布施定安

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布施 定安(ふせ さだやす)は、江戸時代前期から中期にかけて活躍した仙台藩士。 伊達吉村の右腕となって15年にわたり奉行(他藩では家老)として伊達藩の財政改革を進めた。また、新弓の町を作った。

 
布施定安
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年
死没 享保2年6月18日1717年7月26日
改名 布施清五郎(幼名)、孫右衛門、刑部、和泉、白水
戒名 七雨軒備翁白水居士
墓所 宮城県仙台市青葉区光明寺
幕府 江戸幕府
主君 伊達綱村伊達吉村徳川綱吉徳川家宣
仙台藩
氏族 布施氏
父母 布施備後定時(百助 清左衛門 孫右衛門)、大町大膳定頼女
兄弟 布施勘兵衛恒時(早世)、布施武左衛門基信
窪田氏女
布施備前定信、布施運之丞定寛
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先祖

布施氏の姓は藤原といい、伊達家累代の家臣である。布施家の家伝によれば、醍醐天皇の10世紀初縁起・延長の頃、三好清行の第八男浄蔵の嫡子が、近江国布施というところに住んで布施と名のり、その後京都に住み、関東将軍に属し、漸次東北へ移って伊達家へ仕えたという。[1]

初代 布施備後守。 伊達家晴宗・輝宗・政宗三代に仕えた。天正13年(1585年)11月、安達郡本宮の人取橋の戦いで、嫡子弥七郎とともに出陣し、敵陣中に討ち死にした。

2代 布施備後守定時(孫右衛門)。 弥七郎の弟で、2代目として家を継ぎ、輝宗・政宗二代に仕えた。天正年中にしばしば陣中の謀議に参加して密事の御使などを勤めた。天正19年(1591年)正月、政宗にとって一大事であった太閤の召しを受けての上洛の際、特に指名を受けてともに加わっている。朝鮮の役(文禄の役)の際には、岩出山留守居を、時の奉行屋代勘解由の補佐としてその任を果たした。知行高は100貫文(1000石)で、そのうち40貫文は、拝借金代に差し上げ、10貫文は隠居分として三男勝兵衛時成に譲り、50貫文で家督を相続した。(NHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」で、萩原流行が2代目定時役を演じている。)

3代 布施備前守定成(正六 清左衛門)。 政宗・忠宗の二代に仕え、慶長10年(1605年)4月、将軍徳川秀忠上洛参内に従った政宗のお供を勤めた。 同18年(1613年)年12月、幕府から仙台藩に対し、越後高田城の営築を命じられた。 翌19年(1614年)4月1日、これに出駕の政宗の供を勤めた。 元和元年(1615年)2月28日、政宗の子伊達秀宗が伊予国宇和島へ封じられた際、その国入りの供も勤めた。

4代 布施備後定時(百助 清左衛門 孫右衛門)。 忠宗・綱宗・綱村の三代に奉公し、知行は地続き切り添え新田377文を賜り、合計60貫577文となった。[2]

布施家 中興の祖 定安

 
仙台城下の布施家上屋敷(天明6-寛政元年)赤色の場所 定胤(文之助)の名前が見える(現在の宮城県美術館)
 
宮戸医王寺に残る仙台藩の知行目録 布施和泉(定安)の花押がある

5代 布施和泉定安(清五郎 孫右衛門 刑部) 定安は、布施家中興の祖と称された人である。仙台藩中興の英主伊達吉村の側近にあって多くの反対者の批判を受けながら施策を進めようとした。元禄11年(1698年)、前代伊達綱村の晩年に国老(家老)である奉行職(仙台藩の役職参照)に任ぜられ、家格は、永代着座(仙台藩の家格参照)となった。15年間伊達家財政の立て直しに努力し、吉村の信任は極めて厚かった。しかしながら、干害・冷害などの凶作もあり、立て直し計画は思うようにはいかず、藩の財政は一層窮境に陥った。殊に吉村が藩主になった頃は、洪水や代替わりの諸経費で、財政は苦しくなっていた。このための施策をいろいろ実施したが、計画通りにはならず、いよいよ窮迫するばかりだった。藩政立て直しの手段として、家中手伝金や百姓町人からの借り上げによって藩の基金を確保しようと図ったのは、主として定安らで、一門衆その他の諸士からは常に反対されていた。吉村は、財政立て直しのためには、やむなしと定安の意見を多く採用したので、定安は反対派から藩主側に立つ者と思われていた。 正徳元年(1711年)3月、非常手段として次の2つのうちどちらを取るべきか、藩主から一門衆に諮問があった。

