合気
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合気(あいき)とは、武術、武道の用語。一方、修験道の気合術にも気合・合気があり、大東流合気柔術に活用された。
元は近代以前の柔術[1]で相気という表記で用いられ、近代以降合気道や大東流といった体術においても相手の身体の自由を奪う技術として認知されるに到った。
合気道や大東流の合気
1.近現代に合気道等で現在有名な合気は、大東流合気柔術の武田惣角によって明治時代[2]から衆目の前に現れた。合気道、大東流の極意とされ、「体格の良い男が小柄な老人に触れた瞬間投げ飛ばされる」、「数人がかりでおさえつけられた状態から、全員をあっという間に倒す」などの現象が代表的なイメージになっている。
2.大東流では、技を行う上での根幹的技法群のいくつかを指して「合気」と名付けて、それを探求する傾向があるが、大東流から派生した合気道においては、合気は精神的な意味合いを持つ言葉として使用されることがある。合気道開祖の植芝盛平は、合気とは敵を破る術ではなく世界と和合する道であるとし、森羅万象の活動と調和することが合気道の極意であるとした。「合気は愛である」という彼の言葉もよく知られている。
3.合気道では技の源となる力等に関して呼吸力という表現がよく用いられる。
4.武田惣角から合気柔術を学んだ堀川幸道は「合気という意味、技の精神的、根本的な意味を知らないでなぜ合気という言葉を使うのか」と憤慨していたという。[3]
5.国語辞典・百科事典に大東流合気柔術・合気道があっても、合気の意味(由来)の客観的な史料の説明はない。剣道事典の合気は相気の史料がある。合気系武術・武道の合気の意味について、歴史的考察の研究文献は少ない。近年、大東流合気武道本部の情報公開、武田惣角の前半生・会津藩御式内・宮司保科近悳の研究、国立国会図書館の蔵書公開などがあり、合気の意味に関する歴史的考察は以下のとおり明らかになった。。
(1)大正2年、武田惣角は教授代理佐川子之吉のノートに、「アイキ」の技を教えた記述がある。大正11年、神道系の出口王仁三郎が植芝盛平に教えた合気の意味は、双方の史料に見られないという研究・論文がある。
(2)平成22年、武田惣角の後継者・大東流合気武道宗家「武田時宗遺稿集」が発表された。武田惣角は自筆文献を残さなかったが、惣角遺言・秘伝中伝、「武田惣角一代記」などが初公開された。現在確認できない「武田惣角武勇伝」(竹下勇)もあるが、大東流伝承の歴史と異なる内容が見られ、合気の意味、大東流創始者を示唆している。武田惣角は密教念力として真言密教(マントラ・ヨーガ)、神道、瞑想、呼吸法、修験道の気合術・九字護身法(真言秘密法)・占い・民間療法・呪術の足止め術などを修行した。事例として、大東流の技に民間療法の痛点・拇指球・急所を応用した「掴み手」などがある。高弟佐川幸義は「武田大先生の記録」にそろばん占いを見た。易学を20年研究して、合気の原理は易と同じ森羅万象との調和といわれる。大東流合気武道会報7号の合気秘法にも、人の生は気によるもの、気を養うことである。呼吸法により臍下丹田に気を充実させ、気力集中をはかり精神統一。不迷不怖の不動心、無念無想の神気境地に到達せしめ、天地万物の気に合わせ、吉凶禍福を悟り、これに対処する身の軽重、人身透視、未来予知の秘法に至るとある。
