杉亨二
杉 亨二(すぎ・こうじ、文政11年10月10日(1828年11月16日) - 大正6年1917年12月4日)は、日本の統計学者、官僚。「日本近代統計の祖」と称される。初名純道。
来歴
肥前国長崎(現在の長崎県長崎市)に生まれ、大村藩の藩医村田徹斎の書生を経て、1848年に大阪市の適塾に入ったが病のため同年帰国した。翌年には江戸に出て蘭学を教える。1853年(嘉永6年)には勝海舟と知り合い、その私塾の塾長を引き受けている。
1860年(万延元年)に江戸幕府の蕃書調所教授手伝となり、1864年には開成所教授となる。この頃、洋書の翻訳に従事している際にバイエルン(現在の独バイエルン州)における識字率についての記述に触れたのが統計学と関わるきっかけになったと後年回想している。
明治維新後は静岡藩に仕え、1869年には「駿河国人別調」を実施したが藩上層部の反対で一部地域での調査と集計を行うにとどまった。
明治4年12月24日(1872年)に太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)を命じられ、ここで近代日本初の総合統計書となる「日本政表」の編成を行う。
一方、現在の国勢調査にあたる全国の総人口の現在調査(当時は「現在人別調」と称した)を志し、その調査方法や問題点を把握するために1879年(明治12年)に日本における国勢調査の先駆となる「甲斐国現在人別調」を甲斐国(山梨県)で実施した。同年の12月31日午後12時現在人を対象として行い、調査人2,000人、調査費用は約5,760円、そして調査対象となる甲斐国の現在人数は397,416人という結果を得た。
その後は政府で統計行政に携わる一方、統計専門家や統計学者の養成にも力を注いだ。統計学研究のための組織である表記学社や製表社(後に変遷を経て東京統計協会)を設立して後進育成を図る一方、1883年(明治16年)9月には統計院有志とともに共立統計学校を設立し自ら教授長に就任した。
1885年(明治18年)12月、統計院大書記官を最後に官職を辞し、以後は民間にあって統計の普及につとめた。1910年(明治43年)には国勢調査準備委員会委員となり、同僚であった統計学者の呉文聰や衆議院議員の内藤守三らとともに長年の念願であった国勢調査の実現のため尽力したが、第1回の国勢調査が行われるのを見ずして病没した。享年90歳(数え年)。勲二等瑞宝章、没後従四位を追贈される。墓所は[東京都]]豊島区染井霊園内。
著書・訳書
その他
- 胸像が出身地である長崎市の長崎公園内にあり、長崎市統計課が杉の命日(12月4日)に献花式を毎年行っている。