ウォルター・ルーサー
ウォルター・フィリップ・ルーサー(英語: Walter Philip Reuther, [ˈruːθər]; 1907年9月1日 - 1970年5月9日)は、全米自動車労働組合(UAW)をアメリカの歴史上もっとも革新的な労働組合のひとつに作り替えた、アメリカの労働運動および公民権運動の指導者である[1]。彼は労働運動を狭義の特殊な利益団体にとどまらない、民主主義社会における社会正義や人権を推進する手段であると解釈した[1]。彼は、世界における労働者の権利、市民の権利、女性の権利、ユニバーサルヘルスケア、公教育、適正な住宅価格、環境運動、核不拡散を推進するためにUAWの財力や影響力を行使した[1]。彼はスウェーデン型の社会民主主義と非暴力による市民的不服従の信奉者だった[2][3]。1955年、彼はジョージ・ミーニーとともにアメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)を設立した[4]。彼は2度の暗殺未遂から生き延びた。そのうちの1度は12口径のショットガンによる、彼の自宅の台所の窓からの銃撃だった[5]。彼は、1946年から没する1970年まで第4代UAWの会長を、歴史上最長の期間にわたって務めた[6]。
| ウォルター・ルーサー | |
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1955年の公式写真 | |
| 第4代全米自動車労働組合会長 | |
| 任期 1946年 – 1970年 | |
| 前任者 | R・J・トーマス |
| 後任者 | レナード・F・ウッドコック |
| 第3代アメリカ産業別組合会議議長 | |
| 任期 1952年 – 1955年 | |
| 前任者 | フィリップ・マレー |
| 後任者 | ジョージ・ミーニー |
| 個人情報 | |
| 生誕 | Walter Philip Reuther 1907年9月1日 |
| 死没 | 1970年5月9日(62歳没) |
| 死因 | 航空事故 |
| 政党 | 民主党 |
| 配偶者 | メイ・ヴォルフ(結婚 1936年) |
| 教育 | ウェイン州立大学 (中退) |
| 職業 |
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| 著名な実績 | 労働運動, 公民権運動 |
| 受賞 |
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| 署名 | |
ルーサーは、退職者や彼らの家族を含む500万人におよぶ自動車関連の労働者の指導者として[7]、民主党内部に影響力を及ぼした[8]。1961年のピッグス湾事件の後、ジョン・F・ケネディ大統領は、ルーサーをキューバに送り、フィデル・カストロと捕虜の交換に関する交渉に当たらせた[9] 。彼は、平和部隊創立の先陣を切り[10][11][12]、そして、1964年公民権法[13][14]、1965年投票権法[15]、メディケアとメディケイド[16]、そして公正住居法[14]が成立する道筋をつける支援をした。1964年から65年の間、彼はリンドン・ジョンソン大統領とホワイトハウスで毎週のように面会し、偉大な社会や貧困との戦いをめぐる政策や法案に関する議論をした[17]。共和党は、ルーサーを大変警戒しており、1960年アメリカ合衆国大統領選挙の際、リチャード・ニクソン候補は、ジョン・F・ケネディ候補について、「私はウォルター・ルーサーのような政治ボスの選挙支援を受けて当選し、その結果、相手の言いなりになる大統領ほどこの国にとって有害な物はないと考えます。」と述べた[18]。保守政治家のバリー・ゴールドウォーターは、ルーサーについて「わが国にとってスプートニクやソビエト・ロシアによるどんな行為よりも危険です。」