古田敦也
古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は兵庫県川西市生まれのプロ野球選手(選手兼任監督)である。ポジションは捕手。現在は東京ヤクルトスワローズに所属し、2005年シーズン終了後から監督を兼任(2005年秋季キャンプから指揮を執っている)。背番号は27番。身長は180cm、体重は80kg、血液型はB型。妻は、フリーアナウンサー(元フジテレビ)の中井美穂。
オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1988 | 野球 |
球歴
アマチュア時代
川西明峰高校から立命館大学を経て、1988年トヨタ自動車に入社。
当初大学4年の段階でドラフト指名が確実と思われていたが、眼鏡を着用していることが捕手として敬遠され、結局どこからも指名されないという屈辱を味わう。
卒業後は社会人野球へ。トヨタ自動車から全日本代表に選抜され、同年8月のソウルオリンピックで銀メダルを獲得。(公開競技)
ヤクルトスワローズ入団後
1990年、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。ルーキー年から正捕手となる。
入団翌年である1991年のオールスターゲーム第1戦では、パリーグの松永浩美・白井一幸・秋山幸二が盗塁を試みるものの古田に封じられた。その3連続盗塁殺で1安打の古田がMVPを受賞したのは語り草である(なおルーキーイヤーから現在まで毎年オールスターに出場している)。打撃面でも大きく成長。同年には、落合博満との激しい競り合いを制して首位打者を獲得した。
1992年のオールスターゲーム第2戦でオールスター史上初のサイクルヒットを記録しMVPを受賞。1995年の日本シリーズでは対するオリックスのイチロー選手との対決がクローズアップされ注目を集めたが、スコアラー陣のデータと打席での状況を分析して序盤で見事にその打棒を封じ込め、チームを日本一に導いた。1997年には捕手として初めてセ・リーグと日本シリーズ両方のMVPを受賞している。
捕手というポジションのため、怪我も多い。1994年のシーズンには右手の指を骨折し長期離脱を余儀なくされ、ポジションを2番手捕手であった野口寿浩に譲ることとなる。優勝を争っていた2001年シーズンの8月28日対中日22回戦(神宮球場)では、9回表の守備でダグアウト前に上がったキャッチャーファールフライをスライディングキャッチしようとして「左ひざ後ろ十字じん帯損傷で全治3週間」の大怪我をした。翌日から9月23日までは守備につく事ができなかった(8月30日から9月17日までは一軍登録抹消)。その後復帰した後には、膝関節が過度に曲がることを防止するため、すねの後ろに特製のパッドをつけてプレーし優勝に導いた。しかしその後は脚の故障が目立つ様になった。
2003年6月28日対広島14回戦(広島市民球場)では日本タイ記録となる4打席連続本塁打を記録。
2005年4月24日の対広島戦(松山坊っちゃんスタジアム)の6回裏の第3打席において、広島先発大竹寛投手からレフトへのヒットを打ち、史上32人目となる2000本安打を達成。これは、捕手としては師である野村克也に次いで歴代2人目、大学・社会人野球を経て入団したプロ野球選手としては史上初の快挙であった。球場には後に記念碑が設置された。
2005年10月5日の対中日戦(神宮球場)8回2死からラミレス、リグスの連続安打で築いたランナー1、3塁のチャンスで、中日2番手の高橋聡文投手から三遊間を抜くレフト前タイムリーヒットを放ち、史上27人目、大卒社会人を経たプロ野球選手としては初の通算1000打点を達成した。
2007年4月19日の対横浜戦(神宮球場)に出場し、史上37人目の2000試合出場を達成、大卒社会人を経て入団したプロ野球選手では初めてのことである(ちなみにこの試合では審判に対しての暴言で退場処分を受けている)。
このように捕手としては恩師の「野村克也に次ぐ」や又、「大卒社会人(を経て入団したプロ野球選手)」と付く記録が多い、これは大卒社会人を経て、そして捕手としてはほぼ完璧なプロ野球選手とも言える。
攻守の要の名捕手
古田は野村克也らと並ぶ日本球界で有数の名捕手である。プロ入り前後に最大の欠点とされた眼鏡着用にも関わらず、強肩、堅守がプロ入りの同時期に監督に就任した野村克也監督の意向に沿い、その指導もあって、セ・リーグのみならず日本を代表する捕手となった。その頭脳的なリードから「ID野球の体現者」と呼ばれ、対戦相手の打者は投手だけでなく古田の配球との戦いにも直面することになった(打者は、投手ではなく古田との対戦とまで言われた)。
こうした緻密な計算を元にしたリードをする一方で、勝負球を一球目から投げさせたりインサイドに数多くの球を放らせたりと意外なリードをする事も特徴にあげられる(インサイドに投げさせることが原因かどうかはわからないが、死球の数は歴代四位とかなり多い)。また、ボールくさい際どい球をストライクに見せるキャッチングも、打者にとって悩みの種となった。
さらに、強肩と捕球から送球までの早い動作により盗塁阻止率リーグ1位が9回、1993年と2000年には阻止率6割以上という驚異的な数字を残している。
