サッダーム・フセイン
サッダーム・フセイン(注)(صدام حسين 、1937年4月28日 - )は、イラクの政治家。前イラク共和国大統領、前首相、前革命指導評議会議長。バアス党党首。アラブ人、スンナ派イスラム教徒(ムスリム)。
全名はサッダーム・フセイン・アブドゥルマジド・アッ=ティクリーティー(صدام حسين عبدالمجيد التكريتي Saddām Husayn 'Abd al-Majid al-Tikrītī)。日本ではサダム・フセインと記述されることが多い。
生い立ち
イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で羊飼いの家庭の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。父フセイン・アブドゥルマジド(フセイン・アル=マジドとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・トゥルファはまもなく再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。
10歳の時から母方の叔父ハイラッラー・トゥルファのもとで暮らした。彼の敵に屈しない性格とイラク国粋主義的なアラブ民族主義は叔父の影響から生まれたと言われている。1950年代はエジプトで革命が起こり、王制が倒されてナーセル政権が樹立に向かっている時期にあたり、アラブ諸国ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。1958年にはイラクでもクーデターにより王制が打倒されている。
1955年、首都バグダードに上京したサッダームはまもなくバアス党に入党して革命活動に入った。バアス党は王制を打倒して政権についたアブドゥルカリーム・カーセムの共産主義寄り政策に反対し、1959年にカーセム首相暗殺未遂事件を起こした。この事件に関与したサッダームは逮捕を逃れてシリア、ついでエジプトに逃れた。亡命中の欠席裁判により、サッダームは死刑宣告を受けている。
サッダームはエジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、カイロ大学法学部に学んだ。帰国後の1968年には法学で学位を取得したといわれているが、カイロ大学には彼の在籍記録が存在しない。
権力の掌握
1963年にバアス党がイラクで政権を奪取することに成功すると、サッダームは帰国してバアス党の要職に就いた。しかし、この第一次バアス党政権は短命に終わり、1964年、サッダームは逮捕投獄された。1966年に脱獄するが、この1960年代の間にサッダームはバアス党の治安部門を掌握し、党内の実力者となっていった。
1968年、サッダームも貢献したバアス党のクーデターにより党は再び政権を握ると、サッダームは副大統領・革命指導評議会副議長に就任し、1973年からは国軍司令官を兼ねた。若きリーダーとして国民の期待を集めたサッダームの主導の元で第二次バアス党政権は石油事業の国有化を断行し、石油収入を背景に農業の機械化、農地の分配、学校教育の強化など、近代化と社会福祉政策を推し進めた。しかし、世俗主義的な政策とアラブ系スンナ派ムスリムのイラク中央部出身者の重用は、イスラム知識人(ウラマー)、北部のクルド人や南部のシーア派のような宗教派や少数派の不満を高めることにもなった。
一方でサッダームは政権内での地歩を固め、政敵を排除しつつ次期指導者としての地位を認めさせることに成功した。1979年、アフマド・ハサン・アル=バクル大統領の引退を受けて、大統領に就任する。
サッダーム・フセイン政権の24年
サッダームは大統領に就任すると反体制派を強硬に弾圧し、大統領の独裁体制を構築した。特に、元来世俗主義的アラブ民族主義の申し子であったサッダームは、イスラム教を掲げて政治に乗り出そうとする勢力を政権の脅威と見なして抑圧し、南部のシーア派地域を中心に高まりを見せていたイスラム主義(イスラム原理主義)の動きを弾圧、多くのシーア派法学者(イスラム聖職者)が逮捕、殺害、国外追放の処分を受けた。
イスラムを政治から遠ざけたサッダーム・フセイン政権においては、世俗主義的なイラク一国民族主義が主導的なイデオロギーであった。この思想においては、イラク国民とはすなわち古代メソポタミアの民の子孫であり、サッダーム大統領は国内ではネブカドネザルやハンムラビになぞらえられる偉大な指導者とたたえられた。
ただし、アメリカとの対立姿勢を明確にした後は、キリスト教社会との対決を訴えるレトリックとしてイスラム世界の連帯を唱え、イラク国旗に「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」の文字が加えられる。
イラン・イラク戦争
サッダーム政権のイラクは1980年には前年のイラン・イスラム革命で成立したイランのシーア派イスラム共和国体制が輸入されるのを恐れてイラン・イラク戦争を起こし、イランと戦った。