と評した[19]。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと公民権運動に対する強力な支援者だった[20]ルーサーは、デトロイト、セルマ[21]、バーミングハム[22]、モンゴメリー[23]、そしてジャクソン[24][25]の行進においてキングと行動を共にした。アラバマ州バーミングハムで、キングと子供を含むその他の人々が収監され、キングが著名な『バーミングハム刑務所からの手紙』を書いた際、ルーサーは抗議者たちを釈放させるために16万ドルを用立てた[26]。また、彼は1963年8月28日に行われたワシントン大行進の計画や資金面を手助けし、キングのナショナル・モールにおける歴史的な演説である『I Have a Dream』の前座として、リンカーン記念堂の階段で演説した[22][27]。セサール・チャベスと全米農業労働者組合の当初の後援者だった彼は、ロバート・ケネディに対しチャベスを訪ね、支援するよう求めた[28]。彼は、全米黒人地位向上協会(NAACP)[29]の役員を務め、民主的行動のためのアメリカ人の共同創立者のひとりだった[30]。生涯にわたって環境保護主義者だったルーサーは、1970年4月22日、はじめてのアースデイの組織・資金面の重要な部分を担った[31]。はじめての全国的なアースデイの主催者であるデニス・ヘイズは、「UAWの存在がなかったら、はじめてのアースデイは失敗だったでしょう!」と述べた[31]。
ルーサーは『タイム』誌によって、20世紀で最も重要な人物のひとりに認定された[32]。1995年、彼はビル・クリントン大統領から大統領自由勲章を没後追贈された。記念式典の際、クリントンは「ルーサーは時代をはるかに先んじたアメリカの先見家であり、彼が亡くなられて四半世紀たった今なお、わが国は彼の夢に追いつけていません。」と述べた[33]。
生い立ちと教育
1907年9月1日、ルーサーは、ウェストバージニア州ホイーリングにおいて、ドイツ系アメリカ人であるヴァレンタインとアンナ(旧姓ストッカー)・ルーサー夫妻の間に生まれた[34]。彼の父であるヴァレンタインは11歳の時にドイツから移民した、ビールの荷馬車の御者にして社会主義者の連合の組織者だった[35]。ルーサーは5人兄妹(テッド、ウォルター、ロイ、ヴィクター、クリスティーン)の次男だった。毎週日曜日にヴァレンタインは子供たちのための討論会を開き、当時の社会問題だったイエロー・ジャーナリズム、児童労働、女性参政権、公民権といった主題について彼らが自らの頭で考えるよう促した[36]。後にルーサーは「父の膝の上で、私たちは労働組合主義の哲学を学びました。私たちは毎日のように労働者の闘いや希望を知りました。」と回想している[37]。子供の頃の彼とヴィクターは、彼らの父とともに、第一次世界大戦の間、その平和主義によって投獄されていたユージン・V・デブスに面会するため刑務所を訪ねた[38]。
ルーサー家は質素な家風で、倹約する事を学んだ。ウォルターの母のアンナは、お金を節約するために、使用済みの小麦粉の袋から子供たちの下着を自作した[39]。ヴァレンタインが瓶の爆発で半ば失明してから、9歳のウォルターは家計の足しにするために雑用の仕事をはじめた。その後、11年生で高校を中退した彼は家計補助のため地元工場で働いた[39]。彼が4人がかりで持ち上げていた400ポンドの金型が落下して、彼の足の親指を切断した時、彼は工場の安全対策が不十分である事を身をもって学んだ[40]。
ルーサー家の子供たちは、幼い時から人種主義について教えられてきた。ある日、彼らは地元の少年らが、屋根がない鉄道車両で地元から北に向かう黒人たちに投石している所を目撃した。彼らの父親は、少年らに対し、絶対に他の人間をそのように扱ってはならないと厳格に警告した。ルーサー家の子供たちはその教えを忘れる事なく、残りの彼らの人生をすべての人々の人種・経済的平等のために戦う事に捧げた[41]。
