南関東
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南関東のデータ | ||
1都3県の合計 | ||
面積 | 13,556.03km² | |
総人口 | 34,471,652人 (2005年10月1日) | |
1都2県の合計 | ||
面積 | 9,759.48km² | |
総人口 | 26,826,862人 (2005年3月31日) |
南関東(みなみかんとう)とは、関東地方を南北に二分割した場合の南の地方である。一般的には、利根川以南の東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の1都3県を指す事が多いが、分野によって、これとは異なる範囲とされる事もある。対義語は北関東。
範囲
南関東には様々な呼称や別名があり、各分野や立場により、便宜上使い分けられる。
行政上の分類
基本的に、政治・経済の中心である東京都区部にどの県を組み合わせるか、という命題なので、目的によって枠組みは異なる。
- 東京都1263万人(うち区部852万人)、神奈川県883万人、埼玉県707万人、千葉県607万人という巨大な1都3県と比べ、その周囲の県の人口は300万人台以下と格段に少ない(人口は2006年7月1日現在の推計人口)。
- 行政上は、これら1都3県が人口密集による特有の問題や政策課題を持っているため、一括りに南関東としている。経済界では、この1都3県を「首都圏」と呼んでおり、それに倣って行政でも首都圏ということがあるが、法律等の定める首都圏の範囲とは異なっている。
- 国政選挙の南関東ブロック(神奈川県+千葉県+山梨県)
- 関東地方には日本の総人口の1/3が集中しているので、国政選挙の比例区では分割されている。この際、東京都は、区部・多摩地方・伊豆小笠原諸島の全域が東京ブロックとなっている。首都圏の残りの県は、東京都以北が北関東ブロック、東京都以南は、山梨県を含めて南関東ブロックになっている。地形的な理由で山梨県が南関東に入っているのではなく、名目上の都県で北関東・東京・南関東に分けられている。
方角による分類
- 東京都以南(東京都+神奈川県+千葉県)
- 東京都より南の1都2県。
- 東京大都市圏以南(東京都+神奈川県+千葉県+埼玉県)
- 東京大都市圏より南の1都3県。茨城県南西部は東京大都市圏の一角であるが、茨城県全体からすると総面積の1/3に過ぎないために除く。
経済学的分類
- 東京圏(東京都心から同心円状70km圏内 : 約3439万人)
- 東京都心への通勤・通学圏を基準に、経済的連関が深い地域を「東京圏」とする。東京の都市圏は戦後拡大傾向にあるため時期により範囲は異なるが、2000年国勢調査時では東京都心から70km圏内 を指している。この場合、実際の中心点は新宿移転前の旧東京都庁舎(東京都千代田区。現在の東京国際フォーラム)であるが、「都心から○○km圏」「東京○○km圏」というのが一般的である。
- 大阪圏や名古屋圏も同様な距離圏の設定があり、中心点は各市の市役所となっている。大阪圏や名古屋圏では「50km圏」をその範囲としているため、これらとの比較の際には「東京50km圏」が用いられる事もある。「東京圏」は関東地方南部に位置するので、「南関東」と言い換えることもある。
- なお、多極分散型国土形成促進法(昭和63年法律第83号)第22条第1項では「東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県及び茨城県の区域のうち、東京都区部及びこれと社会的経済的に一体である政令で定める広域」としている。
- 三大都市圏キロ圏人口 - 東京70km圏人口 : 34,394,178人(2000年)
- 東京圏の人口推移 1885~2000
- 都道府県別 市区町村別 短大・大学卒業者の割合
- 東京大都市圏(東京特別区の10%通勤圏 : 約3173万人)
- 関東大都市圏(東京特別区および近郊政令市の1.5%通勤通学圏 : 約3461万人)
- 「関東大都市圏」とは、東京特別区、および、政令指定都市である神奈川県横浜市、川崎市、千葉県千葉市、埼玉県さいたま市を中心自治体とし、それらの1.5%通勤通学圏(市町村単位)を基準にした複合都市圏のことをいう。さいたま市が政令指定都市に指定される前は、さいたま市以外の自治体の1.5%通勤通学圏を以って「京浜葉大都市圏」としていた(総務省)。関東地方の南部に存在するので、関東大都市圏(京浜葉大都市圏)を指して南関東ということもある。
