反軍演説
反軍演説(はんぐんえんぜつ)は、1940年(昭和15年)2月2日に帝国議会の衆議院で斎藤隆夫が行った演説。日中戦争に対する根本的な疑問と批判を提起して、演説した。
経緯
演説
斎藤によれば、演説の要点は以下の通りである[1]。
- 第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか
- 第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか
- 第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和より延(ひ)いて世界の平和が得らるべきものであるか
- 第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問
- 第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等
「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記している[2]。そして、「しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた」と付け加えている。 演説当日の具体的様子として、「時局同志会や社民党(社大党〈社会大衆党〉の誤り、前身政党は社会民衆党)から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである」と記している。 また、衆議院議長で、身内の立憲民政党の小山松寿により、軍部批判にあたる箇所を削除された。
除名
反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写する。
後日、斎藤は懲罰委員会に出席することとなるが、その委員会では、
劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず。
その結果、
委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど
とその有様を紹介している。
そして3月7日の本会にて除名の可否の投票が行われた。投票結果は以下の通り。
- 賛成 296名 : 浅沼稲次郎・河上丈太郎・河野密・三輪寿壮・三宅正一など
- 空票 144名
- 反対 7名 : 牧野良三・名川侃市・芦田均・宮脇長吉・丸山弁三郎(政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党)・北浦圭太郎(第一議員倶楽部)
これにより斎藤は衆議院議員を除名された。
斎藤は除名された後、次の漢詩を詠んでいる。
吾言即是万人声 (吾が言は、即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉〈ほうへんきよ〉は、世評に委す)
請看百年青史上 (請う百年青史の上を看ることを)
正邪曲直自分明 (正邪曲直、自ずから分明)
なお、反軍演説がなぜ衆議院議員を除名されるという結果まで引きおこしたかについて、斎藤は以下を挙げて説明をしている[3]。
- 第一は、政府の無能
- 第二は、議長が速記録を削除したこと
- 第三は、政党の意気地なきこと
除名後の翼賛選挙
衆議院議員除名後には総選挙の延期などがなされた。そして1942年(昭和17年)総選挙では、軍部を始めとする選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、見事衆議院議員に返り咲く。
斎藤は再選に関して、次のように総括している。
今回私の選挙は全国民注目の焦点であったが、ここに至りて第七十五議会の私に対する処分は国民の判決によりて根抵より覆えされ、衆議院の無能と非立憲とを暴露すると同時に、私の政治生涯にとりてそれは永く忘るべからざる記念塔である
逸話
斎藤は「支那事変処理に関する質問演説」(反軍演説)の練習を鎌倉の海岸で何度も行い、そのためによく声をからしていた。これを心配した斎藤の妻乙女は、海岸へ練習をしに行く斎藤に手製のキャラメルを持たせた。この甲斐あって斎藤は以後、声をからすことなく練習に没頭でき、最終的には演説全文を暗記するまでになった。もちろん当日も原稿を見ることなく演説を果たした。
脚注
- ^ 『回顧七十年』「国家総動員法案、質問演説」より。以下のカギ括弧内引用は断りが無い限りこのページからのものである
- ^ しかし、音声では、「唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
- ^ 『回顧七十年』「議員を除名される」
関連項目
外部リンク
- 「国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑」(「支那事変処理に関する質問演説」・反軍演説の全文。議事録から削除された部分も掲載されている)