家から離れデトロイトへ
1927年、19歳だったルーサーはホイーリングを離れデトロイトに向かい、フォード・モーターで、25年の経験を要する工具・金型の製造の専門職に携わったと彼は述懐している。工場長は彼が若いにもかかわらず青図や金型を読み取る能力がある事に困惑し、工場でもっとも高い給料を受け取る技術者のひとりになった[42]。彼はフォードで働く傍らで高校を終え、現在ではウェイン州立大学の名で知られるデトロイト・シティ・カレッジに入った。1932年、彼は大統領選挙にアメリカ社会党の候補者として出馬していたノーマン・トーマスの応援集会を組織した事が理由でフォードを解雇された。フォードにおける彼の公式雇用記録では、彼は自己都合退職扱いとされているが、ルーサー自身は彼の社会主義の政治活動に目をつけられて解雇されたと述懐している[43]。それでも、ウォルターとヴィクターは彼らの子供時代からの夢であった世界旅行をする最高の機会であると考え決断した[44]。
世界旅行
1927年にフォード・モデルTの生産が中止された後、ヘンリー・フォードはその生産設備をソビエト連邦に売却した。そのため、設備の操作の方法を知るアメリカの労働者が必要になった。ウォルターとヴィクターはソ連の労働者に、設備の使い方や流れ作業の方法を伝授する仕事が約束された。仕事が保障された兄弟は、3年間にわたる旅行をはじめた。はじめは自転車でヨーロッパをめぐり、その後、ソ連のゴーリキーにある、暖房がないためしばしば4度から零下1度の寒さになる工場で働いた。彼はたびたびモスクワ・デイリー・ニュースに寄稿し、共産主義者による工場運営のおびただしい非効率を難じた[45]。
ソ連で2年を過ごした後、兄弟はトルコ、イラン、英領インド、そして中国をまわった。東シナ海を渡った後、彼らは自転車で日本各地をめぐって極東旅行をしめくくった。最後にほとんど3年の間、国を離れていた兄弟はサンフランシスコに向かう蒸気船プレジデント・ハーディングの船内の仕事を見つけ、弟のロイが自動車関連の労働者の組織化に深く携わっていたデトロイトに急いで戻った。後にウォルターはこの世界旅行で学んだ事を「すべての人々が、自由と子供たちにより大きな機会を与えられる安定した仕事という、人間としての根本的な目標を切望しています。私たちはアメリカの労働者が、強く民主的な労働組合を組織する事を助ける貢献ができるのではないかと考えました。それこそがなぜ私たちが労働運動に加わったかという理由です。」と述懐している[46]。
政治党派の所属
民主党に入党するまで、ルーサーはアメリカ社会党の党員だった。ルーサーは、それを常に否定していたにもかかわらず、ジョン・エドガー・フーヴァーを含む複数の者は、彼が一時期共産党の党員だった事を疑っていた[47]。この件について、1938年、ルーサーは「私は共産党員でもなければ、その政策の支援者でもなく、どんな形でもその管理や影響下にあった事はない。」と述べた[48]。それでも、人々は彼が1935年から36年の間の数か月にわたって党費を納めていたのではないかと疑惑を抱いており、ひとつの情報によれば、彼は1939年2月に共産党の会議に出席していたという[49]。1930年代半ばのルーサーは共産主義者と協力関係にあった。これは人民戦線の時代の話であり、共産党はUAW内部の問題に関するルーサーの見解に同意していていた。しかし、彼と関係していたのは反スターリン主義の社会主義者だった[50][51]。ルーサーは社会党での活動を続け、1937年には、アメリカ労働総同盟や黒人層が彼を産業別組合会議の公認候補とする事に反対する中でデトロイト市議会議員選挙に出馬したが、当選できなかった[52]。歴史家のマーティン・グラバーマンは、UAWの活動家だったナット・ガンレイの書類の中から、ルーサーが1年に満たない短期間、共産党の党員だった証拠を発見している[53]。それでもフランクリン・ルーズベルト大統領による不平等に対する取り組みや努力に感動した彼は、最後に民主党の党員になった。