- 七大都市圏と五都市圏の統計
- 関東大都市圏 : 34,607,069人(2000年)
- 京浜葉大都市圏 : 34,493,466人(2000年)
- 七大都市圏と五都市圏の統計
歴史的分類
- 律令制が敷かれた奈良時代から中世までの南関東。
- 桓武平氏流諸氏(鎌倉氏、三浦氏、千葉氏、北条氏、秩父氏、長尾氏等)が支配した地域。藤原北家流諸氏(宇都宮氏、小田氏、小山氏、結城氏、佐野氏、川野辺氏、比企氏、那須氏等)や清和源氏流諸氏(足利氏、新田氏、佐竹氏、武田氏、高氏等)が支配した地域は北関東。なお、畿内が日本の中心だった時代の陸上交通を元にした地方区分(五畿七道)では、表記の5国と常陸国は東海道に属し、桓武平氏流大掾氏や平将門らが支配した時代のみ南関東とみなす考え方もあるが、中世以降は小田氏や佐竹氏の治世であったため事実上は北関東と同一地域となっている。
- 利根川以南
- 戦国時代後期、小田原に台頭し関東を席巻した伊勢平氏流後北条氏を豊臣秀吉・宇都宮国綱・佐竹義重らが制圧し、清和源氏新田氏流徳川家康が関東に入封すると、関東一帯は当時の北関東の勢力であった藤原北家・清和源氏流諸氏の体制で統一された。徳川家康は利根川東遷事業を号令し、江戸湾に注いでいた暴れ川・利根川や太日川(現在の渡良瀬川~江戸川)を東遷し、それまで多雨期の氾濫によって湿地帯となっていた入間川~江戸川中下流域低地を開拓(干拓)して江戸の町を確立した。これ以降、利根川を境とした南側を南関東とみなす。現在の一都三県に相当する。関東平野一帯の河川東遷により、以前は自然障壁として関東平野の中央部に広がっていた入間川~毛野川に亘る幾多の河川や広大な低湿原地帯が一気に干拓され、従前から藤原北家・清和源氏流諸氏が治めていた一部地域も含め利根川以南地域一帯が南関東の勢力に組み込まれた。この時代、相模国(鎌倉や小田原)から武蔵国(江戸)に南関東の中心が北上した。なお、南関東の重要拠点であった小田原城には藤原北家宇都宮氏流を称す大久保氏が入封し明治時代まで続いた。
- 開国後から高度経済成長初期までの関東主要部(この時期は都市の時代であり、現在のような都県単位で都市圏を設定できるほどの人口や都市システムはなかった)。六大都市の東京市と横浜市を含み、陸上交通の面でも、日本の大動脈である東京~大阪間の沿岸交通網が通り、早くから近郊鉄道網・観光地・首都高速が発達した。関東を南北二分割する際に用いられる区分ではないが、そのような地盤のもとに現在の都市圏が成立しているため、東京都と神奈川県の1都1県を漠然と南関東とすることが現在でもある。
- 1都2県(千葉県+東京都+神奈川県)
- 高度経済成長期の南関東。第二次産業が国を支えていた時代、臨海工業が盛んだった「京浜工業地帯」を抱える東京都と神奈川県、「京葉工業地域」を抱える東京都と千葉県という枠組みが重要視され、「千葉県+東京都+神奈川県」による1都2県が関東の産業の中心として南関東とされた。後に第三次産業が産業の中心になったため、マーケットとして人口の多い埼玉県をも組み込み、1都3県で南関東となった。特に、バブル景気によって東京都心の地価が高騰して、東京都の人口減、3県の人口増が発生し、経済界では一都三県を南関東とする認識が更に浸透した。
その他
歴史
古代、関東地方の平野中央部を流れていた入間川(現在の荒川~隅田川)、荒川(現在の元荒川~中川)、利根川(現在の古利根川~中川)、渡良瀬川・太日川(現在の江戸川)および毛野川(現在の鬼怒川)は「暴れ川」と呼ばれ、大雨の度に氾濫を繰り返すため中・下流部の低地には湿地帯が広がっていたといわれる。
現在の霞ヶ浦~手賀沼を含めた一連の湿地帯が干拓されて耕地となったのは江戸時代以降のことである。徳川家康は江戸に入封した後、旧利根川と旧荒川の瀬替え事業を号令し、江戸湾(走水海)に注いでいた旧利根川と旧渡良瀬川を東遷して毛野川に分流させ、また旧荒川を西遷して旧入間川(現在の荒川~隅田川)に合流させる瀬替えを行った。この事業で武蔵国中部~常陸国水郷に広がる低湿地や香取海等の浦は干拓されて耕地となり、さらに入間川の河口部(現在の隅田川の河口)は埋め立てられ江戸の下町に生まれ変わったと言われる。この事業の以前、現在の東京日比谷は江戸湾の磯に面した海苔や牡蠣の養殖場であり、また神田付近にあった一山を崩してその土砂を干拓に用いたといわれる。
