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ロマ・プリータ地震 | |
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本震 | |
震央 |
![]() カリフォルニア州サンタクルーズ市より北東16㎞のザ・フォレスト・オブ・ニシーン・マークス州立公園 |
座標 | 北緯37度2分9秒 西経121度52分58秒 / 北緯37.03583度 西経121.88278度 |
震源の深さ | 17.6-18.5 km |
規模 | モーメントマグニチュード(Mw)7.1 |
最大震度 | 改正メルカリ震度IX: サンフランシスコ市とオークランド市の一部 |
津波 | モンテレー湾で最大40-45㎝ |
地震の種類 |
直下型地震 逆断層成分を伴う右横ずれ断層型 |
余震 | |
回数 | 5000回 |
最大余震 | 10月18日にMw:5.2[2] |
被害 | |
死傷者数 |
死者62-63人 負傷者3757人 |
被害総額 | 約60億ドル |
被害地域 | 北カリフォルニア[3] |
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プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
ロマ・プリータ地震(ロマ・プリータじしん、英語: Loma Prieta earthquake)は、太平洋夏時間で1989年10月17日17時4分にアメリカ合衆国北カリフォルニアのサンフランシスコ・ベイエリアで発生した地震である。この地震の名前はカリフォルニア州サンタクルーズ市より北東16㎞のサンタクルーズ山地にあるロマ・プリータ山近くが震源であったことから名付けられた。
サンアンドレアス断層付近の地震の規模としては1906年に発生したサンフランシスコ地震以来最大となるマグニチュード(M)7.1を記録し[4]、震源となった山奥から約100㎞程度離れた近代的な設備を備えた都市であるサンフランシスコ市やオークランド市においても海岸部の埋め立て地を中心に大きな被害が発生した[5]。この地震による被害総額は60億ドル近くに達し、アメリカ史上最も経済的損害の大きい自然災害となった。また、この日に同年のワールドシリーズ第3戦が予定されていたため、アメリカの全国ネットのテレビ放送でその発生する瞬間が生中継された最初の大地震として人々に記憶されることになった。
背景
地質
カリフォルニア州はアラスカ州と並び、アメリカ合衆国において突出して地震危険が高い州となっている[6]。本震が発生した地域で最も支配的な地質構造となっているのがサンアンドレアス断層であり、この断層の西側は太平洋プレートに、東側は北アメリカプレートに属する[7]。中間部はクリープ断層になっているが、北部と南部は大地震を引き起こす場所となっている[8]。プレートテクトニクスではトランスフォーム断層に位置付けられている[8]。サンアンドレアス断層は1906年に発生したサンフランシスコ地震によって広く知られるようになり、この地震前後の測地測量の結果から有名な地震発生モデル「弾性反発説」が提唱された。後年にこの考えが発展して「地震は断層運動によって起こるもの」とする説が生まれた[9]。
震央に近いサンタクルーズ山地は脆弱な第三紀の堆積物が分布しており、地すべりが多い地域として知られている[7]。また、震源域はサンアンドレアス断層とサージェント断層の接合部にあたり、その西側にはザヤンテ断層が存在する複雑な地質構造になっている[10]。
予知・前兆
サンフランシスコ地震の際に本震の震源域は破壊されたが、そのスリップ量は別の場所に比べて小さかった。そのために1983年頃から何人かの地震学者はマグニチュード(M)6.5-7.0程度の地震がいずれ起こるだろうと予測し、国家地震予知評価委員会(NEPEC)も長期的に見て地震が発生する危険性を認めていた[11]。