全米自動車労働組合
自動車会社に対する抵抗のはじめての勝利
デトロイトに戻った後、ルーサーはヒッチハイクでインディアナ州サウスベンドに赴き、設立されて間もないUAWの第2回年次会合に代議員として出席した。戻った彼はデトロイト西部で新しく組織された第174地域支部の支部長に就き、弟のヴィクターと共に、フォード・モーターにブレーキ・ドラムや車輪を供給していたケルシー・ヘイズで、大手自動車会社相手のストライキをはじめて成功させた。不満の中心は、流れ作業の速度の上昇に耐え切れないという物だった。労働者たちの止めどなく速度が上がる流れ作業に適応しようとする努力もむなしく、手足や彼ら自身の人生までも失う結果となっていた。1936年12月、労働者たちは予告なしで突然のストライキをはじめ、工場の中に座り込んだ。彼らは経営側が彼らの代理人であるウォルター・ルーサーとの交渉に応ずるまで、その場を離れる事を拒んだ[54]。
経営側が工場内の機器を外すために工場の中に入ろうとした所、数千人の支援者らが道に群がり入り口を封鎖した。それらのブレーキ・ドラムや車輪の供給は、フォード・モーターにとって重大な問題だったため、10日間のストライキを経て双方は和解した。自動車工場を組合化する上で、UAWのはじめての重要な勝利だった。ルーサーの主張により、女性は時給75セントの同一労働・同一賃金を勝ち得た。流れ作業の速度は落とされ、会社は、組合に入った事を理由に労働者を解雇する事が不可能になった。UAWの第174地域支部の組合員数はストライキ前の200人から翌年には35,000人に増加した[55]。
ゼネラルモーターズ
1936年当時、ゼネラルモーターズ(GM)は世界で最も大きな企業であり、デトロイトの北方60マイルに位置するミシガン州フリントに多くの工場を抱えていた。ルーサーの弟であるロイは、既にフリントにおいて、自動車会社が労働者の組合を結成する権利を認めるまで生産を停止させるべく、労働者らの組織化に当たっていた。1936年12月31日の大晦日にストライキは開始され、労働者らは工場内に座り込んだまま、退去を拒んだ。ゼネラルモーターズは、工場の暖房を止める事で仕返しした。
ルーサーは、フリントのストライキに参加する労働者への連帯を示すため、GMの高級車であるキャデラックの車体の製造に当たっていたデトロイトのフリートウッド工場のストライキを指導した。ストライキの支援は、カリフォルニア州オークランド、ミシガン州ポンティアック、ミズーリ州セントルイスでも呼びかけられ、フリント座り込みストライキの参加者に対する支援の動きは全国の自動車関連の労働者の間に広がった[56]。
フリントでは、「ブルズ・ラン(警官が逃亡)の戦い」として知られるようになった事件が起こり、警察は労働者たちの強制的な排除を試みていた。100人以上の警官が、ピケッティングしていた労働者たちを催涙ガスや銃で襲い、銃撃された13人の労働者が病院に搬送された。ヴィクターは拡声器が付いた自動車から、労働者たちに反撃するよう鼓舞した。彼らはそれに答えて、零下9度の冬の夜の中、工場の屋根からドアの蝶番に向けてパチンコで発射したり、警官たちに消防ホースを向けて放水した。ヴィクターと女子旅団のリーダーだったジェノラ・ジョンソンは交代で、労働者たちに彼らの持ち場を守るよう拡声器付き自動車から鼓舞を続けた。
ミシガン州知事のフランク・マーフィーは、2,000人の州兵を投入したが、目的は労働者たちの工場からの強制排除ではなく、秩序を維持する事だった。鮮やかな行動の後、労働者たちは、国内でシボレーのエンジンを製造する唯一の工場の実効支配が可能になった。44日の後、ついに労働者たちの組合を結成する権利を承認する事を余儀なくされたゼネラルモーターズは、発足間もないUAWとはじめての団体交渉協定を締結した[57]。