イラン・イラク戦争の開戦には、同じくイスラム革命の拡大を恐れるアメリカをはじめとする西側諸国の意向が背後で働いたとも言われ、イラクは西側から武器の供与を受けた。
この戦争で、イランと結びつく危険のある国内で反体制少数民族のクルド人を化学兵器を用いて殺戮した。
湾岸戦争
1988年に終結したイラン・イラク戦争は、1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、イランに代わって、豊かな石油資源をもち以前からイラク人によってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへとサッダームの関心を向けさせた。
サッダームは1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言する。しかし、アメリカをはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカを主力とする多国籍軍に敗退した。
敗戦による政権の隙をついて、国内の反体制シーア派が政権への反乱を起こした。しかしシーア派が期待したアメリカの支援は無く、サッダーム政権は鎮圧に成功する。以降、強権政治により、反対勢力を押さえ込むことで、サッダーム政権はかえって安定化した。
湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカを主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器等の大量破壊兵器は廃棄したという。
イラク戦争の敗北と、政権の崩壊
2002年-2003年3月、イラクは国連の兵器査察を受けつつ、アメリカによる武力攻撃の危機にあった。 結局、国連決議がなされぬまま、イラクが大量破壊兵器を保持しているという大義名分をかかげて、2003年3月20日、ブッシュ大統領は、アメリカのイラク攻撃開始した。攻撃には、アメリカ軍が主力であり、イギリス軍がこれに加わった。
4月9日、バグダードは陥落し、5月2日にはアメリカのブッシュ大統領が戦闘終結宣言(開始から44日目)を出した。
サッダーム・フセイン大統領は終結宣言以降も数ヶ月行方不明であったが、2003年12月14日、米軍はサッダームを拘束。現在、大量破壊兵器関係の尋問が行われているとみられる。
なお、イラク戦争の大義名分であった大量破壊兵器は依然見つかっていない。 国連の元査察官も、大量破壊兵器の存在に疑問を呈している。
年譜
- 1937年4月28日 -- イラク北部、ティクリートのアル=アウジャ村にて出生。
- 1957年 -- バアス党に入党。
- 1959年 -- カーセム首相暗殺未遂事件で死刑判決を受け、エジプトに亡命。
- 1963年 -- イラクに帰国。
- 1964年10月14日 -- 逮捕投獄。
- 1966年 -- 脱獄。
- 1968年 -- バアス党によるクーデターに参画。バクル大統領の就任を助ける。
- 1979年 -- バクル大統領引退。大統領就任。
- 1980年 -- イラン・イラク戦争開戦。
- 1990年 -- クウェートを占領。
- 1991年 -- 湾岸戦争に敗北。
- 2003年7月22日 -- 息子のウダイとクサイが米軍との銃撃戦で死亡。
- 2003年8月 -- アメリカが懸賞金をかける。
- 2003年12月14日 -- フセイン元大統領を拘束と日本の各メディアは発表、欧米メディアは、サッダーム拘束と発表している。ティクリートの南15km地点の町の民家の地下に隠れており、銃2丁と75万米ドルを所有しており、付け髭で偽装。同日午後9時に米軍(暫定政権局)が記者会見を行い、サッダームの映像も公開された。
家族
- 父:フセイン・アル=マジド(Husayn al-Majid) 若くして死亡
- 母:スブハ・トゥルファ(Subha Tulfah al-Mussallat)
- 妻:サージダ・ハイラッラー・タルファーフ(Sajida Talfah) 最初の妻で、ウダイ、クサイ、ラガド、タナ、ハラの母。
- 長男:ウダイ・サッダーム・フセイン(Uday)
- 次男:クサイ・サッダーム・フセイン(Qusay)
- 長女:ラガド(Raghad)
- 次女:ラナ(Rana)
- 三女:ハラ(Hala)
- 異父弟:サブアーウィー・イブラーヒーム・ハサン(Sabawi Ibrahim Hasan)
- 異父弟:バルザーン・イブラーヒーム・ハサン(Barzan Ibrahim Hasan)
- 異父弟:ワトバーン・イブラーヒーム・ハサン(Watban Ibrahim Hasan)
注
サッダーム・フセインという名は「フセインの息子サッダーム」を意味する。アラブ諸国ではサッダームと呼ばれており、フセインと呼ぶのは本来適切ではない。なお、全名の「サッダーム・フセイン・アブドゥルマジド・アッ=ティクリーティー」は「ティクリート出身のアブドゥルマジドの息子フセインの息子サッダーム」と解される。詳細はイスラム圏の姓名を参照。