漢服
漢服(かんぷく/かんふく/ハンフー、中国語ピンイン:hànfú、中国語注音符号:ㄏㄢˋㄈㄨˊ)とは、漢民族の伝統的な民族服飾のことで、また漢装(ハンチュアン)、華服(ホァーフー)、中国服とも言う。主に17世紀中葉以前の漢民族の周礼と民族文化を基礎に形成された民族の特徴を持った礼典服装飾体系、すなわち明末清初以前の漢民族が着ていた、漢民族の風格が濃厚で、代々伝えられてきた民族服飾を総称して言う。





漢服の特徴
現代の漢服の主な特徴は、襟があり、襟に続くおくみ(衽)、ボタンを使わず、帯で締めることにある。見るものに、ゆったりとして飄逸な感じを与えた。これらの特徴は、他の民族の服装とは明らかに異なる。漢服には礼服と普段着の別がある。形の上から見ると、主に上衣下裳(上は襟のある上着、下は裳というスカート状の下衣、衣裳はここから出来た言葉)、深衣(着丈の長い、裾の広がったゆったりした衣服)、襦裙(短い上着とスカート)などの形があった。このうち、上衣下裳に冠を被るスタイルは帝王や百官の厳粛で正式な時に着る礼服で、袍服(深衣)は百官、知識人達の普段着、襦裙は女性が好んで着た。一般の下層の人々は上は短い上着、下は長いズボンだった。冕服は祭祀や即位や朝賀の儀などに、十二旒冕冠とともに用いられた。中国の冕冠は、古代から明朝まで基本的な形状はほとんど変わらない。明朝の万暦帝が着用した冕冠が定陵から出土しているが、前漢から隋の歴代皇帝を描いた閻立本『歴代帝王図巻』に描かれている冕冠とほぼ同じ形状である。翟衣は祭祀や朝賀の儀などに、花釵十二梳とともに用いられた。
漢服の歴史
史前時代~明
約5000年前の中国の新石器時代、仰韶文化の頃に農業と紡績業が始まった。麻で衣服が作られるようになった。その後、蚕を飼い絹糸を取ることを知るようになり、人々の衣冠服飾も日々整っていった。
黄帝時代に冕冠(冠)が現れ、服飾制度が次第に形成されていった。
周後期、政治、経済、思想文化は急激に変化し、特に百家争鳴で服飾について論議が尽くされ、その影響は諸国の衣冠服飾や風俗習慣にも及んだ。「顔淵、邦を為めんことを問う。子曰く、夏の時を行ない、殷の輅に乗り、周の冕を服す。」[1]それは『輿服制』のです。
周の冕は漢服もです。冠服制度は“礼制”に取り入れられ、儀礼の表現形式として中国の衣冠服制度は更に複雑になっていった。衛宏『漢旧儀』や応劭『漢官儀』をはじめとして、『白虎通義』衣裳篇、『釈名』釈衣服、『独断』巻下、『孔子家語』冠頌、『続漢書』輿服志などの中に、漢朝の衣服一般に関する制度が記録されているが、それらはもっぱら公卿・百官の車駕や冠冕を中心としたそれである。
すなわち『儀禮』士冠礼・喪服など、また『周礼』天宮司裳・神宮司服など、さらに『礼記』冠儀・昏儀などの各篇に、周代の服装に関する制度である。周礼とは、儒家が重視する経書で、十三経の一つで、『儀禮』『禮記』と共に三禮の一つ。子日く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。
孔子曰く、禮に非ざれば視ること勿かれ、禮に非ざれば聽くこと勿かれ、 禮に非ざれば言うこと勿かれ、禮に非ざれば動くこと勿かれ。漢服とは、さまざまな吉禮・兇禮・軍禮・賓禮・嘉禮のなかで規定されている服装や道具などの総称。[2]孔子が、伝説の聖王・禹に衣服を悪しくして美を黻冕について褒め称えている部分である。
易経に、黄帝堯舜衣裳を垂れて天下治まるは、蓋し諸を乾坤に取る。[3]乾は天、坤は地で、乾坤は天地の間、人の住む所の意がある。『周易』坤卦に「天は玄にして地は黄」とある。天の色は赤黒(玄)く、地の色は黄色く。だから、冕服(袞衣)の衣は玄にして裳は黄。
待った、『尚書』に虞の衣服のぬいとりにした文様を言う。 日 月 星辰 山 龍 華蟲 宗彜 藻 火 粉末 黼 黻の十二である。