フリント座り込みストライキは、アメリカの産業別労働組合にとってのレキシントンやバレーフォージと見られるようになった。ロイは、「私は、労働者たちが工場から出て来た時のような夜はこれまで見た事がありませんでしたし、おそらく再び見る事もないでしょう。私にとってそれはまるで国家が独立したかのように見えました。ストライキ開始以降、はじめて家族が相まみえ、子供たちは歓喜と幸福の涙を流しながら父親に抱き着きました。それは心に恐れを抱かない労働者たちからなる人々の海でした。」と述懐している[58]。
1950年、ルーサーはゼネラルモーターズの最高経営責任者だったチャールズ・ウィルソンとの交渉の末、デトロイト条約に署名した。それは歴史的な5年間の労働契約であり、ストライキをしない事を確約する代償として、一般の労働者たちに、より高額な賃金、医療保障、年金が与えられた[59]。その時『フォーチュン』誌は、デトロイト条約について「労働者たちを中流社会や中間層まで驚くほどに引き上げた」と書いた[60]。
クライスラー
新興のUAWの次なる標的はクライスラーだった。1937年3月、6万人のクライスラーの労働者がストライキをはじめた。警察がピケッティングや抗議集会の参加者に対して、粗暴な行為に及ぶようになると15万人を超える一般市民が、デトロイトの市街地にあるキャデラック・スクエアに集結し、ルーサーとその他の者が抗議集会を指揮した。ストライキが4週間続いた後、クライスラーはゼネラルモーターズに続いて、UAWとはじめての団体交渉協定を締結した[61]。
フォード・モーター・カンパニー
ヘンリー・フォードは、彼が雇用する労働者たちによる労働組合の組織を絶対に認めないと公言していた。彼の意思の主な実行者は、フォード・モーター・カンパニーの3,000人の男たちからなり、組合結成の動きを見せた労働者たちの脅迫、暴行、解雇を任務とする警備部門を率いるハリー・ベネットだった。1932年、流れ作業の速度の上昇に抗議した労働者たちが、リバールージュ工場から行進した際、彼らはベネットが率いる武装した男たちに襲撃されて、5人の労働者が撃ち殺され、数百名の負傷者が出た[62]。
クライスラーとの協定締結からわずか1か月の後、ルーサーはディアボーンの市当局から、リバールージュ工場の第4出入り口前の公有地で「フォード主義ではなく組合主義を」と題したビラを配布する許可を得た。彼とその他の3人のUAWの指導者が陸橋の階段をのぼっている最中、彼らはベネットの手下たちに襲撃され、ひどい殴打を受けた[63]。
即座にルーサーは少なくとも12人の男たちに囲み込まれ、頭部や体を殴り蹴られ、4フィートの高さまで地面と平行に抱えあげられて、何度もコンクリートの地面に叩きつけられ、その後3階に相当する階段から投げ落とされ、蹴られた。4人もしくは5人の男たちが、駐車場で彼を殴打し続け、それはビラを配布するために向かっていた組合の女性らを乗せた路面電車が到着するまで続いた。その後、その女性たちに、ならず者たちの激しい攻撃が向けられた[64]。
報道カメラマンたちも襲撃され、カメラは取り上げられた、しかし、1台のカメラが、襲撃者たちの注意を引く事を避けながらオープンカーの中に投げ込まれた。そして、翌日、陸橋の戦いは全国区のニュースになった。
ヘンリー・フォードにとって組合の組織者らに対する暴行は、全国の世論が彼に反感を抱くようになった事から長期的には裏目に出る結果になった。『タイム』誌は、ヘンリー・フォードによって雇われたならず者たちが、男女の組合員らに容赦ない暴行を加えている様子を写した写真を掲載した。仕返しとしてフォードは『タイム』『ライフ』そして『フォーチュン』の各誌への広告の出稿をすべて引き上げた[65]。