また、守りのみならず、打撃にも優れ、2004年までに通算8回の打率3割は、日本の捕手史上最多である。野村曰く、このような打撃における成長の原因は「捕手としての自分のアドバイスを打撃に利用している」からだとか。
このように正捕手・中軸バッターとして攻守にわたってチームの要として活躍し、5度のリーグ優勝(日本一は4回)に貢献している。
また、2度のノーヒットノーランを導いている。1995年9月9日の対巨人22回戦(東京ドーム)でテリー・ブロス、1997年9月2日の対横浜23回戦(横浜スタジアム)で石井一久をリードして、快挙達成をアシストした。日本プロ野球史上、ノーヒットノーランに複数回立ち会った捕手は通算21人いるが、2006年現在の現役捕手では矢野輝弘(阪神)、谷繁元信(中日)と合わせ計3人である。
選手会会長から選手兼任監督へ
古田の労働組合・日本プロ野球選手会会長としての活動は有名だが、この間(1998年 - 2005年)選手の権利の強化に努め、特に2004年の球界再編においては渡邉恒雄に「たかが選手が」と言われながらも、プロ野球ストライキを決行し、近鉄の消滅は阻止できなかったものの2リーグ制維持のための新規球団である東北楽天ゴールデンイーグルス参入への道筋をつけた。この時期の古田には、ヤクルトファンのみならず対戦相手チームのファンからも惜しみない声援が送られていたことは特筆すべきであろう。また、古田の功績としてアマチュア球界との関係改善があり、プロ経験者による母校訪問・アマ球界での指導者への就任・球児向けのシンポジウムの開催が可能になった。
このように奔走した後の翌2005年には小野公誠や米野智人に捕手としての出場機会を譲ることが多くなった。そして、この年に勇退した若松勉監督の後任に、かつての恩師である野村克也(当時・南海、現・楽天監督)以来29年ぶりに選手兼任監督として2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで同年10月18日、球団と合意した(監督としては2年契約)。それと同時に労働組合・日本プロ野球選手会の会長は退任し、後任を同僚の宮本慎也が務めることになった。こうして臨んだ2006年シーズンでは、監督としては強打者のリグスを2番で起用するなどの大胆な采配でリーグ随一の強力打線を作り上げたが、反面投手陣に故障者が多く、特にリリーフ陣を固定しきれなかった。チーム最多セーブは高津臣吾の13セーブだが、これは12球団で最も少ない数字である。最終順位は3位とAクラスは確保したが優勝した中日には18ゲーム差と大きく水をあけられた。また、注目された交流戦での東北楽天ゴールデンイーグルス・野村監督との「師弟対決」では5勝1敗と大きく勝ち越すことに成功した。選手としては右肩の故障により出場機会は限られたものになり、ほとんどが代打での出場だった。結局終わってみれば自己最低と言っていい成績に終わり、契約更改ではプロ野球史上最大減俸となる1億8000万円ダウンの年俸6000万円(これは選手としての評価であり、監督としての契約交渉は別)で契約を更改、捕手が育っていないチーム事情もあって2007年も兼任監督を続ける事が決まった。
監督として
「野手は複数の守備位置をこなせること」と打ち出しており、青木宣親には二塁、飯原誉士には三塁、宮出隆自には一塁を、本職とは別にこなせるよう命じている。2007年6月20日には宮出の代打に起用した真中満をそのまま一塁の守備に就かせた。
年度毎成績
- 太字はリーグトップ。
年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺 | 打率 | 失策 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
90 | 106 | 334 | 280 | 32 | 70 | 12 | 1 | 3 | 93 | 26 | 1 | 1 | 3 | 4 | 43 | 4 | 44 | 11 | .250 | 2 |
91 | 128 | 485 | 412 | 58 | 140 | 23 | 5 | 11 | 206 | 50 | 4 | 5 | 4 | 3 | 62 | 4 | 59 | 10 | .340 | 4 |
92 | 131 | 568 | 474 | 87 | 150 | 27 | 3 | 30 | 273 | 86 | 3 | 2 | 1 | 4 | 78 | 11 | 87 | 12 | .316 | 7 |
93 | 132 | 595 | 522 | 90 | 161 | 29 | 0 | 17 | 241 | 75 | 11 | 4 | 9 | 2 | 59 | 3 | 83 | 15 | .308 | 1 |
94 | 76 | 287 | 260 | 24 | 62 | 9 | 0 | 3 | 80 | 19 | 3 | 0 | 1 | 3 | 20 | 3 | 40 | 11 | .238 | 2 |
95 | 130 | 551 | 487 | 88 | 143 | 18 | 1 | 21 | 226 | 76 | 6 | 0 | 5 | 7 | 46 | 6 | 51 | 24 | .294 | 2 |
96 | 119 | 492 | 437 | 57 | 112 | 24 | 2 | 11 | 173 | 72 | 5 | 1 | 4 | 1 | 46 | 4 | 68 | 22 | .256 | 3 |