古代の北関東(関東地方の東山道区域)には毛野川流域に毛野国が成立し、一方の南関東には多摩川流域に无耶志国が成立していた。毛野国から分国された下野国の国造氏一族である下毛野氏|下毛野古麻呂は奈良時代、大和朝廷に呼ばれ藤原不比等とともに大宝律令(701年制定)の編纂に従事し、律令制が敷かれた際には武蔵国は東山道の地域区分に割り当てられていたから、当時の武蔵国は北関東と同一地域であったとみなすこともある。その直ぐ後の771年、武蔵国は東海道に編入され、江戸時代以前の地方区分が形作られた。
平安時代、桓武天皇は多くの皇子に恵まれ、その職位を増やすために親王任国制度を作り、上野国、常陸国、下総国をこれに指定した。親王は赴任せずに禄を得られたため、親王の血族で下級貴族であった桓武平氏の勢力が関東一円に広がり坂東平氏が起こった(鎌倉氏、三浦氏、千葉氏等)。坂東平氏は地域に土着し強い勢力を有することになり、鎌倉幕府を起こした清和源氏・源頼朝の一族でさえ坂東平氏一門の北条氏に滅ぼされ、また戦国時代に関東に覇を唱えた伊勢平氏の後北条氏には関東の名門清和源氏流佐竹義重や同里見義康、藤原北家流宇都宮国綱、同結城晴朝も疲弊させられたが、何れも清和源氏を称する勢力(新田氏、徳川氏など)によって制圧された。
制圧の後、鎌倉には清和源氏流足利氏が、また小田原には藤原北家宇都宮氏流を称す大久保氏が配置されこれを統治した。この期間、鎌倉は和賀江島を拠点とする宋や元との交易によって富を得て、また鎌倉から関東各地には鎌倉街道が設けられ、南関東の中核として大いに繁栄した。
江戸時代、徳川幕府は先述の利根川東遷により江戸から北関東に至る水路を確保し、北関東・陸奥国と江戸を結ぶ物流水路を整備することに成功した。この水路整備こそが江戸の町を世界に名だたる大都市とする基盤となったのである。徳川家は腹心・譜代の旗本等(何れも藤原北家・清和源氏の諸流一族)を関東各地に配し、明治維新によって王政復古・版籍奉還がなされるまで、関東一帯はいわば藤原北家・清和源氏流諸氏が支配する土地となり、逆にこれが関東の文化を比較的画一化・平坦化したと言える。
江戸時代も末期になると、南関東は将に異国人と直接接する機会も多くなり、生麦事件などの外国人殺傷事件もしばしば起きるようになった。明治時代以降、南関東には貿易港が確立して巨額の富を得ることとなり、この富を利用した政策が採られるようになった。
このように、東京湾の近くには、鎌倉には鎌倉幕府、東京(幕末までの江戸)には江戸幕府や明治政府といった、政権の本拠地が置かれていた。
この東京湾近辺の政権の特徴として、畿内(近畿地方中部)と陸奥国(東北地方太平洋側)の間に位置する「前線」としての位置付けが大きい。
鎌倉幕府や江戸幕府が文治支配を敷いた時代には、武士団や地方王国が濫立しており、どちらかといえば地方分権的で、「関東平野の独立国家」という色が濃かった。しかし、明治政府が中央集権体制を成立させて以降は、急速な近代化と一極集中型経済政策により、政権の所在地である東京とその近辺は、急激な変化の渦中に巻き込まれた。
「南関東」という場合、狭義では「東京とその近辺」を指す事もあるが、実際には南房総や伊豆半島のように「『東京とその近辺』よりも南側の地域」が存在する為、注意を必要とする。
南関東は、政権の置かれた場所、街道の整備、防御性、経済の発展などによってその領域が変化し、領域内の地勢も変化して来た。
地理的一体性が無い時代
- 畿内政府と五畿七道
律令制度下の五畿七道の区分では、「東山道の碓氷関(碓氷峠)から東の国」である上野国と下野国が北関東に当たり、「東海道の足柄関(箱根峠)から東の国」である相模国・武蔵国・安房国・上総国・下総国・常陸国が南関東に当たる。
但し、武蔵国は沿岸国ではあるが、東海道に転属したのは770年以後であり、それ以前の武蔵国は東山道に属していた。つまり、奈良時代の内、風土記が編纂された時期(713年頃)と、聖武天皇が政権を握っていた時代(743年頃)における「関東」の名称は、「東山道の不破関(関ヶ原)から東の国」「東海道の鈴鹿関(鈴鹿峠)から東の国」「北陸道の愛発関(愛発山)から東の国」を指していたので、江戸時代の中山道六十九次の内、関ヶ原から江戸(東京)までが東山道に属した事になる。
国府所在地を見ると、武蔵国と相模国においては、甲府盆地から関東平野に出た最初の平地である武蔵府中や海老名、下総国では武蔵国から江戸川を渡ってすぐの市川、上総国では東京湾沿いに上総国に入ってすぐの市原、上野国では日本海から関東平野に出た最初の平地である前橋、下野国では前橋から足尾山地の南端を回って下野国主要部に入った所の栃木市、安房国では相模湾沿いの館山、常陸国では太平洋から当時内海だった霞ヶ浦に入った先の石岡(旧称:常陸府中)という風に置かれていた。つまり、対馬海流グループの上野国・下野国、内陸グループの武蔵国・相模国・下総国・上総国、黒潮グループの安房国・常陸国と分かれていた。