それは4年の歳月を費やしたが、1941年、最終的にヘンリー・フォードはUAWとのはじめての協定に署名した。直後、ヘンリー・フォードはルーサーに「ハリー・ベネットがUAWをこの工場に入れた事は、彼の行為の中で最も賢い事のひとつです」と言った。ルーサーは「それはどういう意味でしょう?」と尋ねた。フォードは「ええ、あなたがたはゼネラルモーターズやウォール街の集団と戦ってきました。今、あなたがたはここにいて、私たちはユニオン・ショップと彼らが与えた以上の条件を差し出しました。これであなたがたが私たちの側に来るという事でしょう? 私たちはゼネラルモーターズやウォール街との戦いで共闘できます。そうでしょう?」と答えた[66]。
1950年代、ルーサーとフォードのCEOだったヘンリー・フォード2世はクリーブランドの最新鋭のエンジン工場を視察した。工場内を視察してる最中、フォードは最新鋭の自動組み立て装置を指さしながら、「ウォルター、あなたにはこれらの装置に組合費を払わせる方法があるんですか?」と述べた。ルーサーは即座に「ヘンリー、あなたはこれらの装置にあなたの車をどのようにして買ってもらうんですか?」と後に有名になった返答をした[67]。
"1日に500機の飛行機"
第二次世界大戦さなかの1940年、アメリカはヒトラーの侵略に抵抗する連合軍に対する支援のため戦闘機を製造していた。生産は緩慢で不十分な状況であり、連合軍の安全は脅威にさらされていた。アメリカはより多く戦闘機を生産するため、製造工場を新たに建設する事を計画していた。その計画によれば、生産が開始されるまでに2年の歳月を必要としていた。連合国にはそのような時間の余裕はなかった。その応答としてルーサーは「自動車産業の遊休の生産能力を振り向け、1日500機の飛行機が生産可能な大きな航空機生産拠点」とする事を発案した。労働者たちの支援を取り付けた後、ルーサーは1940年のクリスマスの直前、『ルーサーの計画、1日500機の飛行機』を公にした[68]。1940年12月28日、全国に向けたラジオ放送で、彼は次のように述べた。
ロンドンで彼らは身を寄せ合いながら、アメリカからの支援を祈願しています。アメリカで私たちは青図に身を寄せ合いながら、新たな工場でエンジンや航空機の生産がはじまるまでの2年間、ヒトラーがイングランドに対する「総力をかけた」攻撃を延ばしてくれる事を祈願しています。私たちは現時点での飛行機工場の生産計画を妨げる事なく、遊休状態にある自動車の生産能力を振り向ける事により、単一の標準的な戦闘機機種を1日で500機生産する事により、それを補う事が可能であると信じています. . . . かつてイングランドの戦いはイートン校の運動場で勝利を決めたと言われました。アメリカはデトロイトの流れ作業の現場で勝利を決める事ができるのです。イングランドに飛行機を与えたなら、人間を送る必要がなくなるのです[69]。
この計画を受領してから1週間が過ぎた1940年12月30日、ルーズベルト大統領は軍需生産委員会委員長のウィリアム・S・クヌードセンに宛てた書簡の中で「この(ルーサー)計画には十分な検討を払う価値がある」と書いた[70]。さらに3日後の1941年1月2日、ルーサーはホワイトハウスでルーズベルト大統領と面会し、彼の計画である1日500機の飛行機の生産を実現させる方策について、意見を交わした[71]。
ゼネラルモーターズ、フォード、クライスラーのすべてがルーサーの計画に反対の立場をとった。なぜならば彼らは政府に対し、戦争が終わった後、彼らに格安で払い下げられるような新たな飛行機や戦車の工場の建設を要望していたからである[72]。また、彼らは経営側の専権事項とあると見なしていた生産に関する案件に、大胆にも労働者が口を挟むという行為にも不快感を示した。ゼネラルモーターズ会長のアルフレッド・スローンは、この案について「自動車工場の設備のうち、特殊な防衛装備の生産に振り向けられるのは、せいぜい1割から1割5分程度に過ぎません」と述べて嘲った[73]。