(3)武田惣角の壬申戸籍(明治5年)控は「摠角」、現在の原戸籍も万延元(1860)年10月10日生まれ。生家は農民、神道、幕末は竹田姓、明治5年に初めて武田姓になった。明治5年修験禁止、武田時宗遺稿集は武田惣角に真言密教・修験道を指導した人物名の記述がない。調査の結果、大東流の名称・歴史・和歌(方丈記を引用)を与えた霊山神社宮司保科近悳(元西郷頼母)の生涯日誌(646名)に、武田惣角、武術、真言密教、修験道の記述は見られない。修行したとされる霊山寺は天台宗で、江戸時代以降、修験者・修験道場は存在していない。武田惣角が福島で怪我の重症後、空白とされる青年時代に、すべて指導できる天才的な人物がいた。生家近村の民間療法・呪術・九字護身法の大家(会津藩に名人の呼称を与えられ、元藩主松平容保の祝歌掛け軸、大奥の贈呈品がある)、成田山新勝寺で真言密教、湯殿山修験を修行、宿曜道、気学(方位・身体機能・呼吸法・天地現象)、霊視、太占、読心術(人身透視)、気合術、不動金縛り術、足止め術、火災盗難の呪符(早九字)、神習教(神道)、宮内省岩瀬御料地補少教監、農民の易者中川万之丞(本名:惣三郎は、武田時宗の幼名と同じ)と合致した。 修験道は口伝、状況証拠の世界で、物的証拠がなく客観的な評価が難しい。ところが、明治の修験禁止の中で、武田時宗遺稿集の九字護身法、略法早九字の3文様(格子模様・五芒星・梵字)解説は他の文献になく、父惣角が教えた証拠である。易者万之丞は信者に与えた呪符「東方木徳神守護」に、独自の早九字の格子文様が見られる。『会津の民俗12』「魔除け・呪符」に紹介はない。会津で唯一、『魔除け百科』に祈祷師の1例だけで、武田に教えた最も有力な物的証拠である。
(4)合気について、大東流合気武道会報2号に、武田時宗は気合と合気は分けて教え、理論的な解説が見られる。「武田惣角一代記」に理論的な気合ノ術・合気ノ術、実技的な気合の法・合気法の解説がある。また、武田惣角の武術要訣「秘伝中伝」19項目の第1は気合の事。合気の極意「音無きに聞き、姿無きに見る」は、惣角遺言、秘伝中伝、合気ノ術の3か所に記述、合気の意味を示唆している。映画『武蔵』の修験者佐々木小次郎に同じ意味のセリフがある。高名な修験道研究家の見解で、修験の鍛錬の意味であることが判明した。このことから、武田惣角の気合・合気は修験道との関連性がある。
(5)近年の国立国会図書館デジタルコレクションに、明治以降の合気之術、合気術、気合術の65文献が公開されても、著者・経歴不明の著書もあり、専門家の研究発表は見られない。調査の結果、明治44年、『殺活自在気合術』(熊代彦太郎・元教師)に、気合(有心気合・動的・顕熱)、合気(無心気合・静的・潜熱)の理論的な解説がある。「武田惣角一代記」の気合ノ術・合気ノ術は、『殺活自在気合術』と理論的に合致した。
(6)大正11年、『合気之術』(武骨居士)は出版して30年目、20刷重版、著者近藤嘉三(元宮内省勤務)が判明した。合気は読心術、気合の法から得られ、武田惣角の合気の極意「一見して相手を制し」(読心術・人身透視)、気合ノ術と理論的に合致した。 同年、武田惣角は合気道開祖植芝盛平に合気を進言され、大東流柔術から大東流合気柔術に改称した証言もあるが、植芝盛平より9年前に「アイキ」を語った。昭和60年、『合気道教室』に『合気之術』(明治25年)と武田惣角の読心術・気合は合致した調査があり、合気の意味の先行文献として評価される。
(7)「武田惣角一代記」は、実技の鍛錬法に気合の法(気吸い上段右足から打ち込み「ヤア」)、合気法(真言密教のヨーガ・チャクラ呼吸法)、呪文の完成「ウン」は、早九字の五芒星、合気法、神通力法に見られる。合気の理論、実技の両方ある初の文献で、歴史的資料の価値がある。非公開の壁があった大東流研究に、期待された史料を公開したという意義がある。合気の意味の歴史的考察は、密教・修験道・易学の実技に詳しい研究家であれば解明できる。