アメリカ地質調査所(USGS)のスタッフを中心とする12名で構成されるワーキンググループが1988年2月にNEPECに報告原案書を提出し、NEPECがこれを一部修正した後に承認して公表されたのが「カリフォルニア・サンアンドレアス断層上の大地震発生の確率」である。この中では本震の震源域となったサンタクルーズ山地で1988年から2018年の間にM6.5以上の地震が発生する確率は30%とされていたが、この地域における過去の地震に関する情報の欠如などを理由として信頼度は5段階で最低のEとされていた[12]。
本震の震源となったロマ・プリータ山周辺は地震発生直前の20年間で明らかに地震活動が低い空白域となっており、前兆と見なせる地震活動も1988年6月27日にエルスマン湖付近で発生した地震と1989年8月8日にレキシントン貯水池付近で発生した地震の2つだけであった[13]。しかし、このような空白域で短期間の間に発生した2つのM5クラスの地震を受けてカリフォルニア州当局は「続く5日間にかなりの地震が発生する可能性がある」との見解を示した[14]。なお、8月8日の地震では19歳の男がパニックを起こしてアパート5階の寝室の窓から飛び降りて死亡する事故が発生している[15]。
直前予知の実現に向けて様々な取り組みがなされていたが、直前の前兆は観測されなかった[14]。本震の震源域をカバーしていたのは地震計の観測網及び測地のみであり、そのほとんどが震源から約200km南東にある非法人地域のパークフィールド付近に集中していたため、本震に対する予知体制としては十分に取られているとは言えないものであった[16]。
ゲオタイムズ誌の1990年2月号は「もし、それが本当に前兆現象なら興味深い」というサブタイトルを添えて震央より約20㎞にある国勢調査指定地域のコラリトスに置かれた磁場に前兆と見られる現象が発生したことを報じている[17]。ところが、後年の研究ではこれは磁気センサの誤作動であったかもしれないという懐疑的な見方が示されている[18]。
地震動
要素
ロマ・プリータ地震の震源要素は次の通りである。USGSは世界600か所の地震観測所からデータを収集して値を求めた[19]。
- 発生時刻:1989年10月17日17時4分15.2秒(太平洋夏時間)[19]、10月18日0時4分15.2秒 (協定世界時)[19][20]
- 震央:北緯37度2分9秒、西経121度52分58秒[19][21](カリフォルニア州サンタクルーズ市より北東16㎞、サンタクルーズ山地のロマ・プリータ山近く[19]にあるザ・フォレスト・オブ・ニシーン・マークス州立公園[22])
- 震源の深さ:17.6[19][23]-18.5㎞[20]
- 地震の規模:Mw7.1(改訂後の値で改訂前の値は6.9[4][20]、1993年のUSGSの資料でも6.9[24])
- 断層型:逆断層成分を伴う右横ずれ断層型[21][25]
名称
USGSによって地震名はロマ・プリータ地震と命名された[21]。カリフォルニア州サンタクルーズ市より北東16㎞のサンタクルーズ山地にある標高1157mのロマ・プリータ山近くが震源であったことから名付けられた[19]。スペイン語でロマは「なだらかな山」、プリータは「黒ずんだ」を意味する[19]。他に「サンタクルーズ山地地震」[19][26]、「サンフランシスコ湾岸地震」[26][27]、「サンフランシスコ地震」[28][29]と呼ばれることもある。
規模
USGSの合計38か所の地震観測所(内訳:地盤観測点21か所、構造物観測点17か所)とカリフォルニア地質調査所(CGS)の合計93か所の地震観測所(内訳:地盤観測点53か所、構造物観測所40か所)で本震の記録が採取され、11月に入る前に公表された[30]。発生直後には少数の観測値から暫定的に求められたM6.9が世界中に報道されたが、後日に多数の観測値をもとにM7.1に改訂された[4]。カリフォルニア大学バークレー校の地震観測所が求めたローカル・マグニチュード(ML)は7.0である[4]。
