、言語の意味と呼んでいるのです。—三浦つとむ、『日本語はどういう言語か』(1976年)、44頁
著書としては『認識と言語の理論』、『言語学と記号学』、一般向けに書かれた『日本語はどういう言語か』がある。
芸術論
マルクス主義の復原
レーニン真理論の批判、スターリンのスターリン言語学の批判、ミーチン式弁証法的唯物論の批判などを行った。のち「官許マルクス主義」としてスターリン主義や毛沢東主義を批判した。また、レーニンの誤謬をも指摘した。
組織論
『大衆組織の理論』,『指導者の理論』,『日本の家庭』(『生きる・学ぶ』所収)。
国家論
著作
- 哲学入門 (1948年)
- 弁証法 - いかに学ぶべきか (1950年)
- 弁証法はどういう科学か (1955年)
- こう考えるのが正しい - 弁証法を生活に役立てる (1955年)
- 社会の正しい見かた (1956年)
- 日本語はどういう言語か (1956年)
- この直言を敢てする (1956年)
- 共産党 - この事実をどう見るか (1956年)
- 資本主義はどうなるか (1956年)
- 指導者とは何か (1957年)
- マルクス主義の基礎 (1957年)
- 弁証法をどう応用するか (1958年)
- 大衆組織の理論 (1959年)
- 人生 - 人間のありかたと生きかた (1959年)
- 指導者の理論 (1960年)
- 新しいものの見方考え方 (1960年)
- 社会とはどういうものか (1962年)
- 社会主義のABC (1962年)
- レーニンから疑え (1963年)
- ものの見かた考えかた (1963年)
- 芸術とはどういうものか (1963年)
- 毛沢東思想の系図 (1965年)
- 認識と言語の理論1 (1967年)
- 認識と言語の理論2 (1967年)
- マルクス主義の復原 (1969年)
- 認識と芸術の理論 (1970年)
- マルクス主義と情報化社会 (1971年)
- 現実・弁証法・言語 (1972年)
- 認識と言語の理論3 (1973年)
- 1たす1は2にならない (1973年)
- 文学・哲学・言語 (1973年)
- 日本語の文法 (1975年)
- 毛沢東主義 (1976年)
- 言語学と記号学 (1977年)
- こころとことば (1977年)
- 生きる・学ぶ (1982年)
- 三浦つとむ選集 (1983年)
- 三浦つとむ選集 - 補巻 (1991年)
影響
吉本隆明とは雑誌『試行』の同人であり、家族ぐるみの付き合いがあった(『生きる・学ぶ』の扉絵4枚は吉本多子が描いている)。吉本は『言語にとって美とはなにか』(1965年)の中で、三浦の意味論を批判しながらも評価しており、『日本語はどういう言語か』(1976年)に解説を書いている[注 6]。
現在、三浦つとむの言語論は自然言語処理の分野で認められ、(1996年)以降、三浦つとむの研究者と自然言語処理の研究者が中心となって「言語・認識・表現」研究会(LACE)を開催している。言語過程説に関連する論文集[7]も発行されている。
以下、三浦理論に影響を受けた研究者を羅列しておく。
脚注
注釈
- ^ 「独学」について以下のように述べている。教師の言葉を盲信したりうのみにしたりしないで、学問に欠けてはならぬ健康な懐疑精神を持ち、疑いなく真理と思われても対象と取り組んで再発見しながら身につけ、さらに進んで独自の見解・独自の理論の創造へと進んで行くという学び方をしているなら、それは本質的に独学である。だから学問をするとは本質的な独学の道を進むことであり、学歴のない人間が独学で優れた業績を残したのは、本質的な独学と現象的な独学とが相伴っていたということにほかならないのであって、異常でもなければ神秘的でもない。 — 『三浦つとむ選集』第1巻、2頁
- ^ エンゲルスの著作からどのように弁証法を学んだのか、以下のように述べている。
- ^ 鶴見俊輔からも賞賛の手紙が寄せられた[2]。
- ^ 帯文は時枝誠記が以下のように書いている。三浦さんは私の文法学説の良き理解者であると同時に、厳正な批判者であり、助言者でもある。文法学は文法体系のつじつまを合わせることだけで出来ることではなく、もっと根本的なものの見方、考え、すなわち科学する態度から出発しなければならないことを、三浦さんは繰り返し説いている。そのむづかしい哲学を、三歳の児童でもわかりそうな図解でもって、懇切に興味深く説明する。私もさらに熱読して多くの収穫を得たいと思っている。
- ^ 「国家は国民に対し国家意思を法という規範として押しだす」という仮説である。
- ^ 吉本は、以下の箇所から刺激を受け、文学理論に活かそうと考えたと述べている。ちょっと考えると、写生されたり撮影されたりする相手についての表現と思われがちな絵画や写真は、実はそれと同時に作者の位置についての表現という性格をも備えており、さらに作者の独自の見方や感情などの表現さえも行われているという、複雑な構造を持ち、しかもそれらが同一の画面に統一されているのです。絵画や写真は客体的表現と主体的表現という対立した二つの表現の切り離すことのできない統一体として考えるべきものであり、主体的表現の中にはさらに位置の表現と見方や感情などの表現とが区別される、ということになります。 — 『日本語はどういう言語か』講談社学術文庫、1976年、18頁
- ^ 川島正平は、ソシュールから橋本進吉、時枝誠記らの理論と比較しながら、三浦つとむの言語論の有効性を解説し、コンパクトにまとめている[8]。
出典
参考文献
- 三浦つとむの追悼文集であり、生活上、研究上、社会運動上において直接親交のあった人々から、芸術家、大学研究者、刺激・感銘を受けた在野研究者・社会活動家に至るまでが、三浦つとむにまつわるエピソード、三浦つとむの主張に対する受容の仕方を語っている。