関の小万

日本の仇討ち人

これはこのページの過去の版です。漱石の猫 (会話 | 投稿記録) による 2025年2月22日 (土) 07:17個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (会津屋(あいづや))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

関の小万(関の小萬:せきのこまん 1767年頃生-享和3年(1803年)正月16日没)は、九州久留米有馬氏の家臣の遺児で、亀山藩(現在の三重県亀山市)に生まれた。女児でありながら父の仇討ちを成し遂げた仇討烈女として知られ、その仇討ちにかける意気込みは「鈴鹿馬子唄」に謡われた[1]。享年36歳[1]

歌川広重「人物東海道五十三次 関」。「関の小萬」を描いている。

生涯

父の死

小万の父は、九州久留米藩士剣道指南役「牧藤左衛門」で、同僚「小林軍太夫」の遺恨により殺害された[2]。藤左衛門の妻は身重であったが、逐電した軍太夫をたずねて仇討ちの旅に出た[2]。東海道鈴鹿峠を越え、関宿の宿に至った頃にはついに臨月の身重となっていた[2]。地蔵院前の旅籠、山田屋吉右衛門方で子万を生み、吉右衛門夫婦に仇討ちの事を伝え、その後産後のひだちが悪く、亡くなった[2]。吉右衛門夫婦には子がなく、養子として大切に育てられた[2]

生い立ち

生まれてすぐに母を亡くした小万は、山田屋主人・吉右衛門の夫妻に引き取られ「小萬(小万、こまん)」と名付けられた[3]。山田屋には子が無く、小万は実子同然に大切に育てられた。小万は生まれつき容姿に優れ、はきはきと働く愛敬のある娘に成長したため、街道で評判となり、山田屋はおおいに客で賑わった[3]

小万が15歳になると、山田屋は小万の素性を打ち明け、生母の遺言であった仇討ちについて説明した[4]。生母の無念を知った小万は仇討ちを決意し、山田屋の伝手で亀山藩の家老であった加毛寛斎(かもうかんさい)を通して亀山城下の榊原権八郎の道場に入門した[4]。小万は風雨の日も欠かさず道場までの一里半の道のりを通いつめ、稽古を重ねた[4]。雪駄をひと月に25足履きつぶすと謡われるほどの熱心さで、剣術の腕はみるみる上達したとされる[5]。その凛々しい姿は近辺の村々でも話題となり、多くの若者の憧憬を集めた[5]

〽関の小萬の亀山通い
月に雪駄が二十五足
「関の小萬」没後200年記念誌より引用 — [5]

天明3年(1783年)、小万の父の仇と思われる浪人が亀山城下に姿を見せた[6]

仇討ち

亀山の道場に滞在していた浪人が、仇の小林軍太夫ににているというので調べてみたところ、まぎれもなく仇本人だということがわかった[7]

小万は、馬子の姿に変装して、亀山城大手門の札の辻で軍太夫を待ちうけ首尾よく本懐を遂げることができた[7]

晩年

仇討ちを遂げた後、仇討ちの本懐を遂げさせてくれた山田屋夫婦の恩義に報いるため、山田屋にとどまり、吉右衛門夫婦に孝養を尽くした。

享和3年(1803年)正月16日、36歳の若さで病死した。[8]

関連説話

浄瑠璃における「小万」
近松門左衛門が書いた浄瑠璃「丹波與作待夜の小室節」に「おじゃれ(旅籠の売春婦)の小万」が登場するが、関の小万よりも年代的に古い[9]
丹波與作との恋物語
近松門左衛門が書いた浄瑠璃「丹波與作待夜の小室節」が後に「丹波與作」と改題され、近松の死後、「恋女房染分手綱」という狂言になった[9]

関係地

小万の凭れ松(こまんのもたれまつ)

関宿の東の小野に「小万の凭れ松」と呼ばれる松があった。 小万が亀山通いの道すがら、この松でしばらく休息を取った、若者らの戯れを避けて身を寄せたともと言い伝えられている。[10][11] 松は昭和6年(1931)に枯れ、現在は、3代目の松が植えられ、石碑が建てられている。

会津屋(あいづや)

 
三重県鈴鹿郡関町にあった会津屋(かつての旅籠山田屋)。明治末期頃。

小万が生まれた山田屋は、天保年間に白木屋に売却され、その後の嘉永年間に「会津屋」となった[5]。会津屋は文久3年(1863年)に旅籠として営業を始め、「関で泊るなら鶴屋か玉屋 まだも泊るなら会津屋か」と謡われた[12]

会津屋は旅籠屋と並行して座繰生糸業を営み、明治40年頃には地蔵院前の明神に工場を新設して発展した[13]。1998年(平成10年)町並保存条例に応じてそば処「あいづや」として改修・開業し、その歴史を伝えている[13]

墓所

福蔵寺にあり[14]、関町指定史跡に指定されている[15][16]

境内にある墓碑は、高さ70㎝の地蔵尊像で、法名は妙証信女。[17]

脚注

注釈

出典

  1. ^ a b 関宿の昔話2”. 亀山市. 2025年2月22日閲覧。
  2. ^ a b c d e 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会、関町役場1977、関町町史 662ペ-ジ
  3. ^ a b 『「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会、2003年、3頁。 
  4. ^ a b c 『「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会、2003年、4頁。 
  5. ^ a b c d 『「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会、2003年、5頁。 
  6. ^ 『関町昔話』関町教育委員会、1982年、11頁。 
  7. ^ a b 『鈴鹿の関の昔ばなし』 久野 陽子 光出版印刷株式会社 1990 p57
  8. ^ 『ー伝説ー「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会(2003年3月)p7
  9. ^ a b 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会、関町役場1977、関町町史 664ペ-ジ
  10. ^ 『関町昔話』関町教育委員会p11
  11. ^ 『ー伝説ー「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会(2003年3月)p5
  12. ^ 『「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会、2003年、5頁。 
  13. ^ a b 『「関の小萬」没後200年記念誌』「関の小萬没後200年祭」発起人会、2003年、51頁。 
  14. ^ 関宿の昔話2”. 亀山市. 2025年2月22日閲覧。
  15. ^ 関の小万碑”. 石碑好きやねん. 2025年2月22日閲覧。
  16. ^ 現地にて「町指定史跡」の石碑を確認(2025年2月22日)。
  17. ^ 鈴鹿関町史上巻 発行関町教育委員会 発行所 関町役場 関町町史 664ペ-ジ

関連項目

外部リンク