震源南側のサリナス市からバークレー市に至る太平洋沿岸の広い地域においては改正メルカリ震度(MM震度階)はⅦと推定された[31]。震源地のMM震度階はⅧとされている[32]。震央に近いサンタクルーズ市、ロスガトス市、ワトソンビル市、レッドウッドエステイツ市などの市街地においても木造住家や古い組積造り建物に対する多数の被害状況に基づいてⅧに見積もられた[33]。また、オークランド市の州間高速道路880号線のサイプレス高架橋では二重床構造部分が崩壊し、サンフランシスコ市北部のマリーナ地区の明瞭な地盤の破壊現象を生じていないような場所においても数多くの構造物の崩壊や多くの建物に対する広範的被害が発生している。こうした深刻な被害状況に鑑みて、サンフランシスコ市やオークランド市の局地的に限定された場所ではMM震度階でⅨの評価が与えられた[34]。なお、MM震度階Ⅸは日本で震度基準として採用されている気象庁震度階級で6-7に相当する[35]。同じサンフランシスコ市内でも場所によってMM震度階はⅥからⅨまで様々に変化した[36]。
有感範囲は450㎞北方のユーレカ市、500㎞南東のロサンゼルス市、350㎞北東のネバダ州リノ市まで及んだ[32]。630㎞南東のサンディエゴ市では高層ビルが揺れた[32]。
表面最大加速度は水平方向で0.64g(コラリトス)、上下方向で0.60g(キャピトラ市)を記録した。また、構造物内の最大加速度は基礎部で上下動0.66g、上層部で水平動1.24g(いずれもワトソンビル市内の4階建てビル)を記録した[37]。
余震は約5000個観測されているが、カリフォルニア州の過去の大地震と同様に時間の経過とともに発生頻度は順調に減少していった[2]。このうち特に規模の大きいM5クラスの2個とM4クラスの20個の余震はいずれも10日以内に発生している[4]。10月18日に発生した余震は震源地に大きな揺れをもたらし、ワトソンビル市などで被害を増すことになった[19]。
メカニズムの解析
デジタルのデータが電話やコンピュータネットワークを通して入手出来るようになったり、最新の高性能の地震計による観測が世界各地で公開されるようになったことなどの背景もあり、発生直後から世界中の様々な研究者によってそのメカニズムが解析された[38]。求められた断層運動によると、その規模は1906年のサンフランシスコ地震の20分の1程度である[11]。ほぼ北東-南西方向の走向に垂直な傾斜を持つ断層面を境界として西側の太平洋プレートが東側の北アメリカプレートに対し、右ずれ約1.9m・南西側隆起約1.3mで約2.3m総変位する地殻変動が発生した[39]。
この規模の大きさの地震としては珍しいことに地表に明瞭な地震断層が現れなかった。サンアンドレアス断層沿いの地震は通常10㎞前後であるのに対し、本震は約18㎞と震源が深かったことがその理由の一つとして挙げられる[40]。また、衣笠善博は震源域が複雑な地質構造になっているために「地表では断層は多数の小断層に分岐し、単一の断層としては現れなかったとの説明も可能である」としている[41]。断層運動は6-18㎞の深さで発生した[8]。余震活動はサンアンドレアス断層付近に約60㎞の範囲に及んだが、本震によってひずみエネルギーの大部分が開放されたために多様なメカニズムを示している[42]。
サンフランシスコ地震について詳しい『世界の果てが砕け散る』の著者、サイモン・ウィンチェスターによると、1906年に解放されて以降にサンアンドレアス断層で蓄積されていた圧力をいくらか発散させた結果として本震が発生したという解釈が発生当初から根強くあった(例として、1990年発行の日本建築学会の報告書には「ロマプリータ地震はサンアンドレアス断層で起きた地震である」[38]、同じく1990年発行の国土庁防災局の報告書には「以上の調査結果からサンアンドレアス断層がこの地震の主断層であると推定される」[43]とそれぞれ記述されている)が、地質学者の計測や調査によってサンアンドレアス断層の典型的運動のそれとは完全に異質であることが確認されたので誤った見方だと判明しているという[44]。この考えが正しい場合、サンアンドレアス断層が最後に動きを見せたのは1989年ではなくてサンフランシスコ地震が発生した1906年ということになり、毎年少しずつ基盤が移動して生ずるひずみエネルギーが100年以上も蓄え続けられていることになるわけである[45]。USGSは2003年にこの考えに基づき、サンアンドレアス断層群で2032年までにM6.7以上の地震が発生する確率は62%あると発表している[46]。