このような五畿七道と国府所在地とのズレは、国府に下向する貴族や官僚の利便性が良く、防御や水利の良い土地に国府が置かれたためであり、南関東、又は関東地方全体としての地理的一体性が無い、分割統治が為されていたことになる。
又、律令時代の南関東は、流刑における遠流の地とされた(近流:北陸道越前国。中流:東山道信濃国、南海道伊予国。遠流:東海道伊豆国、安房国、常陸国、北陸道佐渡国、山陰道隠岐国、南海道土佐国)。即ち、畿内から見れば、南関東は「自然障壁が立ちはだかり、距離も遠く、自力では都に帰れない」ような地方であると考えられていたことになる。なお、畿内から遠い東北地方や北海道は、完全な統治下に入っていなかったので、遠流の地とされていない。九州は、大陸との窓口なので、遠流の地にされていない。
東海道の縦深防御の時代
- 畿内vs南関東
このような畿内の認識に対して、関東一帯は馬の産地として、機動性に優れた軍事力を持つ武士団が台頭し、将来の独自政権の地盤が作られて行った。平安時代後半に、下級貴族として地方に土着化した軍事貴族の平氏と源氏が、日本各地で棟梁となって権力争いをするようになると、蛭ヶ小島(伊豆国)に配流されていた源頼朝を頂いて、南関東は軍事的に一体化する。当時の南関東は、源氏や北条氏以外にも、千葉一族や三浦一族などの地盤でもあった。
畿内政府と鎌倉幕府という二つの政権が並立すると、東海道の自然障壁である安倍川~富士山~箱根峠~伊豆半島を第一の防衛線として、鎌倉幕府(本拠地:鎌倉)、戦国時代には後北条氏(本拠地:小田原)の地盤となった。天正期には、徳川家康が駿府(静岡)から江戸(東京)に本拠地を移し、1603年には江戸幕府を樹立した。家康は、将軍を秀忠に譲ると駿府に移住し、畿内から江戸への盾の役割を果たした。
いずれの政権も、畿内に対して東海道の箱根峠と安倍川を大きな楯とした縦深防御を敷き、南関東は一体化して発展した。
江戸を中心とした五街道の時代
- 「直線的」な縦深防御の都市配列から、「放射状」の都市配列へ
江戸幕府は五街道を整備し、関東地方には、江戸を中心とした放射状の道路網が整備された。南関東と畿内との間には、陸路では東海道と中山道(含甲州街道)が、海路では太平洋経由の航路が整備された。一方、東北地方との間には、陸路では日光街道(奥州街道)や水戸街道(陸前浜街道)が、海路では太平洋~利根川~荒川の流通ルートが確立した。
更に、参勤交代によって江戸が情報の集散地となり、大名たちが江戸の藩邸に地方の富を持ち込むようになると、日本の富が江戸に集中するようになる。そして、律令時代以後の日本において、畿内以外で初めて、畿内を超える日本の中心地となった。又、江戸幕府によって、印旛沼の干拓や武蔵野台地の新田開発も実施され、「南関東」または「関東」という「面」の広がりを持つようになった。
江戸時代を通じ、参勤交代の隊列に入った地方の下級武士が江戸で生活し、また、土地を相続出来ない農家の次男以下が、養子縁組や丁稚奉公で江戸に出てきた。更には飢饉が起きる度に、江戸には農業を放棄したホームレス(無宿人)が大量に流入するようになる。このため、特に1800年以後の江戸の人口の多くは、無産階級で形成された。そして、それまでの日本の貴族・武家文化のような富裕層・支配階級の文化から、無産階級の庶民文化・大衆文化が江戸で花開き、現代に受け継がれている。
日本の中心になる時代
- 国内の鉄道路線の基点、外国との交流窓口
江戸幕府が崩壊して明治維新を迎えると、皇族は京都御所から江戸城に住まいを移した。この時、江戸は東京と改名されて、薩長が率いる明治政府の本拠地となり、国家機関も置かれて実質上の首都になった。こうして、東京は畿内以外で中央集権型政権の本拠地となった初の都市となった。中央集権体制によって、江戸時代の天領以外からも税収を集められるようになった東京は、日本の富を独占するかのような発展を始め、人口も急増した。
明治以前の日本では、外交窓口となる港(難波津、福原、博多、長崎)と政権所在地(奈良、大宰府、京都、江戸)とは、地理的な理由の他に、外国由来の伝染病の蔓延や、外国経済との連動を防ぐなどの理由によって離れているのが通例であった。しかし、明治以後の近代国家となった日本では、国家機関のある東京と、幕末に開港した外港の横浜との間に鉄道が敷かれ、時間的・空間的に近接する事になり、外交と内政が密接になった。又、経済や文化においても、内外が密接になり、東京と横浜は西洋文化の窓口となって文明開化を主導した。
