関の小万

日本の仇討ち人

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関の小万(関の小萬:せきのこまん)は、。


生涯

父の死

小万の父は、九州久留米藩士剣道指南役「牧藤左衛門」で、同僚「小林軍太夫」の遺恨により殺害された[1]。藤左衛門の妻は身重であったが、逐電した軍太夫をたずねて仇討ちの旅に出た[2]。東海道鈴鹿峠を越え、関宿の宿に至った頃にはついに臨月の身重となっていた[3]。地蔵院前の旅籠、山田屋吉右衛門方で子万を生み、吉右衛門夫婦に仇討ちの事を伝え、その後産後のひだちが悪くなくなった[4]。吉右衛門夫婦には子がなく、養子として大切に育てられた[5]

生い立ち

仇討ち

亀山の道場に滞在していた浪人が、仇の小林軍太夫ににているというので調べてみたところ、まぎれもなく仇本人だということがわかった[6]

小万は、馬子の姿に変装して、亀山城大手門の札の辻で軍太夫を待ちうけ首尾よく本懐を遂げることができた[6]

晩年

仇討ちを遂げた後、仇討ちの本懐を遂げさせてくれた山田屋夫婦の恩義に報いるため、山田屋にとどまり、吉右衛門夫婦に孝養を尽くした。

享和3年(1803年)正月16日、36歳の若さで病死した。墓は、福蔵寺(亀山市)にある。[7]

関連説話

浄瑠璃における「小万」

丹波与作との恋物語

鈴鹿の「小万」

その他

関係地

小万の凭れ松(こまんのもたれまつ)

会津屋(あいづや)

墓所

脚注

注釈

出典

  1. ^ 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 662ペ-ジ
  2. ^ 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 662ペ-ジ
  3. ^ 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 662ペ-ジ
  4. ^ 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 662ペ-ジ
  5. ^ >鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 662ペ-ジ
  6. ^ a b 『鈴鹿の関の昔ばなし』 久野 陽子 光出版印刷株式会社 1990 p57
  7. ^ 『ー伝説ー「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会(2003年3月)p7

関連項目

外部リンク