真珠湾攻撃の後、ルーサーの提案の多くは採用された。大量の飛行機や戦車がデトロイトの自動車工場によって生産される事で、民主主義の兵器廠の中心として知られるようになり、それこそが連合国の戦勝における決定的な優位になった。1943年、クライスラーの社長のK・T・ケラーは彼の会社の生産設備の8割9分を軍需生産に振り向けたと発表すると、『ワシントン・ポスト』紙の発行者であるフィル・グラハムはルーサーの提案の8割9分が正しかった事を意味すると述べた[74]。戦争終結時、『フォーチュン』誌は「ルーサーは正しい道を歩んだ。多くの実業家たちが利益や無目的なワシントンの代理人にとらわれていたのに対し、この赤い頭髪の労働運動の指導者は瞬発的な行動力を発揮した。彼は決して手を緩めなかった」と書いた[75]。1953年、アイゼンハワー大統領はルーサーにあてた手紙で「私が最後にCIOの大会で演説したのは、第二次世界大戦中の航空機や戦車、船舶、兵器の供給に果たした皆様のすばらしい功績に感謝するためでした。皆様は自らの仕事に携わって、見事に成し遂げたのです」と書いた[76]。
全米自動車労働組合の会長に選出
1945年に戦争が終わった後、ルーサーは、GMに対し新車の価格の引き上げを伴う事なく、労働者の賃金を3割増額させる事を要求するストライキを指導した事によって、彼がそれまでとは違う種類の労働運動指導者である事を証明した。第二次世界大戦の間、労働者の賃金は抑制されており、インフレを伴わない賃上げの実現こそがルーサーの狙いだった。歴史的には、労働者が賃上げを勝ち取った際、企業側はその費用を彼らの顧客たちに転嫁してきた。賃上げを拒んだGMに対する113日間におよぶストライキを経て、時給あたり18.5セントの賃上げで、両者は合意した。このストライキで示されたルーサーの大胆な団体交渉の指導力により、彼は組合の頂点の地位に上り詰める事になった[77][78]。
1946年3月27日、ルーサーは激しく競り合った選挙戦の末、約9,000票のうちわずか124票の僅差で現職のR・J・トーマス会長を破って勝利、新たなUAWの会長に選出された。新たなUAWの会長は「広範な一般市民の福祉のために戦う事を理念に掲げる労働運動」という目標を示した[79]。彼の会長としてのはじめての行為のひとつは黒人のボウラーを受け入れていなかったアメリカン・ボウリング・リーグに統合を求める闘争だった。彼は「社会改革のための手段」として労働運動を展望する新たな種類の指導者だった[80]。
給与
より規模の小さな労働組合の会長たちが、彼の3-4倍の報酬を受け取っていたにも関わらず、ルーサーは意識的に自らの給与を安く抑える事でUAEの組合員たちとの関係を維持し、連帯を示した。ルーサーの年収が31,000ドルを超えた事はなかった。作家のデイヴィッド・ハルバースタムは、「彼の人生は物質的な成功を求める物ではなかった。組合の成果の継続こそが十分な報酬を意味した」と書いた[39]。
労働者組織から共産主義者を追放
ルーサーが選出されてから18か月後、UAWの内部で激烈な権力闘争が起こった。UAWの執行部の3分の2の多数派を、R・J・トーマスの支援者である共産主義者たちが占めていたためである。ひとりの観察者は「共産主義者たちはハンマーと鎌以外のすべてをウォルターに投げつけた」と書いた[81]。続いて、1947年11月に開かれたUAWの全国大会で、ルーサーは圧倒的な勝利をおさめ、組合指導部における共産主義者の影響力が著しく低下した。『ライフ』誌はルーサーの勝利を「アメリカの労働運動の歴史における共産主義者たちの最大の敗北」と報じた[82]。
アメリカ産業別組合会議 (CIO) 議長