このように、文明開化の時代には、日本の全てが東京と横浜を経由するシステムが作られて行った。
東京の人口減少をもたらした出来事
- 東京の郊外化の始まり
1923年9月1日に発生した関東大震災は、首都たる東京にも大きな被害を与えた。その復興事業が進むに連れて、郊外化が進んだ。「モボ・モガ」がブームになったのも、この時期の東京である。
そして、第二次世界大戦中には、1945年3月10日の東京大空襲を初めとして、千葉、東京、川崎、横浜、横須賀などの都市は、軒並み烈しい空襲に見舞われた。第二次大戦中には、これらの都市から、地方の小都市や村落に疎開する者が次々と現れた。
関東大都市圏の時代
- 近郊列車による高密度・広範囲な大都市圏の形成
第二次世界大戦後、東京湾沿岸に臨海工業地帯・地域が形成され、高度経済成長期に著しく発展し、「金の卵」と呼ばれた青年労働者(第二次産業労働力が中心)が東日本各地から集まって、臨海部を中心に人口が急増した。また、高度経済成長以後は、日本全国の販売網から集まる売上(内需)や貿易黒字(外需)が東京に集中するようになり、第三次産業の労働力を吸収して東京都市圏の人口は激増した。
臨海部の工業地帯の労働者の住環境は劣悪で、外国から「ウサギ小屋」と揶揄された。しかし、郊外に住環境の良いニュータウンを建設する動きが強まり、マイホームブームも手伝って、東京の都市圏は特別区(旧東京市)の外側に向かって拡大して行った。その際、旧国鉄(現JR東日本)の路線が、明治時代から主に都市間旅客・貨物輸送の為に建設されたとは対照的に、私鉄の路線の一部の路線及び新駅は、鉄道とニュータウンの開発をセットにして延伸された。
五街道や既設の都市間鉄道路線の他にも、放射状の鉄道路線が敷かれて行った事で、東京大都市圏は、自治体の境界を越えて、多摩地方は元より、隣接する神奈川県・千葉県・埼玉県の各県と茨城県南西部にまで広がり、連続した「南関東」「東京圏」という都市圏になった。
欧米では、都心部と周辺住宅地は連続的な都市圏を構成しているが、ニュータウンや郊外住宅地などは、グリーンベルトなどの緑地帯を挟んで存在し、やや独立した衛星都市群となっている。しかし、東京大都市圏とはこれとは対照的であり、東京大都市圏を形成する「衛星都市」は、不連続性の意味は含まれず、単に「自治体の違い」でしかなくなった。
このように、東京都区部の外に連続的に都市圏が拡大した結果、昼間は東京都区部で働き・学び、夜間は東京都区部の外に帰るという「千葉都民」「茨城都民」「埼玉都民」「多摩都民」「神奈川都民」という風に、「○○都民」と諷刺される呼ばれる新興住民が急増した。そのため、「○○都民」と諷刺される住民は、東京都知事の名前や政策は知っていても、自宅のある自治体の長(市長や知事)の名前も顔も知らないようになり、住民と自治は疎遠になって行った。
特に鉄道会社によって開発されたニュータウンでは、郊外化の副産物として、土地とは無縁な瑞祥地名が多く付けられた。その中には、ひらがな表記や、英語などの外国語を含む「商品名」が多く、「商品名」がそのまま住所になる所も多く現れた(例:美しが丘、青葉台、あざみ野、チバリーヒルズ)。そのため、住民は商品を買い換えるかのように住み替え、定着性も低い。
バブル経済期になると、東京で地価が高騰した結果、北は宇都宮から、西は沼津から、新幹線や在来線で東京に通勤する者も一般化するようになった。このような一連の東京の「郊外化」により、東京都心で得た給料が郊外の住宅地に流れたため、衛星都市群の商業中心やロードサイドショップなどの商業を活性化し、「富の郊外化」を生んだ。
しかし、バブル経済が破綻して平成不況が到来すると、国道16号圏内では、二極化が加速している。
東京では、山手線圏内には、株式や不動産投資信託などの金融で財を成した「IT成金」が現れる一方で、山手線圏外には、生活保護を受ける貧困層が急増している。
地理
地質
相模トラフに近いために、巨大地震の危険性が指摘されている。関東地震は、1855年(幕末)と1923年(大正)の二回起こっており、いずれも相模トラフを震源地とした巨大地震であった。人口密集地であるために被害が大きくなり易く、それぞれ「安政の大地震」「関東大震災」とも呼ばれる。又、小田原など、相模トラフや富士山(富士火山帯)の近くでは、群発地震が起こることもある。関東平野の地盤は軟弱であるため、周辺の山がある地域よりも揺れが大きくなりがちである。
地形
気候
国道16号圏内
東京都区部とその周辺は、「日本一過ごしづらい」中途半端な気候とも言われる。夏は蒸すが、中途半端な暑さである。特に東京都心部はヒートアイランド現象で異常な暑さになり、その周辺も連日熱帯夜になることが多い。このため、関東でも東京とその近郊の夏は、「最悪」と評される事すらある。
