助川久蔵

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助川久蔵 (すけがわ きゅうぞう、文化10年(1813年)2月15日 - 明治31年(1898年)7月20日)は、江戸時代後期から末期の水戸藩士。字は毎之、のちに徳類(のりよし)。姓は「介川」とも。幕末動乱期を天狗党の一派「本圀寺党」の一員として生きた。

助川久蔵
助川久蔵徳類 (1813 - 1898)
通称 毎之、徳類
生年 文化10年2月15日
生地 常陸国那珂郡大賀村
没年 明治31年7月20日
没地 常陸国那珂郡大賀村
活動 要人警護
水戸藩
所属 本圀寺党(天狗党)
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来歴

常陸国那珂郡大賀村生まれ。助左衛門徳頭を祖父、杢衛門徳満を父、旧姓・鹿島美奈を母とする。若くして士分格となり、文政12年(1829年)10月、第8代水戸藩主徳川斉脩が江戸で早世した際には、水戸への御通棺を16歳の徒士として警護した[1]

天保11年(1840年)時点で小十人目附、15石4人扶持[2]

天狗党の乱

元治元年(1864年)、水戸藩は大きく天狗党諸生党の二派に分かれ、幕府や他藩を巻きこんでの内紛状態にあった。いわゆる天狗党の乱である[3]

水戸城にたてこもった諸生党市川三左衛門らを鎮撫するため、8月4日、水戸へ向かった宍戸藩主・松平頼徳の駕籠脇を、久蔵は務めた。しかし道中、天狗党の一軍(大発勢)を同行させた頼徳の入場を、市川ら諸生党が拒絶。逆に発砲してきたため、頼徳軍は那珂湊まで退却した。だが、諸生党勢の追撃をうけて、これと衝突し、久蔵も数日間の戦闘を戦うことになる。その後は100名余での領内廻村を命じられ、各村の鎮撫にあたる中、諸生党の一団とたびたび遭遇して、戦闘を行った[4]

石名坂の合戦、金沢の合戦

その頃、諸生党との争いを避けたい松平頼徳は対応に苦慮し、多賀郡助川城の城主・山野辺義芸に応援を求めていた。応ずるべきか否か、助川城内ではなかなか意見がまとまらなかった。しかし再三の要請を受け、8月23日、山野辺義芸はついに100余人を率いて水戸城へ向かう。これは市川三左衛門の元、水戸城で人質同然となっていた徳川斉昭夫人らを解放するためでもあった。ところが、市川ら諸生党は那珂川の渡しを押しつぶし、山野辺軍の入城も拒絶。山野辺家の家老・寒河江忠左衛門が説得するも受け入れず、逆に山野辺軍への攻撃を開始した[5]

この時、寒河江忠左衛門の長男・寒河江延之進が馬で駆けつけ、「寺門登一郎ら諸生党助川城に迫りつつある」と告げたため、山野辺軍は急遽反転[6]。8月24日、石神外宿まで引き返してきたところで、頼徳軍に参加していた150人余と合流した[7]

帰路、諸生党との激しい合戦に勝利を収めた石名坂で、久蔵は山野辺義芸への拝謁を許され、金沢の合戦を経て、8月25日、助川城に辿りついた[8]

助川城脱出

ところが直後、山野辺義芸は幕府から逆賊と見なされてしまう。天狗党と行動を共にしていた頼徳軍と義芸が合流したこと、また、山野辺家がもともと水戸藩改革派の重鎮であったことを理由に、市川三左衛門が幕府の天狗党追討軍総督・田沼意尊と相図った結果だった[9]

差し向けられた二本松藩磐城平藩常陸松岡藩の追討軍に、諸生党の各隊、および動員された各村の人足をくわえた1000余名の大軍によって、8月28日、助川城は完全包囲される[10]。久蔵は仲間とともに城を脱出(日時不明)。9月8日、久慈郡中染村に至り、敵と接戦するも、食糧は尽きて疲労困憊、みな散り散りになったところを捕縛され、牢に入れられた。

なお、助川城では9月6日、山野辺義芸と家来たちが他日を期して投降。寒河江忠左衛門以下わずか25名の有志が城に残って、籠城戦を数日間繰り広げたが、9月9日、ついに落城。また、天狗党に同情的だった松平頼徳は、田沼意尊に責任を追及され、「賊魁」という汚名のもと、10月5日、切腹して果てた[11]

本圀寺党の帰還

捕縛された大発勢の中には、陣屋預けや寺社預けになって生き延びた者が多いが、頼徳軍から投降した者には処刑された者、獄中死した者が少なくない[12]。久蔵がなぜ許され、出牢できたかは不明だが、攘夷の志士としてではなく、用心警護や暴徒鎮圧の名目で行動する立場だったことが一因と考えられる。 入牢百日余にして、久蔵は帰村を申し渡され、以降潜伏。慶應元年(1865年)5月、京都へ赴き、本圀寺党に加わった[13]

本圀寺党とは京都の本圀寺を宿所にし、当時12歳で御所守衛の任に就いていた徳川昭武の元、禁中を守衛していた水戸藩兵の一団である。とはいえ、天狗党派閥だったため、諸生党の支配下にある国許からは充分な補給が行われず、その生活は困窮を極めていた[14]

本圀寺党に対して、帰国と諸生党の鎮圧が勅旨されたのは、維新が成立した後の明治元年(1868年)。久蔵は仲間とともに水戸へ帰り、諸生党奥州白川まで追討した。同年10月には、水戸城の奪還を期して再来襲した諸生党弘道館戦争を戦い、これに勝利。久蔵はその後、大賀村へ帰村し、以後は農業に務めて、明治31年(1898年)7月に没した[15]

婚姻・子孫

旧姓・諸澤みよとの間に三男一女を設けた。孫の助川 壽は明治39年(1906年)、茨城県巡査となったのを皮切りに、大正から昭和初期にかけて、大子分署長、松原の各署署長、土浦警察署長、水戸警察署長を歴任[16][17][18]。なお不思議な縁というべきか、助川 壽の孫のひとりは生前、東京都内で開業医として働き、偶然、近所に居住していた山野辺義芸の後裔で、元・常陽明治記念館館長のかかりつけ医となっている。

参考文献

  1. ^ 『松戸市史 史料編2』(近世諸家文書、1973)
  2. ^ 長島尉信編「江水御規式帳」(1840年)、『幕末日本と徳川斉昭』(茨城県立歴史館、2008)
  3. ^ 『水戸市史 中巻五』(水戸市史編纂近現代専門部会、1972)
  4. ^ 茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書(1874)
  5. ^ 鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)
  6. ^ 神永敏子『幕末水戸藩士の眠る丘』(風濤社、1997)
  7. ^ 『助川海防城と陣屋・番所・台場』(助川海防城跡保全会、2007)
  8. ^ 茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書(1874)
  9. ^ 鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)
  10. ^ 『助川海防城と陣屋・番所・台場』(助川海防城跡保全会、2007)
  11. ^ 鈴木 彰『助川海防城 - 幕末水戸藩の海防策 -』(崑書房、1978)
  12. ^ 『日本主義 近代のあけぼのと水戸藩 —その輝きと陰影』(白陽社、2010)
  13. ^ 茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書(1874)
  14. ^ 須見 裕『徳川昭武 万博殿様一代記』(中公新書、1984)
  15. ^ 茨城県参事 関 新平宛 国家関係事蹟書(1874)
  16. ^ 『日本警察新聞』第737号、1928)
  17. ^ 『茨城人名録』(いはらき新聞社、1939)
  18. ^ 前田香径『明治大正の水戸を行く』(いはらき新聞社、1959)