97 | 137 | 598 | 509 | 74 | 164 | 32 | 2 | 9 | 227 | 86 | 9 | 4 | 3 | 4 | 69 | 13 | 64 | 11 | .322 | 5 |
98 | 132 | 552 | 491 | 58 | 135 | 19 | 1 | 9 | 183 | 63 | 5 | 4 | 3 | 4 | 46 | 8 | 62 | 14 | .275 | 3 |
99 | 128 | 548 | 483 | 79 | 146 | 26 | 2 | 13 | 215 | 71 | 10 | 3 | 4 | 7 | 51 | 3 | 41 | 8 | .302 | 2 |
00 | 134 | 562 | 496 | 65 | 138 | 31 | 0 | 14 | 211 | 64 | 5 | 5 | 6 | 4 | 45 | 11 | 54 | 15 | .278 | 4 |
01 | 121 | 503 | 441 | 59 | 143 | 23 | 0 | 15 | 211 | 66 | 1 | 0 | 3 | 7 | 43 | 9 | 41 | 17 | .324 | 3 |
02 | 120 | 458 | 420 | 49 | 126 | 24 | 1 | 9 | 179 | 60 | 3 | 0 | 3 | 1 | 28 | 6 | 47 | 15 | .300 | 3 |
03 | 139 | 576 | 509 | 69 | 146 | 27 | 1 | 23 | 244 | 75 | 2 | 0 | 4 | 3 | 49 | 11 | 77 | 14 | .287 | 5 |
04 | 133 | 532 | 483 | 72 | 148 | 23 | 0 | 24 | 243 | 79 | 1 | 2 | 0 | 3 | 36 | 10 | 66 | 11 | .306 | 2 |
05 | 96 | 357 | 329 | 29 | 85 | 15 | 0 | 5 | 115 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 19 | 5 | 54 | 8 | .258 | 1 |
06 | 36 | 98 | 90 | 11 | 22 | 5 | 0 | 0 | 27 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 13 | 4 | .244 | 0 |
通算 | 1998 | 8096 | 7123 | 1001 | 2091 | 367 | 19 | 217 | 3147 | 1009 | 70 | 31 | 55 | 60 | 747 | 111 | 951 | 222 | .294 | 49 |
年度 | 試合数 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 |
---|---|---|---|---|---|
1990 | 106 | 55 | 26 | 29 | .527① |
1991 | 127 | 83 | 35 | 48 | .578① |
1992 | 130 | 60 | 31 | 29 | .483② |
1993 | 132 | 45 | 16 | 29 | .644① |
1994 | 76 | 24 | 12 | 12 | .500① |
1995 | 130 | 67 | 35 | 32 | .478② |
1996 | 118 | 60 | 36 | 24 | .400③ |
1997 | 137 | 61 | 33 | 28 | .459① |
1998 | 132 | 68 | 38 | 30 | .441① |
1999 | 127 | 59 | 32 | 27 | .458① |
2000 | 134 | 73 | 27 | 46 | .630① |
2001 | 116 | 43 | 22 | 21 | .488② |
2002 | 113 | 52 | 30 | 22 | .423③ |
2003 | 139 | 71 | 44 | 27 | .380① |
2004 | 130 | 58 | 43 | 15 | .259⑥ |
2005 | 87 | 32 | 24 | 8 | .250⑥ |
2006 | 21 | 10 | 9 | 1 | .100 |
通算 | 1955 | 921 | 493 | 428 | .464 |
タイトル・表彰・記録
- ソウルオリンピック 銀メダル(1988年)
- MVP 2回(1993年、1997年)
- 首位打者 1回(1991年)
- ベストナイン 9回(1991年~1993年、1995年、1997年、1999年~2001年、2004年)
- ゴールデングラブ賞 10回(1990年~1993年、1995年、1997年、1999年~2001年、2004年)
- 正力松太郎賞 1回(1997年)
- 日本シリーズMVP 2回(1997年、2001年)
- 月間MVP 4回(1991年5月、1993年8月、1997年5月・9月)
- 24試合連続安打(1992年6月6日~7月11日)
- 1試合4本塁打(2003年6月28日) ※日本タイ記録。
- 4打数連続本塁打(2003年6月28日) ※日本タイ記録。