冬は、北関東ほどではないが北風が強く、乾燥するので、人ごみに入ると風邪を引きやすく、火事も多くなる。これを象徴する詞に、「火事と喧嘩は江戸の華」がある程である。夏と同じく中途半端な寒さ故に、スキーができるほど低温にはならない。また1月のセンター試験の日は雪になることが多く、交通に悪影響を与える。
春と秋は快適な日が少なく、急に暑くなったり寒くなったりしやすい。
上記のように、国道16号圏内とその周辺の関東平野や丘陵地帯が過ごしやすいという人は、極めて少ない。
国道16号圏外
国道16号圏外では、南関東の中でも過ごしやすい時期が多い。湘南を初めとする気候温暖な海浜も多く、夏には海浜コンサートが開催されることもある。沿岸部では温暖な気候を利用して、館山などの房総半島南部(南房総)では菜の花の栽培が盛んに行われている。
又、概ね標高1000m以上の山は夏でも涼しいが、車で行ける様な場所は少ない。箱根の芦ノ湖周辺、檜原の檜原都民の森、大滝の三峰神社などがこれに当たり、冬の寒さは厳しく雪が積もるが、山の傾斜が激しいため、いずれもスキー場はない。また春の訪れが遅く、秋の訪れは早いが、春は新緑、秋は紅葉が平野部より綺麗である。
地域
南関東は国道16号を境にして、その内側と外側では、地域的特徴が異なる。
国道16号圏内
旧東京都庁舎から10km圏内には、いわゆる都心と副都心が含まれ、旧東京市がこの範囲内となる。
旧東京市を中央として、20km圏内には武蔵野線+南武線が環を描いており、沿線には、東(千葉県)に船橋市、西(多摩地方)に府中市、南(神奈川県)に川崎市街地(東海道線沿線)、北(埼玉県)にさいたま市のうち旧浦和市の各自治体や都市が、それぞれ位置する。
30km~45km圏内になると国道16号が環を描いており、沿線には、東(千葉県)に千葉市、西(多摩地方)に八王子市、南(神奈川県)に横浜市街地、北(埼玉県)にさいたま市のうち旧大宮市、の各自治体や都市が位置する。
これらの自治体は、中央政府から政令指定都市や業務核都市に指定されている所もあるが、ベッドタウンと化しており、中心市街地の活気は、人口や面積に比べて小さくなっている所も多い。
近年では、横浜市のみなとみらい、千葉市郊外の幕張新都心、さいたま市(旧大宮市南部)のさいたま新都心などに見られるように、国道16号圏内には新都心が多い。しかし、新都心には多国籍企業の拠点も多く、旧都心(中心市街地)の活気が新都心に圧迫される傾向も現れているため、「大企業のための拠点づくり」と揶揄する声もある。
尚、関東大震災後や第二次世界大戦後には、東京都区部から郊外に無秩序・虫食い状に住宅地が拡大するスプロール現象が起こり、鉄道会社の開発する小規模ニュータウンもこれに拍車を乗けた。これを解決するために多摩ニュータウンが計画されたが、住宅供給が中心で、企業の進出はあまり進まなかった。この結果、ニュータウンが多い地域となっている。
都市間関係
20km圏内に武蔵野線+南武線、30km圏内に国道16号といった環状連絡線が整備された結果、静岡と清水のような関係の都市が多く見られる。柏と松戸、春日部と越谷・草加、大宮と浦和、横浜と川崎などは、この典型である。
国道16号沿線の千葉(東)、八王子(西)、横浜(南)、大宮(北)に東京(中央)を加えた5都市は、「東京圏の五極」を形成しており、コンサートの開催も多い。
スポーツ
国道16号圏内は、サッカー選手を日本で最も多く出している地域の一つでもあり、代表的な都市としては町田、浦和、津田沼などがある(→関東地方#スポーツ)。現在、日本サッカー協会の本部は東京に置かれているが、ここは町田・浦和・津田沼の三方から中間という「緩衝地」に位置している。
国道16号圏内の地域別特徴
- 私鉄沿線
- (東急田園都市線沿線、京王線沿線など)
- 自家用車の所有率が低く、電車での移動が主である。特に東京特別区内のコンビニエンスストアは、駐車場を備えていない所も多い。又、田園調布や松涛を初めとして高級住宅街が多く、『金曜日の妻たちへ』(舞台:東急田園都市線沿線)のように、高級住宅街の「貴婦人」の生活を描いた作品が目立つ。
- 国道16号沿線の内陸部
- (相模原→八王子→羽村→川越→大宮→春日部→柏など)
- R16ベルト地帯とも称される商業ベルト地帯を形成している。ロードサイドショップが多く、両毛と列ぶモータリゼーションの先進地である。
