関谷清景
関谷 清景(せきや きよかげ、安政元年(1854年)12月11日(1855年1月28日) - 明治29年(1896年)1月8日)は、日本の地震学者。世界初の地震学教授。
関谷 清景 | |
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生誕 |
1854年12月11日![]() |
死没 |
1896年1月8日(41歳没)![]() |
居住 |
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研究分野 | 機械学、地震学、火山学 |
研究機関 | 大学南校(現・東京大学)[1] |
主な業績 | 「震災予防調査会」発足に尽力[1] |
プロジェクト:人物伝 |
関谷清景は、安政元年(1854年)12月11日、大垣藩士関谷玄助の長男として歩行町(おかちまち 現・大垣市歩行町)に生まれる。幼名は鉉太郎(かくじろう)といった。清景は7歳の頃から藩校に通い、読書と習字を学んだ。また、早くから英学を習わされていたという。明治3年(1870年)、17歳のとき、大垣藩貢進生(こうしんせい)に選ばれ、大学南校(現・東京大学)に入学する。大学南校の教師はみな外国人で、外国語(英語・ドイツ語・フランス語)の教科書を使い、外国語で授業が行われた。大学南校は、明治7年(1874年)、清景21歳のときに東京開成学校となり、清景は工学本科の第1学年生となる。明治9年(1876年)、文部省派遣海外留学生として機械工学を学ぶため、イギリスに留学することとなる[1]。
明治13年(1880年)2月、横浜地震が発生、この地震の発生前から東京や横浜の外国人地震学者の間で、地震や火山について議論するための学会設立の話が行われていた。同年4月、世界初の地震学に関する学会「日本地震学会|地震学会」が設立された。同時期、地震学会設立の中心人物の一人である、東京大学機械工学科教授ジェームズ・アルフレッド・ユーイングの所に、准教授として関谷清景が雇い入れられた。日本での地震研究が必要と、神田一ツ橋(現・東京都千代田区)の大学構内に地震学実験所を建設し、同年暮れから地震計を設置して記録を取り始めた。清景はユーイングの地震観測のための補助役だった[1]
清景の地震学者としての本格的な活動は、明治16年(1883年)30歳の頃である。『地震学一斑』という論文を発表、世界の地震学の遅れや地震計の製造・改良が急務だと述べた。同年6月、ユーイングがイギリスに帰国し、書き残した『地震験測論』という論文に、「地震観測の成功の多くは清景の尽力によるもので、帰国後のことを清景に託せたのは幸せなことである」と記している[1]。
生涯
- 安政元年(1854年)12月11日 - 岐阜県歩行町(現・大垣市歩行町)に生まれる。
- 明治元年(1868年)15歳 - 父方の伯父・衣斐精蔵の病死により、養子となり衣斐家を継ぐ。
- 明治3年(1870年)17歳 - 大垣藩貢進生に選ばれ、大学南校(現・東京大学)に入学する。
- 明治6年(1873年)20歳 - 衣斐姓から関谷姓に戻る。
- 明治7年(1874年)21歳 - 東京開成学校の工学本科第1学年生となる。
- 明治9年(1876年)23歳
- 明治10年(1877年)24歳 - 春頃に肺結核となる。8月にイギリスを出発、神戸(現・兵庫県神戸市)で療養する。
- 明治12年(1879年)26歳 - 神戸師範学校(現・神戸大学発達科学部)の御用掛に任用され、教員として勤める。
- 明治13年(1880年)27歳
- 2月 - 横浜地震が発生した。
- 4月 - 「地震学会」が発足する。
- 4月14日 - 東京大学理学部機械工学科の准教授となり、地震学実験所の助手を務める。
- 明治14年(1881年)28歳
- 5月12日 - 東京大学理学部助教に任用される。
- 7月15日 - 東京大学理学部助教授に任用される。
- 11月7日 - 「地震学会」の会員となる。
- 明治15年(1882年)29歳 - 製図方法議会委員に任用される。
- 明治16年(1883年)30歳
- 1月 - 論文『地震学一斑』が、東京大学の機関誌『学芸志林』に掲載される。
- 6月 - 東京大学理学部教授・ユーイングがイギリスに帰国する。
- 明治17年(1884年)31歳
- 9月9日 - 内務省御用兼勤を命ぜられる。
- 9月10日 - 地理局勤務を命ぜられる。
- 明治18年(1885年)32歳 - 地理局第4部験震課長に任ぜられる。
- 明治19年(1886年)33歳
- 3月6日 - 東京大学が改組し、帝国大学理科大学助教授に任用される。
- 3月31日 - 帝国大学理科大学教授に任用される。
- 明治20年(1887年)34歳 - 地震動軌跡模型を製作する。
- 明治21年(1888年)35歳
- 明治22年(1889年)36歳
- 明治23年(1890年)37歳 - 非職を命じられる。
- 明治24年(1891年)38歳
- 8月24日 - 理学博士の学位を授けられる。
- 10月28日 - 濃尾地震が発生する。
- 10月29日 - 被災地の人心安定のため、執筆活動を始める。
- 11月17日 - 濃尾地震を調査する委員会の設立を政府に建議する。
- 11月20日 - 大垣で駕籠を使用して被災状況の視察を行う。
- 11月30日 - 濃尾地震に関する取調べを嘱託される。
- 明治25年(1892年)39歳
- 6月25日 - 「震災予防調査会」が発足する。
- 7月14日 - 「震災予防調査会」の委員に任命される。
- 明治26年(1893年)40歳 - 復職を命じられる。
- 明治27年(1894年)41歳
- 8月 - 病状が悪化する。
- 12月 - 板宿村(現・兵庫県神戸市)の禅昌寺で療養生活となる。
- 明治28年(1895年)42歳 - 非職を命ぜられる。
- 明治29年(1896年)1月8日 - 肺結核のため42歳で没す。板宿村の禅昌寺に葬られる[2]。
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主要論文
- 『地質學用語集』Journal of the Geological Society of Japan 1(2), 80-84, 1893-11, NAID 110003013272
- 地質學用語集 地質学雑誌 Vol.1 (1893-1894) No.2 P80-84, doi:10.5575/geosoc.1.80
- 日本大地震 震災豫防調査會報告. 第26號, 1899.2, pp. 4-8, hdl:2261/16792
- 『明治二十七年六月二十日午後二時二十二分秒地震驗測報告』 地質学雑誌 Vol.1 (1893-1894) No.10 P501-503, doi:10.5575/geosoc.1.501
- 共著
- 関谷清景, and 菊地安. "磐梯山破裂実況取調報告." (1888/9/27): 271-274. 官報1555号
- 關谷清景、大森房吉:明治二十七年六月二十日東京激震ノ地震計記録圖 震災豫防調査會報告. 第28號, 1899.9, pp. 97-99
脚注
参考文献
- 橋本万平『地震学事始 : 開拓者・関谷清景の生涯』朝日新聞社〈朝日選書〉、1983年。 NAID 10003214830。
- 野口和子、中村操、津村建四朗、大迫正弘、『地震研究所および国立科学博物館に残された関谷清景・大森房吉の観測帳について (PDF) 』 東京大学地震研究所 技術研究報告 (13), 147-162, 2007, NAID 40015868892