新潟日赤センター爆破未遂事件
新潟日赤センター爆破未遂事件(にいがたにっせきせんたーばくはみすいじけん)とは、1959年12月4日に新潟県で韓国の工作員による新潟日赤センター爆破未遂事件のこと。
事件の背景
1951年7月から休戦会談がなされるようになり、朝鮮戦争が膠着状態となると、韓国は1952年1月18日に李承晩ラインを宣言し、対馬や竹島は韓国領であるとして日本に「返還」を要求するとともに多くの日本人漁民や日本船を抑留し第一大邦丸事件のような日本人殺害事件も引き起こした。韓国国内の経済状況は国土が荒廃したままで世界最貧国となっていた。 一方、北朝鮮は、1955年に武装闘争色を弱めた在日本朝鮮人総聯合会を設立した。朝鮮総連は以前の在日本朝鮮人連盟のように裁判所や検察庁などを焼き討ちするような大規模な武装闘争は行わないようになっていた。さらに、北朝鮮は共産圏の国々と友好関係を結び、支援を受けることによって、復興を遂げつつあった。それにともない、在日朝鮮人にも資金援助を行うなどして在日朝鮮学校を支援するなどした。韓国政府は北朝鮮に対して教育費援助の援助を止めるよう抗議を行ったが、韓国政府は支援を渋り、在日本大韓民国民団からの抗議を受けて北朝鮮の10分の1の支援を行った。 このような経緯から、在日朝鮮人は朝鮮半島南部(現在の韓国)出身者が99%を占めているにも関わらず、北朝鮮に対しての信頼が寄せられるようになり、大多数が朝鮮総連に加入するようになった。
北韓送還阻止工作員の結成
危機感を募らせた韓国政府は日本に大量の工作員を送り込むことを決定した。1959年9月、韓国政府は日本に戻ることなく韓国に帰還したままであった在日義勇兵(在日朝鮮人の韓国軍への志願者)たちに、在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために日本に潜入して妨害工作活動を行う対日工作員となるよう要請した。韓国政府は在日義勇兵42人・韓国本土人24名からなる対日工作員部隊の北韓送還阻止工作員を結成した。また、北韓送還阻止工作員に含まれていない工作員も日本に送り込まれ対日妨害活動を行うことになる。
新潟日赤センター爆破計画発覚
1959年12月4日、警視庁外事課は新潟県新発田市内のバーで密談を行っていた工作員2名に任意同行を求め、新発田警察署で取り調べを行った。工作員の鞄の中からは雷管を装てんした4本組のダイナマイト3束の計12本が発見され、爆発物取締罰則現行犯で逮捕された。さらに、新潟駅では工作員が駅に預けたガソリン1リットル缶4本を隠したウィスキー箱が発見された。工作員たちは新潟日赤センターを爆破しようとしていたことが明るみとなった。また、この工作事件は韓国大使館の金永煥と来日中の韓国特務機関の幹部が指揮をとっていたことが明らかにされた。この爆破未遂事件は、日本社会、在日朝鮮人社会に衝撃を与えた。事件発覚後、警察は次々と韓国の工作員を摘発した。
12月12日には韓国工作員を載せた明星号が下関近海で暴風に遭い沈没し12名が死亡している。
1960年4月19日に四月革命が起こり独裁者の李承晩大統領が失脚すると工作活動は下火となった。
1960年5月、出入国管理法違反で警視庁外事課によって再び韓国工作員が逮捕される。逮捕された工作員は李承晩大統領直属の景武台機関出身で在日同胞の北朝鮮帰国阻止決死隊のメンバーであった。工作員は日赤センタ―や船や列車を破壊する任務を与えられていた。
出典
- 『読売新聞』1959年12月5日 「北朝鮮帰還 阻止計画の背後追及 爆薬持った工作員抑留の二人家宅捜索」
- 『朝日新聞』1959年12月5日夕刊 「日赤センター爆破図る? 韓国人ら二人を逮捕」
- 『毎日新聞』1959年12月5日 「韓国が「特務工作隊」 警察庁、帰還列車などに厳戒体制」
- 『毎日新聞』1960年5月12日夕刊 「韓国テロ団ら逮捕 "帰還"妨害はかり密入国」
- 『在日義勇兵帰還せず 朝鮮戦争秘史』金賛汀 岩波書店 2007年1月