- この地域にロードサイドショップが多い要因としては:(1)平野の広さ、(2)相模原から羽村に渡って立地する在日米軍基地の存在、(3)八王子と埼玉県を結ぶ鉄道(八高線、川越駅以西の川越線)の本数の少なさ、(4)国道16号とその沿線の私鉄が、対東京の幹線ではなく、地域同士の連絡線となっている点;などが挙げられる。ただし、田園都市線や小田急小田原線、京王線、横浜線の沿線にもなっている地域では、電車での移動が比較的容易なため、自家用車を所持していない世帯も多い。
国道16号圏外
- 「竜が刺繍された革ジャンを着て、バイクで突っ走る」青年男性を描いた作品が多い。この代表的な作品には、『湘南純愛組!』『彼女が死んじゃった。』などがある。尚、国道16号沿線の内、横浜と横須賀を舞台とした作品も、湘南と同様の作風が多い。
- 言わずと知れた、海水浴やマリンスポーツの名所である。また、鎌倉や江ノ島、城ヶ島などの歴史ある観光名所も多い。しかし夏の人出は激しく、それ故に道路が酷く渋滞したり、海水浴客のゴミ捨てや、若い女性海水浴客を狙った盗撮問題などを抱えているのが短所である。
- 箱根峠近辺
- かつての足柄県に相当する地域で、西湘と伊豆半島に相当する。湘南に次いで観光客が多いが、渋滞以外の問題規模は湘南に比べて小さい。小田原の蒲鉾や、沼津の鯵の開きに代表されるように、農産物や海産物にも比較的恵まれている。又、箱根や熱海などの有名な温泉地を抱えており、温泉地帯として有名である。
- 丹沢山麓は津久井や厚木、秦野などは東京のベッドタウンになっているが、そこから少しでも山に近づけば素晴らしい自然が味わえる。また、山北はオートキャンプ場が多い。また、ハイキング客や登山客も多い。特に大山はケーブルカーが通じており、祭りも有名。
- 多摩川の上流域に当たり、奥多摩湖や払沢の滝、日原鍾乳洞などがあり、また渓谷美や自然がこの地域の魅力といえよう。登山客も多い。しかし、杉林が多いので春先にとても多く花粉が飛散するので、都心部の人々の生活に影響を及ぼしている。よって、花粉症患者は花粉が飛ぶ時期には行かない方が賢明であろう。
- 日本を代表する温暖な地方の一つで、南関東を代表する観光地帯。「東京圏」よりも南側に位置するので、地方色が濃く見られる。又、都心に在るような高層ビルが存在しない為、東京都区部のような「ビルの谷間のヒートアイランド現象」が起こらない。冬でも温暖で、南国情緒や海の幸、菜の花などを楽しめる。南房総の内陸部では牧場も多く、東京へ牛乳を出荷している。
- 千葉県北東部
- 成田などの千葉県北東部では、落花生を初めとする農業生産が多く、銚子に代表される漁港も抱えている。このため、「首都圏の台所」ともなっている。又、鹿嶋や潮来など、茨城県南東部(旧新治県東部)との繋がりも深い。
- 埼玉県の国道16号圏外
- 国道16号沿線の乗換駅(大宮駅、春日部駅など)を過ぎると、東部では水田が、西部では比企丘陵などの台地が広がり、国道125号が近づくに連れ、北関東の色が次第に濃くなる。
- 国営武蔵丘陵森林公園や東武動物公園を初めとする大型公園が点在するが、都心に在るような高層ビルは存在しない。
米軍基地
関東の空は、横田空域と呼ばれる在日米軍の管制下に置かれており、自由な民間航空機の航行ができない(→横田飛行場)。そのため、首都圏の国際空港が、東京都中心部から65km東の成田に置かざるを得なかったのみならず;国内航空の最重要ハブ空港である東京国際空港も、飛び立ってすぐに急上昇しないと西日本方面に向かえない。
横田飛行場(多摩地方)以外にも、特に神奈川県には、厚木基地や横須賀基地やキャンプ座間に代表されるように、米軍基地が密集している。神奈川県内の国道16号(相模原~横浜~横須賀)は、米軍基地の多さで、沖縄県内の国道58号(嘉手納周辺)と対比されることもある。
一般に、鉄道路線・鉄道駅に近い宅地は地価が高く、遠ければ安い。即ち、私鉄沿線の住宅地は、駅に近いために地価が高く、一般の労働者が購入できる価格帯にするには、区画が小さくされたり、集合住宅になったりする。このため、鉄道インフラが伴わない一般的な地方都市の郊外住宅地に対して、東京から45km圏内、特に私鉄沿線に見られる郊外は、極端に地価が高く、高密度な郊外となっている。
すると、安い土地を求めて郊外が際限無く広がり、「○○都民」と諷刺される新興住民が近郊の都市に増えて、東京都区中心部との距離は遠くなっていった。