地盤変状
液状化
サンフランシスコ市のマリーナ地区は地盤の液状化現象が顕著であった[47]。マリーナ地区においては埋め立て地と砂丘砂の地域では地震動の大きさにあまり差はないが、液状化被害の程度は両者で大きく差が開いた[48]。同市のマーケット通り沿いの埋め立て地(マーケット通り南地区、サンセット地区など)においても大規模な液状化現象が発生した[49]。比較的新しい埋め立て地であったサンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジのオークランド側アプローチ部でも大規模な液状化が発生(液状化に伴う噴砂、地割れ、陥没も確認[50])し、地表面での沈下(地盤沈下)量は最大40㎝にも及んだ[51]。サンフランシスコ・ベイエリアでこの他に大規模な液状化が発生したのはオークランド国際空港(その修理費用は3000万ドルにのぼると見積もられた[52])、オークランド港、アラメダ海軍航空基地、ベイファーム島、人工島のトレジャー島などである[53]。震源南側地域ではサンタクルーズ市内、ワトソンビル市周辺のパハロ川流域(液状化に伴う砂火山の形成も確認[54])、国勢調査指定地域のモスランディング(河川沿いの地域や太平洋沿岸)などで大規模な液状化が発生している[55]。
ベイエリアに面するサンフランシスコ市とオークランド市の液状化が厚く堆積した軟弱な粘土層(ベイマッド)上の埋め立て地盤上で発生しているのに対し、震源に近いサンタクルーズ市とワトソンビル市の液状化は河川沿いの沖積砂層で多く発生している[56]。また、エンバカデロ沿いのフィッシャーマンズ・ワーフ近くの地域、サンフランシスコ湾沿いのオークランド市を含めた埋め立て地、モンテレー湾沿いのサンタクルーズ市とワトソンビル市とモスランディングなど、1906年のサンフランシスコ地震と液状化発生地域の大部分が一致しているのも特徴である[57]。しかし、ベイエリア南部のアラメダ・クリークとコヨーテ・クリーク沿いの地域などのようにサンフランシスコ地震では大規模な液状化が発生したが、本震では液状化が発生しなかった河川沿いの地域もあった[58]。計画都市のフォスターシティでは南北に広がる未改良地盤で液状化が発生した一方で、地盤改良が行われていた住宅地は液状化を抑止することが出来た[59]。オークランド空港でも滑走路の北側部分とそれに続く誘導路に大規模な液状化現象が見られ、亀裂や沈下、段差などが生じた一方で[60]、地盤の締め固めが十分に行われた滑走路の南側部分とエプロンでは液状化を抑止することが出来た[61]。全体の液状化の程度としては、1906年の被害地域のごく一部が液状化して被害となったものであり、サンフランシスコ地震のそれと比較すると極めて小規模にとどまっている[62]。
土砂災害
地すべりが発生したのは500-1000か所(カリフォルニア大学バークレー校による)でその範囲は14000k㎡に及び、サンフランシスコ・ベイエリアとサンタクルーズ市からモンテレー湾岸地域に集中的に発生した[63]。この中でも特にサンタクルーズ山地内にあるゴーストタウンのローレル周辺で多発している[64]。地すべりによる住居や公共施設の被害は少なく見積もっても数十億ドルにのぼると見られている[63]。
がけ崩れなどの斜面崩壊はサンタクルーズ山地の南西斜面で最も大きな被害が生じた[65]。がけ崩れの事故によって少なくとも2人が死亡した[66]。一日当たり数万人の通勤者に利用されていたサンタクルーズ市とベイエリアを結び、サンタクルーズ山地を抜ける州道17号線もがけ崩れの影響で寸断されてしまった[67]。
