ヨーゼフ・ディートリヒ
ヨーゼフ・ディートリッヒ(Josef Dietrich 、1892年5月28日 - 1966年4月)は、ナチス・ドイツの武装親衛隊将官。最終階級は親衛隊上級大将。ダイヤモンド柏葉剣付き騎士十字章受章者。

生涯
戦前~戦中
1892年5月28日、バイエルン王国のアレガウ地方に生まれる。1911年、徴兵でバイエルン砲兵連隊に入隊し、第一次世界大戦では西部戦線に従軍、曹長で退役後は警察官をはじめ幾つかの職を転々としながら国家社会主義ドイツ労働者党に入党。1923年のミュンヘン一揆に参加後、アドルフ・ヒトラーの護衛に従事し、その信頼を得る。1933年にヒトラーの親衛隊兼儀仗兵部隊(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー、略号:LAH)の長に就任(この親衛隊は後に第1SS装甲師団ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラーに成長する)し、ハインリヒ・ヒムラーと並んで武装親衛隊の最高幹部となる(ただし、党内での序列はヒムラーの方が上)。1934年の長いナイフの夜事件では突撃隊の撃滅を指揮して功績をあげ、親衛隊大将に昇進。
1939年に第二次世界大戦が勃発するとディートリッヒはLAH連隊を率いてポーランド侵攻に参加し、翌年のフランス侵攻でも機械化されたLAH連隊は電撃戦に適合していたこともあり大きな戦功をあげた。なお、この対フランス戦においてディートリヒは総統命令を無視してダンケルクへ進撃しているが、それにも関わらず戦功著しかった彼は騎士十字章を授与されている。
続いて参加した1941年のバルカン半島の戦いでは、ドイツ国防軍部隊をしのぐ進撃を見せ、これも独断でギリシア軍部隊の降伏を受理している。この戦功によりディートリヒは柏葉付騎士十字章を授与される。
同年に発動されたバルバロッサ作戦では南方軍集団に所属し転戦、1943年のハリコフ攻防戦においてはパウル・ハウサー親衛隊大将の指揮のもとでソビエト軍を壊滅状態に追込みハリコフを奪回する大活躍を見せる。また、この戦功により剣付柏葉騎士十字章を授与される。
クルスクの戦いに参加した後、ディートリヒは西部戦線に転属。親衛隊上級大将に昇進して連合軍の大陸反攻作戦いわゆるノルマンディー上陸作戦を迎え撃つが敵の上陸阻止はかなわず。しかもこの時の作戦指導は稚拙を極め、部下の将軍から「地図も読めない」と酷評されるほどであった。にも関わらず、ヒトラーのお気に入りであったせいか、その「敢闘」に対する褒賞として、ダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章が授与される。
更に1944年9月新たに編成された第6SS装甲軍の指揮官に任命され、年末に開始されたラインの守り作戦にも参加。後にバルジの戦いと呼ばれるこの戦闘で第6SS装甲軍はヨアヒム・パイパー親衛隊中佐率いるパイパー戦闘団を先頭に激戦を展開したが作戦は失敗。
西部戦線でのドイツ軍の劣勢動かしがたくなると、ヒトラーはディートリヒと第6SS装甲軍をハンガリーに転出させ、迫り来るソ連軍を相手に大規模攻勢を指示する。いわゆる春の目覚め作戦であるが、これも失敗。絶望的な状況の中でディートリヒはまたもや総統命令を無視して第6SS装甲軍をオーストリア方面へと転進させる。第6SS装甲軍は追撃してくるソ連軍を振切ってアメリカ軍の前線に到達。1945年5月9日ディートリヒは、これに降伏を申し入れた。
戦後
降伏後、戦犯としてアメリカ軍による裁判にかけられ、25年の刑が言い渡されたが10年で釈放。しかし、1957年に突撃隊粛清に関して西ドイツによる裁判を受けて有罪。1年半の入獄の後に出所の後はハウサー元親衛隊上級大将と共に旧武装親衛隊員相互扶助協会の活動に従事。1966年4月(日付は21日、22日、24日など諸説ある)にルドウィクベルクにて死去。その葬儀は旧部下7000名の参列のもとで旧国防軍の様式に従い盛大に行われた。
逸話と評価
- 大戦末期、元帥位を欲したディートリヒに応えてヒトラーが新設を指示。バルジの戦いに勝利した場合、ディートリヒは新設される民族元帥に昇進するはずであったが、この戦いはドイツの敗北に終わり、民族元帥位も計画のみに終わった。
- ヒトラーの個人的な信頼を得ていたせいか、度々その指示を無視したが、処罰されるどころか受章・昇進を受け続けた人物である。
- 制服を規定どおりに着用しない癖があり、勝手に制服を改造していたという。(国防軍の将官を模して(あくまで俗説であり、詳細は不明)規定では銀モール刺繍である親衛隊の国家徽章を、国防軍将官の規定である金モールで刺繍して使用していた。)
- 将兵から絶大な人気があり、「パパ・ゼップ」の愛称で親しまれていた。
- 戦後も旧部下から絶大な支持を受け続け、戦友の集会では大変な人気を誇った。
- ヒトラーの評価によるとディートリッヒは「フルンズベルク、ツィーテン、ザイドリッツ」に匹敵する人物とのことである。
- 戦後の裁判で危うく死刑になるところを救ったのは、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥やハインツ・グデーリアン将軍といった国防軍将校の弁護であった。
- 総統命令を無視してアメリカ軍への降伏を強行したことで多くの部下を救った。このことは戦後も非常に高い評価を受けている。
- 高級将校としての教育を受けていないこともあって作戦指導能力はあまり評価されていない。