(8)戦前の参考文献は販売目的のため、歴史上の有名人を引用、誇張された部分があり、研究・論文と同じ著書はない。著書に一次資料の原文紹介はなく、著者の主観的・理論的な解説が中心である。修験道口伝の掟のため、原文を著者に依頼し、実技の解説は少ない。著者の経歴からみて、実技は会得していないと思われる。歴史家の視点から見れば、客観的史料として問題点があっても、多く著書に修験道、合気は読心術、気合の法から会得できる一致点、共通点は評価できる。フィールドワークとして、子孫・門人・関係者の取材記録も、裁判と同じで証拠になる。客観的な著書事例として、明治42年、修験者の『摩訶不思議・浜口熊嶽自叙伝』は、武田惣角と同じ修験者(実川行者)に真言密教・修験道・九字護身法を修行して、密教の秘法、気合術(エィの気合)を民間療法に活かした事実がある。これまで、修験者・易者・忍者の超人的能力を、科学的に証明することは大学教授でも難しい。気の力は西洋医学の死体では確認できない。しかし、易学は専門学校、修験道の忍者は三重大学で教え、『忍術気合術秘伝』に気合・合気の解説がある。真言宗僧侶池口恵観は、気合で枝からスズメを落として念力と表現した。金縛り術は、アメリカの研究所で左右の耳に異なる周波数を聞かせて証明した。僧侶の芥川賞作家玄侑宗久は折れない腕を実演した。大東流武術家は投げ技で互いの手がくっついて離れない触れ合気、呼吸法を鍛錬した抜き合気を再現した。武田惣角の合気といわれる折れない腕、胴上げ潰し(身の軽重)、足止め術、壁抜けの術、隠行術(忍術)、合気不動縛り(不動金縛り術)、触れる前に相手の力を抜く技などは、修験道の呪術、九字護身法、密教念力、気合術、呼吸法と関係がある。
(9)歴史的考察として、武田惣角の気合・合気は、修験道、気合術、合気之術、合気術、気合術浜口熊嶽の文献との一致点・共通点が見られる。
(10)武田惣角が修行した専門分野は武術・真言密教・ヨーガ・修験道・神道・呪術・忍術(忍者八門)・易学・民間療法など多岐にわたる。専門分野全体の内容を評価できる団体・文化研究センター・学会・大学教授の研究文献はなかった。大東流は秘密主義といわれ、武田惣角の故郷会津、戸籍、「武田惣角一代記」の証拠を調査した文献も、なぜか皆無であった。調査の結果、高弟佐川幸義の研究・証言、先祖(親戚武田家を借用)、父力士隊長(竹田惣吉・足軽分の農民)、明治戸籍(農民・祖父惣左衛門)・墓石(祖父より前の惣右衛門)・墓碑(親戚の武田国次、武田興平)、御伊勢宮(屋敷神)、実母は農家生まれ、義母は士族生まれ、双子兄妹の妹は7歳で失明、妻の実家(隣の藩士御供番、居合術、佐藤家)、小野派一刀流門徒名(円蔵寺奉納額に竹田宗角)、会津藩御式内(隣の藩士御供番、剣術の理合・動作を柔術に応用)、宮司保科近悳(元西郷頼母)の生涯日誌・和歌の原文、『武田時宗遺稿集』「武田惣角一代記」、会津子孫関係者の証言、国立国会図書館デジタルコレクションなどが確認された。 戦前は官民格差の気風が濃く、大東流のように歴史上の有名人、古事記などを引用した流派の歴史、ダブルスタンダードは珍しいものではない。新たな客観的史料・証拠・証言によって、合気の意味、大東流創始者が明らかになった。長年、合気を研究された作家故津本陽、西郷頼母研究家牧野登、大東流・合気道研究家、各分野の専門家、郷土史研究家の賛同もあり、平成29年、会津坂下町の人物紹介は全面訂正された。合気の意味、大東流の歴史は合気道などの文献にもみられ、これまでの研究文献・人物事典(生年は訂正済)は見直して、ダブルスタンダードの解消が期待される。