一、正徳2年以降5年間、家中知行の四分の一を召し上げる。

二、知行一貫文につき、三切ずつ永久に上納する。

これに対し、一門衆及び諸士は猛反発し、実現されなかった。立案の中心だった定安は正徳3年(1713年)病気を理由に辞職を願い、藩政の中枢から退いた。[3]

 
布施大明神

宝永年間、100貫文(1000石)の加増を仰せ出されたが、抜擢寵禄(ばってきちょうろく)を省みて自らは20貫文(200石)で十分であると、新しく士卒を置いて万一の時の備えとし、藩恩に報いたいと藩主吉村に願い出てその許しを得、加増分をもって、仙台新弓の町に弓隊を設けた。定安の死後、この恩に感ずるこの町の武士たちは、小祀を町の側に営み年々絶やさずこれをまつり続け現在に至っている。写真は、新弓の町八幡神社内にある布施大明神。布施定安が祀られている。

ファイル:七雨軒.png
七雨軒と思われる庵

定安は、正徳三年(1713年)隠居所を仙台城東北の小泉村安養山(布施山)に構えることを許されて隠居した。布施定安は、白水と改名し「七雨軒(ななみけん)」という庵を建てて住んだが、享保2年(1717年)6月16日に没した。法号は、七雨軒備翁白水居士。定安が先祖供養のため安養山に建てた光明寺塔頭龍雲庵の廟所に葬られる。[4][5] 当初、定安の墓は、安養山下屋敷敷地内の光明寺塔頭龍雲庵廟所にあったが、墓碑が昭和4-5年頃法輪院に移され、昭和55年頃に葛岡に埋葬された。その後、墓の位置がわからなくなってしまい、仙台北山の光明寺に祀られることになった、と光明寺にある布施家墓碑の銘板に記されてある。(白水が隠居した安養山(布施山)は、東仙台から枡江にある山で、ラ・サール会児童養護施設ラ・サール・ホーム、スペルマン病院、善き牧者会児童養護施設小百合園・特別養護老人ホーム暁星園等一帯を含む山である。)庵があった場所には、現在、児童養護施設小百合園が建っている。写真の建物と敷地は、昭和10年(1935年)に善き牧舎修道会によって買い取られ、1年ほど修道院として利用されたが、のちに解体されて、新たに修道院が建てられた。(この時の建物は、戦時中陸軍に接収されたが、漏電により焼失したとのことで、戦後、現在の建物がを建設したとのことである。当時、カナダから6人の修道女が来ており、複数の修道女が写っている。この写真は、カナダの修道会に報告のために送ったものである。[6])この場所は布施家の下屋敷に当たるため、写真の建物が、布施定安(白水)が隠居時に建てた「七雨軒」そのものである可能性がある。[7]

定安の末裔

本家

定安の子定信は、享保8年に在郷屋敷を本吉郡柳津村(津山町)に移され、在所拝領となった。定信は、正徳6年(1716年)、父定安が設けた弓組の氏神として、京都男山八幡宮から分霊し、新弓の町に祭り、その武運を祈った。後に弓組一同は、恩人である定安をここに合祀した。定信の跡は、定誠(定信嫡孫)ー※定寿ー定胤(定寿弟)ー定郷ー定保(定郷次男)と継いだ。定保の跡を継いだ定徳は、明治2年の版籍奉還の後、明治4年に宮城県国分小泉村(仙台市)に住み帰農することになった。家族9人、家中はその家族たちを含めて302人であった。俸禄が絶えた中で、農に励んだが、その後、在所柳津村に帰った。(家臣録・世臣家譜・世臣家譜続編など)。定徳は、明治6年学制施行とともに柳津小学校教師を命ぜられ、妻のとらとともに教育に尽くした。定徳の後は、泉(定延・貞延)ー淡ー信太郎ー敬二郎と続いた。淡(あわし)は宮城学院・東北学院で教鞭をとった洋画家で、淡の長男信太郎・次男悌次郎(悌二郎)も洋画家として名を馳せた。[8][9]