地すべりとがけ崩れの他には震源域、主に州道17号線の西でサンアンドレアス断層の西側の長さ8㎞、幅2.5㎞の範囲に数多くの地割れが発生している。これらの地割れの多くがサンアンドレアス断層の走向にほぼ一致しているが、変位のセンスは右ずれ、左ずれ、横ずれ、単純開口と多様であった[66]。
津波
震央から50㎞離れたモンテレー湾では本震が発生して約20分が経過した17時25分頃から最大波高40㎝(-45㎝[68])で周期9分の津波が発生している[4]。サンタクルーズ市のヨットハーバーで小規模な津波現象が見られたとする報告もある[40]。カリフォルニア州で地震による津波が発生するのは稀である[4]。
被害状況
死傷者数
サンフランシスコ市駐在の日本総領事館がカリフォルニア州緊急対策本部に1989年11月15日付で問い合わせをして11月30日に回答を得たデータによると、死者は62人(1993年のUSGSの資料では63人[24])、負傷者は3,757人、退避者は7,900人である[69]。マーティン・レッドファーンは前年の1988年に発生した同じM7クラスのアルメニア地震を比較対象として挙げ、死者が極めて少なくなったのはカリフォルニア州の建築基準法の設定基準が厳しいためとの見解を示している[70]。
オークランド市内にある下記のサイプレス高架橋では2階建て形式の道路が約1㎞にわたって連続して崩壊したために通行中の多くの車が圧壊してしまい、震災による死者の内の多数が発生した[71]。この高架橋の事故は42人の死者と数百人の負傷者を出す惨事となった[72]。サンフランシスコ市のマーケット・ストリート南部では古い組積造り建物の外壁が崩壊する事故が発生し、通り沿いに車を停車していた5人が死亡した[73]。また、サンタクルーズ市のダウンタウン、パシフィック・ガーデン・モールではフォードのデパートの天井とコーヒーショップの天井が崩壊する事故が発生し、合わせて3人が死亡した[74]。サンフランシスコ市のマリーナ地区では建物が倒壊して合わせて4人が死亡した[75]。
ライフラインへの影響
電力供給施設
サンフランシスコ・ベイエリアの電力供給は全米でも民間としては最大規模の電力・ガス会社のパシフィック・ガス・アンド・エレクトリック・カンパニー(PG&E)社によって行われており、電力の需要家軒数は約400万軒である[76]。モスランディング火力発電所(震央から27㎞)内の変電設備、メトカフ変電所(震央から25㎞)、サンフランシスコ市への電力供給の中心的役割を担うサンマテオ変電所で被害が生じた[77]。このためにPG&E社の全需要家の約3分の1に相当する約140万軒が停電した[78]。
PG&E社は本震が発生してから1時間後には本社内に電力・ガスの供給施設の被害状況を把握し、復旧作業の指揮を執ることを目的とする非常対策本部(EOC)を設置した[79]。48時間後には26000軒(うち8000軒はサンフランシスコ市マリーナ地区)を除く全需要家への電力が復旧したが、この停電によってサンフランシスコ市中心部の都市機能はほぼ2日間停止してしまった[78]。
ガス供給施設
サンフランシスコ・ベイエリア一帯すべてのガス供給を行うPG&E社のガス部門は天然ガスを供給する全米2位の規模のガス会社である[80]。サンフランシスコ市北部のマリーナ地区と震央に近いサンタクルーズ市、ワトソンビル市、ロスガトス市でガス本管と需要家設備に被害が生じている[81]。PG&E社の全需要家件数350万軒のうち、16万2000軒が供給停止となっているが、このうちの15万6000軒は需要家自身が元栓を締めたものであり、PG&E社が本管のバルブを遮断したのは6000軒(そのうちの5000軒がマリーナ地区)である[82]。本震後のテレビやラジオの報道では「ガスの臭いがする場合は」という部分を省略して、ただひたすら元栓を締めるように繰り返しメッセージを流していた[83]。