(11)結論として、武田惣角は修験道口伝の掟、大東流歴史の仮託もあり、門人に合気の意味を語らなかった。晩年の遺言「武田惣角一代記」に多くの証拠、合気の意味の手がかり、ヒントを残した。大東流における合気の意味(由来)は、修験道の気合術の気合・合気から引用したものである。
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合気の技にはやらせ疑惑がつきものである。演武で見せる技は時に超人的なものに見えるので、"本当にこのような技が可能なのか疑わしい。技をかけられる側が演技で自分から跳んで「達人の神技」を演出しているのではないか"という疑惑である。このような疑問に関しては、論点をいくつかに分けて論じることが可能である。合気は一概にインチキである、本物である、とは言いにくいものである。
- 力の出し方とする立場
- 吉田始史は腰を中心とし、腰から首までの軸を作り、腰の力をそれぞれの肩まで力のラインを意識できるようになると、接触面の脱力は自ずとつかめるとしている。[4]
- 高岡英夫は体重とモーメントを使用するのが初級の合気、身体各部が同時に動き、支点が揺動するのが中級の合気としている。[5]
- 接触の方法とする立場
- 倉部誠は接触部分から力を検知できないように働かせることで相手が抵抗できないと主張している。[6]
- 吉福康郎は「触覚情報を操る技術」とし、相手に気付かれないよう体勢を変えて技をかけていると主張している。[7]
- 岡本正剛は相手と対立せず相手が想定したよりもわずかに早く接触するとしている。[8]
- 西田幸夫は相手より若干早く動くことで相手が無意識に追いかけることで体勢を崩し自分、相手、その接触点を3つの軸とした回転で押しと引きを同時に作用させるとしている。[9]
- 気を合するとする立場
- 堀川幸道は、錦戸武夫に「気を合するのだ」と説明している。[10]
- その他の要因とする立場
- 保江邦夫は、力学的に合気道の技を解析しながら「合気」はそれらとは別の現象であると主張しており[11]筋電計の計測結果から合気を「自分の生体電流で相手の神経を麻痺させる」技であるという仮説を唱えていた[12]が近年は舞や神道、キリスト教に通じるものを見出し「愛」を唱えている。[13][14]
- 木村達雄は非物質的な防衛システムの働きを消すスイッチを入れるものと主張している。[15]
参考文献
- 『幻の神技 大東流合気柔術』 岡本正剛監修 高木一行編 学研
- 『透明な力』 木村達雄著 講談社
- 『武田惣角と大東流合気柔術』 合気ニュース
- 『武産合気 植芝盛平先生口述』高橋英雄編著 白光出版
- 『合気道修行』 塩田剛三 竹内書店新社
- 『合気道 極意の秘密』 吉丸慶雪 ベースボールマガジン社
- 『孤塁の名人』 津本陽 文藝春秋
- 『深淵の色は 佐川幸義伝』津本陽 実業之日本社 2018
- 『合気の武田惣角』 池月映 歴史春秋社 2015
- 『月刊秘伝2』「武田時宗遺稿集」BABジャパン 2010
- 『大東流合気武道会報2号』武田時宗 大東流合気武道本部 1959
- 『大東流合気武道会報7号』武田時宗 大東流合気武道本部 1975
- 『図解コーチ合気道』「武田惣角の合気の極意」鶴山晃端 成美堂出版 1971
- 『殺活自在気合術』 熊代彦太郎 東亜堂 1910
- 『合気之術』20刷 近藤嘉三 積文館書房 1922
- 『太陽』第1巻執筆者一覧(近藤嘉三) 国際日本文化研究センター 1996
- 『その戦前から戦後への継続と断絶』「大東流」稲賀繁美 国際日本文化研究センター 2005
