鄒忌

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鄒忌(すうき?~ )
氏を鄒、諱を忌という。威王の治世で宰相となる。

威王に琴を用いて政を語る

政敵、田忌を出奔させる

鄒忌が宰相となった。しかし、将軍の田忌とは、互いに嫌いあっていた。そこに公孫閈という人物が鄒忌にこう説いた。
「侯におかれては、どうして王(威王)のためにを伐つことを計略なさらないのですか。戦に勝てば侯の功績となり、負けたり、進撃もせず討ち死にしなくても、田忌を誅すことはできましょう」と。
鄒忌は納得し、早速、王に説いて、田忌に魏を討たせた。田忌は三度魏と戦い、三度とも勝利した。鄒忌は、そのことを公孫閈に告げた。公孫閈は次の手として、使いに黄金十金を持たせ市中の占い師にこう占わせた。
使いは、「私は田忌の家のものだが、主人が申されるに『わしは、三度たたって三度勝ち、名声は天下万民を轟かせた。ついては大事(反乱)を決行したいと思うが、吉か凶か』と』」
占いをしに行った使いをすぐに出てきたところを即逮捕。使いと占い師にことのあらましを威王の前で証言させた。こうして、田忌を出奔させたのだった。〔田忌視点のこの逸話は田忌の項で〕

美男鄒忌

鄒忌は身長八尺の大男で、その容姿はじつに美しかった。朝廷出仕の正装をし、冠を戴き、鏡を覗きながら、妻に、「私と城北の徐公とでは、どちらが美しいと思うか」と聞くと、妻は、「あなたはずば抜けた美男子。どうして徐公が、あなたにかまいましょうか」とこたえた。城北の徐公も、斉国内では美男子と評判だった。
鄒忌は、妻の答えが信じられず、また同じことを妾に問うと、「徐公がどうしてあなたにかないましょう」と答えた。翌朝、客人が来たので、また同じことを聞くと、「君の美しさには、徐公もかないません」と客人はこたえた。その翌日には、徐公本人がやって来た。じっとみて「かなわないのではないか」と鄒忌は思い、こっそり鏡を覗きたしかめてみると、遠く及ばないと知った。夜寝床に付き、何故みんな嘘を言ったのか、考えた。「妻はえこひいきしたのであり、妾は私を恐れたのであり、客は私になにかもとめるこがあったに違いない」と思い当たった。
そこで、朝廷に出仕して、威王に拝謁して、先日のあらましを述べて、このように結んだ。
鄒忌、「今、斉は大国となりましたが、後宮の待女たちも、お側の方々も、王さまにえこひいきしない者はなく、朝廷の臣では王さまを恐れない者なく、領内の者では王さまに求めるものの無い者はございません。以上のことから愚考しますに、王さまの目はひどくふさがれておいでです」
威王は、すぐに納得し、「群臣吏員で、私の過ちを面と向かって非難できた者には上賞を、書面で非難できた者には中賞を、市場や朝廷で非難して、それを私の耳に入れることができた者には下賞を授けよう」という内容の政令を国中に発布した。政令が下った当初、人々は続々諫言を進め、宮門前の広場は人々でごった返したが、数ヵ月後には間をおいて諫言を進めるようになり、一年後には諫言を進めようにもその余地が無くなってしまった。はこれ聞いて懼れ、みな斉に朝貢した。

一子の孝有るは、五子の孝有るに如かず

鄒忌が、宣王に仕えてから、推薦して仕官させる者が多かった。宣王は、鄒忌が朝廷内で力をもとうとしてやってるのだと思いこころよくなかった。一方、晏首は高い地位にいるのに推薦者がすくなく宣王はこころよかった。すると、鄒忌は、
「私の聞くところでは、『一人の孝子をもつのは、五人の孝子をもつことには及ばない』と申します。ところで、晏首が推薦した者は何人おりましょうか」と言った。この後、宣王は晏首が仕官の道をふさいでいるのだと思うようになった。