ガスの元栓の開栓作業のために多数の要員が投入されることになった[84]。マリーナ地区を除く地域の復旧は10月25日までに完了した[85]。液状化に伴って古い鋳鉄管が大きな被害を受けたマリーナ地区では16㎞のガス本管と需要家の引込み管をほぼすべて更新することになったためにPG&E社は400人を超える要員を配置して特別な組織と対応を行い、当初の予定より3か月も早く11月20日に復旧を完了することが出来た[86]。なお、PG&E社はマリーナ地区の住民の理解を得るために復旧作業期間中も毎週作業の進捗に関する広報紙の配布、毛布や壊れた窓のシールの無料配布、60人分の温水シャワー車の導入などを行っている[87]。
水道施設
サンフランシスコ・ベイエリアの上水道は主にいくつもの地方公共団体によって個別に供給されている[88]。水道施設全体の被害は300万ドル、このうちサンフランシスコ市内の被害額は200万ドルと推定されている[89]。サンフランシスコ市では地盤の軟弱な地域に限り、特に上水道の被害が顕著であった[90]。マリーナ地区は配水管と給水管あわせて111か所の被害があり、サンフランシスコ市全体の被害145か所のうち76.5%を占めている[91]。
電気通信施設
電気通信施設への被害は通信網全体に影響を及ぼすような被害はなく、被害を受けた通信施設はそのほとんどが代替施設等に切り替えられた[92]。サンフランシスコ・ベイエリアの加入数は330万である。これらの電話に対して本震発生直後より全米を始めとする世界中から問い合わせの電話が殺到してベイエリアの通信施設の処理能力を超える「ふくそう」が発生したため、通信規制が10月18日から19日までの2日間実施された[93]。10月21日には発着信呼数も平常時レベルに落ち着いた[94]。
建築物の地域別被害
建築物の被害は震央の北側150㎞、南側50km、東西50㎞の範囲で発生している[95]。震央より約100㎞のサンフランシスコ市やオークランド市では大規模または中規模の被害が発生する一方で、震央より50㎞前後のサンノゼ市での被害は比較的小規模であった[96]。軟弱地盤上の観測点を除外したデータ群ではサンフランシスコ方面へは大きな地震動が遠方まで伝わっている傾向が示されている[97]。しかし、サンフランシスコ市とオークランド市の被害は局地的なものであり、それ以外で大規模な被害が発生しているのはサンタクルーズ市、ワトソンビル市、ロスガトス市といった震央に近い都市ばかりである[98]。カリフォルニア州緊急対策本部のデータによると、被害建物は個人建物数23406棟で商用建物数3547棟、倒壊建物は個人建物数1015棟で商用建物数367棟以上とされている(サンノゼ市の被害は含まれず)[89]。アメリカ赤十字社ゴールデンゲート支部のデータ(1989年11月中旬時点)によると、全壊建物数1621棟、半壊建物数3858棟、一部破壊建物数17025棟で被害建物数合計は22504棟とされている[99]。しかし、本震によって特に大きな被害を受けた建築物は限定された地域の数種類の古い建築物に限られている[100]。
本震災害による物的被害総額は60億ドル近くに達し、アメリカ史上最も経済的損害の大きい自然災害となった[101]。なお、5年後に発生したノースリッジ地震の物的被害総額はこれをさらに3倍以上も上回る200億ドル以上にのぼると見積もられている[102]。
アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはカリフォルニア州の地震被害への救済金として11億ドルを支出する一連の法案に署名した[103]。ブッシュはカリフォルニア州の7郡の全域(アラメダ郡、モントレー郡、サンベニト郡、サンマテオ郡、サンタクララ郡、サンタクルーズ郡、サンフランシスコ郡)と3郡・2市の一部(コントラコスタ郡、マリン郡、ソラノ郡、トレイシー市、イスレトン市)を災害地域に指定している[69]。1993年8月時点で、本震災害に対する連邦政府の出資は6億8900万ドルにのぼると見積もられた[104]。
サンフランシスコ市内