1952年、ルーサーはCIOの議長に就任し、それが1955年にAFLと合併するまでの間その地位にあったが、UAWの長は彼が没した1970年まで在任し続けた。ルーサーはCIO議長として、CIO内部の共産主義者が支配的地位にある組合から役員を除く事を求め、ヒューバート・H・ハンフリーは、「わが国におけるすべての民主制度の持続にとって、共産主義者のCIOへの侵入はあからさまな脅威だった。CIOの共産党に対する勝利は、私たちの国にとっても重要な勝利だった」と書いた。これに反応したのは、ソ連の新聞である『トルード』紙で、ルーサーは「裏切者のスト破り」であり、全米商工会議所のお気に入りと呼んだ。共和党はルーサーの事を「共産主義者でアメリカで最も危険な男」呼ばわりした[83]。共産主義者を労働運動から除外するよう努めたにも関わらず、連邦捜査局(FBI)長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、以前にルーサーがロシアで働いていた経験があり、かつて共産主義者との関係があった事から、共産主義者ではないかという疑惑を払拭する事はなかった[84]。
1959年、ルーサーは国務省からの要請により、アメリカを訪問していたソ連のニキータ・フルシチョフ首相と会談した。彼らはとりわけ資本主義と共産主義の比較、労働組織、そして米ソ関係について議論した。サンフラシンスコで行われた会談は国際的な報道の一面を飾った[85]。
団体交渉
UAW会長としてのルーサーは、自動車労働者にとって先例のない生活水準の上昇を伴う契約をめぐる交渉を行った。その上昇の中には、生産性の上昇に伴う定期昇給制度、生活費の上昇に伴う賃上げ、失業補償の割り増し、選択的早期退職、医療や福祉の手当てが含まれた[86]。
彼はゼネラルモーターズ、フォード・モーターそしてクライスラーからなるビッグスリーの自動車会社に対抗する手段として、「パターン・バーゲニング」と呼ばれる戦略を用いた[87]。最初に、彼の交渉目標を受諾する可能性が一番高そうな企業を標的に選んだ。標的とされた企業が歩み寄りを拒んだ場合、ルーサーは競合する他社の生産を中断させずに標的とされた企業の工場のみでストライキを行う事を予告して威嚇した。その結果、標的となった企業は、競合する他社に売り上げや市場占有率を奪われる事を防ぐため、ルーサーの要求を受け入れざるを得なくなった。彼ははじめての合意を取り付けた後、その条件を反復して他の自動車会社に対して要求した上で、はじめての標的企業が合意した条件と同じ条件を受け入れない場合、ストライキをちらつかせた。ルーサーは、自動車会社同士を互いに競争させ、労働側の利益を最大化し、コストのかさむストライキを減らすための手段としてパターン・バーゲニングを用いた[87]。
思想、積極行動主義そして政治に対する姿勢
平和部隊
1950年、ルーサーは『全面的な平和攻勢のための提案』と題した論説において、人道支援や開発の援助のためにアメリカの若者たちを世界の各地に派遣する任意団体を国家が創設する事を提唱した[88]。その後、1950年代を通じてルーサーは次のような趣旨の演説を繰り返した。
1960年民主党全国大会が終わった後の1960年8月、ウォルター・ルーサーは、ケネディの政策綱領や将来の政権人事について協議するために、ハイアニスポートのケネディ・コンパウンドに滞在していたジョン・F・ケネディを訪ねた[91]。その席でルーサーは、ケネディが後に平和部隊となる公的機関を創立する案を飲ませた[91]。ルーサーの指導力のもとにある全米自動車労働組合は、その年の夏の早い時期、発展途上国に派遣される「青年平和部隊」の創設を含んだ政策綱領をまとめ上げていた[92]。その後、ルーサーが熱心に促した事で[93]、1960年10月14日の深夜にミシガン大学で行われた演説で、ジョン・F・ケネディは、その種の組織に関する構想を披露した[94]。
脚注
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