- 『合気の秘傳と武術の極意』「合気之術」大宮司朗・平上信行 八幡書店 2018
- 『合気道教室』志々田文明・成山哲郎 大修館書店 2006
- 『日本の古武道』「大東流合気柔術」記録映画 日本武道館 1979
- 『日本の古武道』横瀬知之「大東流合気柔術・伝承の歴史」近藤勝之 日本武道館 2008
- 『武道7』「合気道-その歴史と技法」日本武道館 2019
- 『摩訶不思議・浜口熊嶽自叙伝』浜口熊嶽事務所 1909
- 『歴史街道6月特別増刊号』「宮本武蔵」PHP 2019
- 『会津人群像№22』「西郷頼母から保科近悳へ・全面訂正」牧野登 歴史春秋社 2012
- 『会津人群像№38』「武田惣角特集・護身術の会津藩御式内」池月映 歴史春秋社 2019
- 『うつくしま人物事典』「武田惣角・伝承の歴史」福島県教育員会
- 『会津坂下町郷土学習副読本』「武田惣角・全面訂正」会津坂下町教育委員会 2017
- 『歴史春秋92号』「武田惣角は大東流合気柔術の創始者」池月映 会津史学会 歴史春秋社 2021 ISSN 03852288
脚注
- ^ 例えば幕末の『天神真楊流柔術大意録』では相気が「我と敵と一体一気にして、変動の機を打つを相気とも云う。又相気の先とも云う。」とされ、従来剣術で用いられて来た否定的なニュアンスと異なり積極的(肯定的)な戦略技法として表現されている。
- ^ 大東流に客観的に合気の用語が冠され始めるのは武田が神道十三派の大本と知遇を得た1922年以降の事であり、明治末期ではまだ、例えば大東流初期の教授代理として知られる佐藤尚武軒が1905年発刊の『戦捷紀年日本魂』(帝国尚武会)において合気を気合と同じく調息の意味合いで使用している。
- ^ 『武田惣角と大東流合気柔術』. どう出版編集部
- ^ 吉田始史 『コツでできる!合気道―運動基礎理論に学ぶ、武道のコツ』BABジャパン 2008 ISBN 4862203663
- ^ 高岡英夫『合気・奇跡の解読』ベースボールマガジン社 2004 ISBN 4583038348
- ^ 倉部誠 『誰でも体感できる、だから習得できる! できる! 合気術』BABジャパン 2012 ISBN 4862206867
- ^ 吉福康郎 『武術「奥義」の科学―最強の身体技法』講談社 2010 ISBN 4062576880
- ^ 日野晃『武学入門 武術は身体を脳化する』BABジャパン出版局 2000 ISBN 4894223813
- ^ 西田幸夫『空手! 極意化への道 「どうすれば、いつまでも武術として使えるのか――」 』BABジャパン 2013 ISBN 4862207448
- ^ 『合気の極み』. BAB JAPAN
- ^ 保江邦夫 『物理学で合気に迫る 身体「崩し」の構造 BABジャパン 2011 ISBN 4862205844
- ^ 保江邦夫 『武道vs.物理学』、講談社プラスアルファ新書、2007 ISBN 4062724758
- ^ 『合気眞髄: 愛魂、舞祈、神人合一という秘法』海鳴社 2014 ISBN 4875253109
- ^ これに対し長野峻也は脱力することで相手が体を支えられなくなっていると分析している。『『合気開眼』を読んで』
- ^ 吉福康郎 『武術の科学 ルールに縛られない戦闘術の秘密』ソフトバンククリエイティブ 2013 ISBN 4797369027
16. ↑武田時宗「大東流合気武道会報2号」(昭和34年)に気合と合気の意味の解説。
17. ↑熊代彦太郎『殺活自在気合術』は、同名の元小学校教師。
18. ↑『合気之術』の著者は無骨居士、無名氏、20刷の近藤嘉三は元宮内省勤務。