ベラルーシ語

ベラルーシ共和国の公用語

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ベラルーシ語は、ベラルーシ共和国公用語白ロシア語(はくろしあご)と呼ばれていたこともある。話者は700万人から800万人で、ベラルーシやポーランド東部に分布している。系統的には、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属し、ロシア語ウクライナ語とともに東スラヴグループを形成する。

ロシア語に非常に近いが、ウクライナ語やポーランド語と共通する特徴も持つ。首都ミンスクを含む中央部から東西に広がる中部方言,北東方言,南東方言および西部のポレシエ方言の4つの方言が区別される。

文字

ベラルーシ語は現在キリル文字で表記される。歴史的に、ラテン文字アラビア文字によって表記されていたこともある。

ベラルーシ語のアルファベット

Аа Бб Вв Гг Дд (ДЖдж ДЗдз) Ее Ёё Жж Зз Іі Йй Кк Лл Мм Нн

Оо Пп Рр Сс Тт Уу Ўў Фф Хх Цц Чч Шш Ыы Ьь Ээ Юю Яя

あいさつなど

  • вітаю (vitaju) - こんにちは
  • як (jak) - どう、どのように
  • як маесься? (jak majessia?) - 元気?
  • добрай раніцы (dobraj ranicy) - おはよう
  • дабранач (dabranach) - おやすみ
  • дзякуй (dziakuj) - ありがとう
  • калі ласка (kali laska) - どういたしまして
  • спадар / спадарыня (spadar / spadarynia) - …さん(男性/女性)
  • добра (dobra) - 良い
  • кепска / дрэнна (kiepska / drenna) - 悪い
  • выдатна (vydatna) - 素晴らしい
  • цудоўна (cudouna) - 素晴らしい
  • дзе (dzie) - どこ?
  • адкуль (adkul) - どこから?
  • чаму (chamu) - どうして?
  • я разумею (ja razumieju) - 私は分かる。
  • нічога не разумею (nichoha nie razumieju) - 私は何も分からない。

歴史

1696年まで続いたリトアニア大公国の公用語とされていた言語(ルテニア語と呼ばれることもある)を、古ベラルーシ語と見なすことができる。また、ベラルーシ語はスラヴ語派の諸言語のなかで、最初に聖書が印刷された言語でもある。しかし、リトアニア大公国がポーランドと連合を形成して後、17世紀後半には、ポーランド文化が流入。上流階級の人々はポーランド語を話すようになり、ベラルーシ語は平民の言葉となった。

ポーランド分割1772年-1796年)によって、ベラルーシの地域はロシア帝国に併合された。ウクライナと異なり、ベラルーシの人々に一体性のある民族的な意識はなかった。ポーランド・リトアニア連合では、上流階級は自分たちのことをポーランド人と考えていたためである。近年でも、ベラルーシの人々はロシアとの区別を強くは意識しない。

これは、ベラルーシ語がもっぱら農村部で話され、文化的中心であった都市で話されることが比較的まれであったことによる。たとえば、1897年のロシア帝国の国勢調査では、人口が5万人を越えるベラルーシの諸都市の住民のわずか7.3%が、ベラルーシ語が母語であると答えていた。このような状況のもとで、ベラルーシ語には田舎の教養のない人々の言葉というイメージが定着していった。

19世紀から20世紀初めにかけては、ベラルーシ語の主な話者であった農民は文字を知らず、また、都市ではロシア語やポーランド語、イディッシュ語など用いられていたので、ベラルーシ語が書かれることはきわめて稀であった。しかし、細々とながら、ベラルーシ語を普及させようとする運動もあった。

1918年3月25日、ベラルーシ共和国の独立が宣言され、ベラルーシ語はその公用語とされたが、まもなく、1918年から1919年にかけて、ソヴィエト政府がベラルーシの地域を制圧し、ベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国を建設。1920年代には、全ソヴィエト連邦での「民族化」政策により、ベラルーシ化、民族文化の復興が進められた。行政・司法がベラルーシ語で機能するようになり、多くのベラルーシ語の本が出版された。また、標準語の制定について活発な議論が行われた。

しかし、1930年代に入り情勢は一変する。1933年の正書法改革では、ベラルーシ語の表記法が、明らかにロシア語を真似たものに換えられた。1938年、全ソヴィエト連邦の学校で、ロシア語が必須科目となる。1958年の教育制度改革では、親が子供の何語で教育を受けるのかを選ぶことができるようになった。それによって、多くの人々が子供をロシア語学校に入学させるようになり、ベラルーシ語学校の数は減少した。

1980年代後半のペレストロイカを機に、ベラルーシ語に対する関心が高まった。1990年には、ベラルーシ語がベラルーシ・ソヴィエト社会主義共和国の唯一の公用語とされ、再びベラルーシ化が進められた。1990年1月26日に承認された「言語法」では、2000年までにすべての行政文書・公的文書がベラルーシ語で書かれるようになることが義務づけられた。しかし、1994年アレクサンドル・ルカシェンコ大統領に選出されると、ベラルーシ化の動きは完全に停止した。1995年には国民投票が行われ、ロシア語にベラルーシ語と同じ地位が与えられることが決定された。2005年現在、これまでにない規模でロシア語化が推し進められており、ベラルーシ語に対する政府の支援はまったくない。

ソヴィエト連邦時代にも、ロシア語に較べて、ベラルーシ語については田舎の農民の言葉というイメージが持たれていた。ベラルーシの独立後、そのようなイメージに変化が見られたが、現在の強力なロシア化政策は、ベラルーシ語の完全な消滅さえもたらしかねない。