劉猛 (匈奴)
劉 猛(呉音:る みょう、漢音:りゅう もう、拼音:Liú Mĕng、? - 272年)は、中国三国時代から西晋時代の南匈奴の人物。劉副侖の父。『新唐書』宰相世系表では、劉烏利の子で、去卑の弟となっている。
生涯
泰始7年(271年)1月、劉猛は西晋に叛き、長城を出て孔邪城に駐屯した。武帝は婁侯の何楨を派遣して、節を持たせてこれを討たせた。11月、劉猛は幷州を侵略するが、幷州刺史の劉欽等によって撃ち破られる。
泰始8年(272年)1月、監軍の何楨は劉猛をたびたび討ち破る一方で、劉猛の配下で左部帥の李恪を誘い、劉猛を暗殺させた。李恪はそのまま西晋に降った。劉猛が死ぬと、子の劉副侖は鮮卑拓跋部に亡命したので(これが独孤部となる)、その部衆は去卑の子の誥升爰によって統領された(これが鉄弗部となる)。
劉猛の地位
当時、南匈奴は幷州において左・右・南・北・中の五部に分かれて生活しており、それぞれに部帥を置いていた。『魏書』において劉猛は北部帥と記されているが、『晋書』武帝紀・杜預伝では匈奴帥、胡奮伝では中部帥、四夷伝では単于、『資治通鑑』では右賢王となっており、一定していない。このうちの単于について、内田吟風の『北アジア史研究』では、「劉猛は単于ではなく、五部帥の中の一人右賢王であり、恐らくは単于を自称したため」としている。確かに史書において、南匈奴の単于は呼廚泉以降、単于位を継いだという記録が一切無い。