ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(アラビア語: محمد بن راشد آل مكتوم, ラテン文字転写: Muḥammad bin Rāshid al Maktūm、英語: Mohammed bin Rashid Al Maktoum、1949年7月15日 - )は、ドバイ首長国のアミール(首長)。アラブ首長国連邦の副大統領と首相(在任:2006年2月11日 - )も兼任する。世界でも有数の競走馬のオーナーブリーダーでもあり、その場合は英語読みに近いシェイク・モハメッド(あるいはモハメド、英語: Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。なお、この場合の「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は、一種の称号である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記される。
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム محمد بن راشد آل مكتوم | |
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ドバイ首長国アミール | |
![]() ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(2008年) | |
在位 | 2006年1月5日 - 在位中 |
別号 | アラブ首長国連邦第4代副大統領・首相 |
出生 |
1949年7月15日(76歳)![]() |
配偶者 | ヒンド・ビント・マクトゥーム |
ハヤー・ビント・アル=フセイン | |
子女 |
一覧参照
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家名 | マクトゥーム家 |
父親 | ラーシド |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
経歴
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(ラテン文字転写:Muḥammad bin Rāshid al Maktūm、英語:Mohammed bin Rashid Al Maktoum、1949年7月15日 - )は、ペルシア湾に面したアラビア半島の南西端の地域に位置し、東にオマーン、南にサウジアラビアと隣接し、同時にカタールおよびイランと海上の軍事境界線を共有する7つの首長国からなるアラブ首長国連邦[1]を構成するドバイ首長国のアミール(首長)であり、またアラブ首長国連邦の副大統領と首相を兼任する(在任2006年2月11日‐)。 1949年7月14日、有名なドバイクリーク近くに位置するシンダガ地区[2]に住居のあったアル・マクトゥーム家に生まれる。シェイク・ラシド・ビン・サイード・アル・マクトゥーム殿下の4人の息子の第3子である。兄弟は、シェイク・ラーシド殿下、シェイク・ハムダン殿下、シェイク・ラシド殿下。 競馬に情熱を注ぐ世界でも有数の競走馬のオーナーブリーダーでもあり、英語読みに近いシェイク・モハメッド(あるいはモハメド、英語:Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は、一種のアラビアの称号であり、アラブの指導者という意味がある。アラブ族、家族または村の首長または頭である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記される。乗馬をこよなく愛し、またその競馬愛好家ぶりは特に有名で、アラビアの最も注目に値する種族の1つであるバニ・ヤス[1]連邦に属する部族[3]の血筋を引いており、馬は子供の頃から人生の一部となっている。熱心な騎手で、マクトゥーム家が所有する厩舎ゴドルフィンの設立者である。首長国6か国で世界最大の競走馬の生産、育成およびサラブレッド種雌馬の繋養業務を営むグループ企業のダーレーグループの所有者でもある。2012年、競走馬のメジィ・デュポン160 kmに騎乗し、FEI世界エンデュランス(長途騎乗)決勝戦へと導く。 '''2006年'''2月11日に副大統領と首相に就任して以来、アラブ首長国連邦政府の主な改革に乗り出し、2007年4月にアラブ首長国連邦の連邦政府戦略を始める。2010年に、アラブ首長国連邦を2021年までに「世界で最も良い国の1つ」にすることを目的としたアラブ首長国連邦ビジョン[4][5]に着手する。精力的で権力に富む統率力を具体化し、誓約を交わして行動し実行する。卓越し、優れたものだけを強く求める。 現在、豪華なビジネス目標[2]に向けてドバイの転換を図る責任を負っている。エミレーツ航空[3](アラビア語: الإمارات 、英語: Emirates)やドバイ ポーツ ワールド[4](港湾管理会社、アラビア語: موانئ دبي العالمية、英語: DP World、Dubai Ports World)および高級ホテルチェーンのジュメイラ グループ(関連項目)を含む多数の主要企業の立ち上げおよび経営だけではなく、グローバルシティ[5]にドバイを成長させる計画の重鎮である。その大部分はマルチ型多角経営や投下資本を有する持株会社のドバイ ホールディング[6](Dubai Holding)により保持されており、現在、会社の99.67パーセントの株式を所有している。 これまでテクノロジーパークおよびエコノミック フリーゾーンのドバイ インターネットシティ、ドバイ メディアシティ[7]、ドバイ国際金融センター[8]、パームアイランド[9]および象徴的なブルジュ アル アラブホテル[10]の建設を含むドバイの多数の経済的転換プロジェクトの構築を監督した。また、世界一高い超高層ビルであるブルジュハリファ[11]の建築を指揮している。 アラビア生まれの詩人としても評価されている。
家族
2012年4月現在で20人の子供達の父親となっている。
妃
- ヒンド・ビント・マクトゥーム(1979年 - )
- 詳細な経歴などは全く紹介されていない。5男7女の母親。