平成期に入ると、とりわけ新幹線沿線では、通勤圏が遠方ギリギリにまで拡大する傾向が目立っている。例えば、高崎は、上越新幹線開業当時には東京への通勤圏ではなかったが、バブル景気以後から東京への新幹線通勤圏となり、長野新幹線開業後にはこの傾向が強まっている。同じく、新幹線駅に近く、東京からの直通在来線・直通特急の乗入れが多い宇都宮・那須塩原(東北新幹線沿線)や三島(東海道新幹線沿線)などでも、この傾向が目立っており、それぞれ「栃木都民」「群馬都民」「静岡都民」などと呼ばれている。
「○○都民」と諷刺される東京への遠距離通勤者は、平日には東京都中心部で多くの時間を過ごし、週末や休日には居住地たる東京近郊で多くの時間を過ごすため、モータリゼーションによって「ウィークエンドドライバー」となる者が多数を占めるようになっている。このため、東京とその近郊では、他の地方の郊外に見られるモータリゼーションとは違った形態を呈している。
又、「○○都民」の特徴として、自家用車の所有率が低く、電車などの公共交通機関での移動が主であり、高学歴住民比率が高いが、所得格差が大きい。所得が車に投資されない分、住居・外食・遊興・高額商品・海外旅行などへの所得処分比率が高い傾向が有る。
観光と遠距離通勤
富士箱根伊豆国立公園(富士山周囲の保養地、箱根・伊豆の温泉地)、相模湾や九十九里浜の海水浴場、南房総・三浦半島の避寒地、テーマパーク、東京・横浜の都市内観光地など、関東地方南部から山梨県や伊豆半島に渡る地方は、観光地が集中しており、東京の近接観光地となっている。
観光との関係で道路や鉄道の整備が進んだため、通勤にも至便となって、地価が高騰したバブル経済期以降は、相模湖を越えた大月や、箱根峠を越えた沼津からも、東京へ通勤する者がいる。現在は、地価下落、都心回帰、企業の通勤手当圧縮によって、「土地が安いために都心から遠い地域に住む」というより、「自己のライフスタイルとして地方と都心を往来する」というように、遠距離通勤の意味合いは変容している。
道州制
道州制における南関東州について、地方制度調査会(所在地:東京都区部)は、9道州案では千葉県・東京都・神奈川県・埼玉県・山梨県の組み合わせで、11道州案や13道州案では千葉県・東京都・神奈川県・山梨県の組み合わせとしている。特に南関東は過密状態である為、広域関東圏は南北分割が前提とされているのが特徴である。
しかし、南関東には富士山のビュースポットが多いため、道州制を題目とするネット掲示板では、静岡県を分割して、大井川以東を南関東州に入れよという意見が多く出されている(→静岡県#道州制)。
又、東京都や埼玉県にも分割論議がある。東京都については、区部と多摩地方・島嶼部を分離して、東京市(区部)を復活させて特別市とする内容である。この「東京特別市」の案については、一市単独で県とするか、一市単独で州とするかの、両方の意見が論議されている。
埼玉県については、(1)国道16号を境に分割して南関東州と北関東州に分ける案と、(2)全域とも北関東州に入れる案、(3)全域とも南関東州に入れる案の、3通りの意見が出ている。
州都については、山梨県や静岡県大井川以東との関わりや、東京一極集中の抑制という点から、東京都区部以外では、横浜市、鎌倉市、小田原市の3市が、候補に上がっている。
経済
交通
東京特別区内には鉄路・道路共に放射状・環状に発達しているが、周辺に行くに従って整備は遅れており、一直線状で完成している環状線は少なくなる。環状鉄路では武蔵野線+南武線、環状道路では国道16号のみである。都区部外の環状線は、東京20km圏内と東京30km圏内とに大きく分けられる。また、東京外環自動車道や首都圏中央連絡自動車道などの整備が進むが、採算性を危惧する声もあり、未完成である。
律令制の五畿七道では、関東地方の内、現在の栃木県と群馬県以外は東海道として区分された。このため、日本を交通網で区分する時に、関東の特に東京都以南を東海道として区分することもある。
環状線
- 東京10km圏(東京特別区内)
- 鉄路:山手線・大江戸線
- 道路:環状1号線(内堀通り)、環状2号線(外堀通り)、環状3号線(外苑東通り・言問通り・三ツ目通り)、環状4号線(外苑西通り・不忍通り)、環状5号線(明治通り)、環状6号線(山手通り)、環状7号線(環七通り)、環状8号線(環八通り)、首都高速・都心環状線、中央環状線
- 東京20km圏
- 鉄路:南武線・武蔵野線
- 道路:国道409号・都道川崎府中線・都道所沢府中線・国道463号・国道298号、首都高速・東京外環自動車道
- 沿線の主な都市:川崎・旧都筑郡・府中・所沢・さいたま市浦和・草加・松戸・船橋・市川・浦安
- 東京30km圏
主な鉄道
主な幹線道路
その他
関連項目
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