周禮 | 分類 | 男子裝束 | 女子裝束 |
---|---|---|---|
吉禮 | 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる) | 冕服、弁服、朱子深衣 | 翟衣、襢衣、褖衣 |
嘉禮 | 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ) | 冕服、弁服、絳公服、朱子深衣 | 翟衣、鞠衣、襢衣、褖衣、大袖連裳、青蓮裳 |
賓禮 | 外交(邦国に親しむ) | 冕服、弁服 | 細釵禮衣、榐衣 |
軍禮 | 出陣・凱旋(邦国を同じくする) | 韋弁服、皮弁服、冠弁服、短衣大袴、袴褶、裲襠、圓領衫 | 襢衣、褖衣 |
兇禮 | 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ) | 弁服、白幘白帢、褖衣 | 白帢、褖衣 |
皇帝六服 | 皇后六服 |
---|---|
裘冕 | 褘衣 |
袞冕 | 揄翟 |
鷩冕 | 闕翟 |
毳冕 | 鞠衣 |
絺冕 | 襢衣 |
袨冕 | 褖衣 |
清以降
漢民族のこの服飾制度は周から明朝に至るまで、3000年来漢人の服装の基本的特徴には大きな変化はない。300年ばかり前の清初、この服飾制度は崩壊する。清朝の統治者は明朝との戦争中、漢人の民族としての連帯感を弱めるため、また中国統一のため、1644年、明朝滅亡後に満州族の髪型と満州族の服装を強制し、漢民族の服飾を身に付けることを禁止した。史上名高い剃髪易服(髪を剃り、服を替える)である。これにより漢服は次第に消滅させられた。今日の旗袍、長衫、馬褂はいずれも満州族の民族衣装を改良し発展させたものである。
近代
阿片戦争以降の清朝末期に、ヨーロッパ列強の侵略により西洋文化が多く流入する。その後、辛亥革命により満州族統治の清朝が倒れると、中華民国が建国され、近代化に向かう。人々の思想は西洋化に向かい、西洋風の服装に変わり、漢服の回復はなかった。第二次世界大戦後の中華人民共和国の建国以降は人民服が推奨され、成人男子のほとんどが着用し、女性にも多く着られた(改革開放政策以降、次第に洋服も着られるようになった)。この共産主義国家の成立と文化大革命による文化の断絶も、伝統衣装などの文化の継承に大きな妨げとなった。
現代
しかし21世紀初めになり、中国の国力が発展するに従い、人々の目は自国の伝統文化の優秀な面に関心を寄せるようになった。一部の人は、伝統的漢服の復興を呼びかけ、率先して漢服を着て普及運動を始めている。漢服の歴史やデザインについてはさまざまな説があり、これらの漢服復興運動に対して、一般社会からは様々な意見が出されている。
頭飾品
頭の飾りは漢民族服飾の重要部分の一つ。 古代の漢民族の成年男女は、頭髪を髷巻きにし、笄を刺して固定していた。男子は頭に常に冠、布、帽子を載せていた。形は色々な物があった。女性の髪の櫛は色々な種類があり、髪の上には真珠、花、簪など色々な飾り物をした。
周辺国への影響
韓国
朝鮮半島の韓服は騎馬民族の衣装である胡服を原型とするが、漢服の影響も受けており、共通する意匠は多い。襦裙はチマチョゴリと良く似た構成である。
日本
和服は奈良時代の中国の唐の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に漢服に似ている部分は多い。前合わせで帯を締める構成が基本となっているなど、基本的な構成にも似た部分がある。ただし、裁断が曲線的な漢服に対し和服は直線的な裁ち方になっているという違いがある。なお中世以前の和服において、外来の影響はほとんど漢服からのものに限られているが、近世以降の和服は、16世紀に伝わったポルトガルの衣服の影響も受けている。