- ハヤー・ビント・アル=フセイン(2004年 - )
ヒンド妃との息子達
息子達のうちの数人が2006年のドーハアジア大会におけるエンデュランス馬術競技で金メダルを獲得した。
- 2008年2月1日にドバイ首長国の太子に指名された。ドバイ執行評議会議長、ハムダーン・ビン・ムハンマド電子大学(HBMe-U)学長を務めている。2008年12月にシェイハ・ビント・サイード・ビン・ターニー・アール・マクトゥームと婚約した。
- ちなみに「ハムダーン・ビン・ムハンマド」で「ムハンマドの息子ハムダーン」、「アール・マクトゥーム」で「マクトゥーム家の」の意味があり、「マクトゥーム家のムハンマドの息子ハムダーン」という意味になる。
- ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金の理事長を務めている。
ヒンド妃との娘達
- ドーハアジア大会における馬術の障害飛越競技で銅メダルを獲得した。
- 2009年2月にフジャイラ首長国の太子ムハンマド・ビン・ハマド・ビン・ムハンマド・アッ=シャルキーと結婚した。
他の女性達との間の子供達
母親の名前は公表されていない。
- ムハンマドの第1子。アラブ首長国連邦副首相のマンスール・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン(ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンの弟)と結婚した。
- 2006年6月9日に第1子ファーティマ、2007年12月4日に第2子ムハンマドを出産した。
- ドバイ女性組織(DWE)の会長を務めている。
- マンスール
- ドバイ文化芸術庁の長官を務めている。
- おそらくドイツ人女性との間の子供。
競馬との関わり
イギリスで高等教育を受けたムハンマドは競馬に関心が深く、前述した通り、世界でも有数のオーナーブリーダーとして知られる。
早くからイギリスなどで馬主として活動し、1994年に兄のマクトゥームと共に競走馬の生産・管理・調教などを行う組織ゴドルフィンを設立して本格的に活動を開始した。
また、1996年には世界最高額賞金を誇る競走、ドバイワールドカップを創設した。1999年にはエミレーツ航空をスポンサーとしてワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップを創設(後にエミレーツ航空は撤退、2006年以降休止状態)、世界の名馬がその能力を競う場を提供した。
日本の競馬にも関心を持っており、第3回ジャパンカップにハイホークを出走させて以来、ハートレイク(安田記念優勝)など多くの馬を出走させている[注 1]。また2003年には日本現地法人ダーレー・ジャパン・レーシングを設立し、法人として地方競馬の馬主免許を取得。船橋競馬場の川島正行厩舎などを拠点として活動していた。
2006年に同年のゴドルフィンマイルを優勝した直後のユートピア(2002年全日本2歳優駿、2003年ダービーグランプリ、2004年・2005年マイルチャンピオンシップ南部杯優勝)を400万ドルの移籍金で獲得してゴドルフィンに移籍させている。
ダーレージャパンは関連会社であるダーレー・ジャパン・ファーム有限会社が2007年に中央競馬の馬主免許を取得し、約40億円のトレードで獲得したアドマイヤムーン(2007年ドバイデューティーフリー、宝塚記念優勝)を中央競馬における所有馬第1号とした。しかし、11月1日にダーレージャパングループの代表である高橋力を解任し、11月27日には中央競馬馬主登録を抹消申請した。
2年後の2009年11月25日、JRAはこの年から認められていた日本国外居住者の馬主登録について、ムハンマドが登録したことを発表した。JRAでの馬主登録名は「H.H.シェイク・モハメド」(H.H.はHis Highness=殿下)。また勝負服の柄は「海老、白袖、海老一本輪」。ムハンマドの登録に合わせて、ハヤー妃(登録名:H.R.H.プリンセス・ハヤ)とハムダーン太子(登録名:H.H.シェイク・ハムダン)もJRAに馬主登録したと発表された。2010年3月には所有するルナーレガシーが中央競馬「メイクデビュー中山」で1着となった。2011年には所有馬のデボネアが東京優駿に出走することとなり、観戦のために訪日している。
本人はエンデュランス馬術競技の優秀な騎手であり、数々の大会で優秀な成績を残しており、また自身が大会を主宰する事もある。
- 主な所有馬[14]
脚注
注釈
- ^ 1995年の京王杯スプリングカップにドゥマーニで優勝した際の馬主名義は「ハムダン殿下」の表記。[12][13]
出典
- ^ バニ・ヤス(英語版)
- ^ http://r-cube.ritsumei.ac.jp/bitstream/10367/3277/1/be41_5hosoiT.pdf
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%84%E8%88%AA%E7%A9%BA
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E9%83%BD%E5%B8%82
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%86%E3%82%A3
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96
- ^ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A1
- ^ 『中央競馬全重賞競走成績集 平成18年版』「古馬関東編」日本中央競馬会・刊、2006、p637-710「京王杯スプリングカップ」
- ^ netkeiba 1995年京王杯SC2014年11月10日閲覧。
- ^ netkeiba.com
関連項目
- ジュメイラ・グループ - ムハンマドがCEOを務めるドバイ・ホールディング傘下のホテルチェーン。
外部リンク
- الرئيسية(公式サイト)
- HH Sheikh Mohammed (@HHShkMohd) - X
- ムハンマド首長(在ドバイ日本国総領事館)
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