 
仙台藩士の石高を記した古文書(善応寺)布施は苗字のみ

※安政3年(1774年)5月21日に定寿が江戸芝邸に於いて客死したため、弟の定胤(文之助)が兄に代わって本家を継ぐことになった。この頃の仙台藩士の石高を記した古文書が東仙台の善應寺 (仙台市)に残されている。布施家だけ姓のみの表記である。兄の急死により跡目がなかなか決まらなかった時期のものなのだろうか。

分家

定安の子定信は、正徳5年に仙台藩家臣中山武左衛門基信の次男定寛を給人町(桃生町)に分地して別家とし、この家も布施を称した。(※中山武左衛門基信は布施定安の実弟で、中山家に養子に入った人物である。定寛はその子なので、実弟の子である定寛を布施の分家とした。)家格は召出二番座、知行300石となっている。定寛ー卯平次定時と継いだが、卯平次定時の跡は、養子として本家定誠の子定宣(定雄)が継いだ。

※「桃生町史」では、分家5代が定胤で、途中で定胤が本家を継いだので、定胤の子の定雄(定静)が6代となるとする。そして、後に6代目定雄(定静)は、本家から妻を迎えている。年齢から推測すると、本家に行ってできた定胤の子が分家の時にできた子のところに嫁いたことになってしまう。しかし、これは考えにくいだろう。一方、津山町史では系図を示し、「定胤は本家の人である」という立場である。分家6代の定雄(定静)は、本家定胤の子を妻にしている。以上のことから津山町史の記述の方が自然ではなかろうか。

定静ー定矩(貞矩)ー貞之ー定範(貞真)と継いだ。 定範(貞真)については、「明治維新後、知行300石を返上し、妻の実家である前谷地村舟島の齋藤氏の地に転住」と記されている。その後、明治4年に仙台の北四番丁支倉通西南角に屋敷を持ち、宮城郡国分小泉村に住んだとの記述がある。その後については不明。

分家布施家の祭礼継承

給人町布施氏が移転した後布施氏分家の系譜を引き継いだのは、貞之の次男勝之助(貞高)(定範の弟)である。 「給人町布施氏系譜」の記述によれば、「勝之助維新後帰農仕(つかまつ)り故あって佐々木氏の養子と相成るも布施家の系脈を保つため、旧家中佐藤友吉定之進父子の助力と奔走に依り旧下屋敷を他より買戻して住し布施氏の系を継ぐも姓を佐々木とす」とある。不思議なことは、佐々木氏の養子になっているにも関わらず、勝之助の妻が、大番士石井氏家中真藤友輔俊常の娘であるという点である。「桃生町史資料編」によると、「中津山村佐々木氏の養子となり(給人町の)布施氏旧屋敷に住み、布施家の祭礼を継承した。その子孫は代々この地に住み、清次郎ー栄と続いている」とあり、令和5年現在、栄の子栄喜が分家布施家の祭礼継承者としてその系を継いでいる。[10][11][12]「佐々木氏との関係」は不明のままである。

NHK大河ドラマに出ている布施

関連項目

仙台藩の家格

  1. ^ 「津山町史」、P.249
  2. ^ 「津山町史」、P.250‐P.251
  3. ^ 「宮城縣史」2(近世史)昭和41年、P.430-p.434
  4. ^ 「津山町史」、P.251~253
  5. ^ 「仙台の神社たち」新弓の町八幡神社、https://sendai-jinjya.jugem.jp/?eid=20、2025年3月17日閲覧。
  6. ^ 令和5年3月、大阪豊中の善き牧者修道会本部への電話取材による。
  7. ^ 写真出典、善き牧者愛徳の聖母修道会(日本準管区)「来日50年の歩み」より
  8. ^ 「宮城県姓氏家系大辞典」(角川書店)平成6年初版発行、P.860
  9. ^ 「津山町史」P.260-264
  10. ^ 「宮城県姓氏家系大辞典」(角川書店)平成6年初版発行、P.860
  11. ^ 「桃生町史資料編」、P.454-P.456
  12. ^ 「給人町布施氏系譜」(給人町佐々木栄喜氏所蔵)