- シーズン盗塁阻止率.644(1993年) ※日本記録。
- オールスター出場 17回(1990年~2006年)
- オールスターMVP 2回(1991年第1戦、1992年第2戦)
- 1991年のオールスター第1戦で1試合3盗塁刺
- 1992年のオールスター第2戦でサイクルヒット(オールスターでは史上初)
監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム 差 | チーム 本塁打 | チーム 打率 | チーム 防御率 | 年齢 | 球団 |
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2006年 | 3位 | 146 | 70 | 73 | 3 | .490 | 18 | 161 | .269 | 3.91 | 41歳 | ヤクルト |
その他エピソード
- 母校立命館大学のイメージキャラクターになったことがあり、「うちのチームも大したもんだが、うちの母校も大したもんだ」と、言わせていた。
- 2006年時点で東京ヤクルトスワローズのヘッド兼投手コーチを担当する伊東昭光は、古田が1995年に中井美穂と結婚した時の仲人。
- トヨタに入社した経験があるためか、現在も愛車はトヨタ車であり、美穂夫人と共にトヨタホーム(当時はトヨタ自動車内の一事業カテゴリーだった。現在は分社・子会社化されている)のCMに出演したこともある。
- 趣味は将棋で、日本将棋連盟から三段免状を贈呈されるほどの腕前。段位は名誉的に与えられることも多いが、古田の場合は実力三段と言っても過言ではないほどである。この関係で1997年にNHK朝の連続テレビ小説『ふたりっ子』で棋士役として出演を果たしている。また、NHK教育テレビ・将棋対局の正月特番で、羽生善治に挑戦という企画にも出演し、羽生に飛車角の二枚落ちで挑んだが、善戦空しく敗退した。
- 2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。なお眞鍋がブログを書籍化した際は古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際は眞鍋が宣伝用の帯を書いている。
- 2006年のファンサービス企画「F-PROJECT」の一環として、「メガネデー」なる企画が行われた。これは古田が使用している「アイメトリクス」とのタイアップによって実現したもので、メガネ(レンズの入っていない「伊達メガネ」でも可)で入場したファンには特典が贈呈されたほか、選手、球団関係者、更には当日取材したマスコミ関係者らまでもがメガネを着用してファンサービスに努めた。
- 2006年11月21日放送のドラマ「役者魂!」(フジテレビ系、火曜夜9時)第6話に森先生役でゲスト出演した。
- 2006年11月21日、男性誌GQ JAPANの読者投票により『GQ JAPAN Men of the Year 2006』のスポーツ部門で選出された。(⇒参照)
- ヤクルトに入団する投手の中には、「古田さんに受けてもらいたい」と発言する選手も少なくない。石川雅規も、大学時にシドニーオリンピックで古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意した。
- 2007年4月19日の対横浜戦(神宮球場)、0-11と大差のついた7回表2死2塁の状況で、投手遠藤政隆の村田修一への頭部死球で遠藤が退場処分とされた判定に対し、バッター自ら当たりに行っていると抗議。判定が覆らず激怒し球審に暴言を吐いたとして退場となった。その直前に横浜1塁走者石川雄洋が2塁盗塁した際に横浜ベンチに向かって暴言を吐いており、球審は遠藤の投球を報復・危険球と認識しての判定。この退場劇の前に横浜の加藤武治投手は3死球を与えており、後味の悪い試合となった。なお、この試合は自身の2000試合出場を達成した日でもあった。退場は1996年6月29日の阪神タイガース戦の死球を巡る乱闘で、退場処分になって以来、自身2度目。
- 2007年度のオールスター球宴ではファン投票には約15年ぶりにマークシートから外され、福川捕手がマークシートに載っていた。ファン投票・監督推薦のどちらでも選ばれず、18年目で初めてオールスターゲームに出られなくなった。(ただしコーチとしてオールスターのベンチには座ることになる)
主な著書
- 「古田ののびのびID野球」(1993年、学研/単著)ISBN 4054001181
- 「古田式」(2001年、太田出版/共著 古田敦也・周防正行)ISBN 4872335813
- 「心を読み、かけひきに勝つ思考法」(2002年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569622313
- 「勝利のチームメイク」(2003年、日本経済新聞社/共著 古田敦也・岡田武史・平尾誠二)ISBN 4532164389
- 「勝負脳を鍛える」(2004年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569662307
- 「古田のブログ」(2005年、アスキー/単著)ISBN 4756146937 (公式ブログを書籍化)
テレビコマーシャル
関連項目
外部リンク
|
- ※カッコ内は監督在任期間。