サンフランシスコ市マリーナ地区に本震で最も被害が大きい建物が集中している[105]。共同住宅が密集する住宅地であり[106]、住宅のすべてが木造建築であった[107]。マリーナ地区はかつては入り江とそれを取り巻く干潟であり、ゴールドラッシュ(カリフォルニア・ゴールドラッシュ)以後に徐々に埋め立てが行われていたが、1906年のサンフランシスコ地震ではこの埋め立て部に大きな被害が発生している[48]。地区中心部はパナマ太平洋万国博覧会の会場用地として建設が始まり、1914年に完了した埋め立て地である[108]。同地区では液状化が発生した証拠となる噴砂も多くの研究者によって確認されており[109]、液状化の影響でほぼすべての建物に何らかの被害が生じた[110]。サンフランシスコ湾からわずか300mほどの同地区のビーチ通りとデビサデロ通りの角地で最も被害が大きい火災が発生しているが、軟弱地盤上の1920年頃に建てられた木造のモルタル塗りの3階ないし4階建ての共同住宅が倒壊し、ガス管が祈損してガスが漏れ、暖房機の口火に着火したのが火災の原因と推定されている[111]。なお、サンフランシスコ市警察は市内で最大の被害を出したマリーナ地区に現地対策本部を設け、初動段階で200名の警察官を投入し、救助活動、住民の避難誘導、立ち入り禁止区域(同地区の3分の1に当たる20ブロック)の設定とその警戒活動などを行っている[112]。
延焼拡大した市内の火災は2件(マリーナ地区デビサデロ通りの角地とオーシャンサイド地区で1件ずつ)のみであり、合わせて6棟の共同住宅が全焼した[113]。市内ではマリーナ地区の他にマーケット通り沿いの埋め立て地に被害が集中しているが、建物の被害の多くが古い組積造り建物であり、高層ビルの被害はほとんど見られなかった[114]。
サンフランシスコ以外
震央に近いサンタクルーズ市ではパシフィック・ガーデン・モールにある古い組積造り建物に被害が集中した[115]。オークランド市では組積造り建物の被害が多く見られたのに加えて1960年前後に建設された高層ビルにも被害が見られ、全体的にサンフランシスコを上回る建物の被害が生じた[116]。ワトソンビル市の中心部のダウンタウンでは軒並みショーウインドウが割れ、この他にも被害が生じた相当数の建物が本震後に取り壊された[117]。ロスガトス市では古い組積造り構造物の大破や木造の店舗で仕上げたモルタルが乖離したり、ガラスが割れたり、ガス管が破裂する被害が見られたが、被害が発生した地域は限られていた[118]。震央から北40㎞に位置し、学生寮も含めて約400棟の構造物が存在するスタンフォード大学では構造物被害が総額1億6000万ドルにのぼると見積もられたが、幸いにも人的被害は数人の負傷者が出ただけであった[119]。サリナス市の旧市街歴史地区では古い組積造り建物が一部損傷した[120]。
土木構造物の被害
被災地域内に約1500のカリフォルニア州交通局(カルトランス)が管理する橋と、ほぼ同数の郡および市管理の橋があるが、このうち、3橋(サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジ、サイプレス高架橋、ストラブスルー橋)が落橋・9橋が通行止めを伴う大きな損傷・13橋が中程度の損傷・65橋が軽微な損傷を受けたとされている[121]。カルトランスによれば、道路施設の被害は18億にのぼると見積もられている[122]。落橋した3橋と大きな損傷を受けた9橋を合わせた12橋はいずれも沖積粘性土層と分類される地盤上に構築されていた[122]。モスランディング周辺では液状化の影響で近くの低湿地を通るモスビーチの土手道が破壊され、岬と本土を結ぶ橋が損傷し、ポールの島の舗装道路には亀裂が生じている[123]。
日本では1923年に発生した関東大震災を契機として耐震基準が導入され、おおむね0.2g以上が採用されていた。カリフォルニア州が日本のこの設計震度の値に近づいてきたのは1971年に発生したサンフェルナンド地震以降である[124]。カルトランスが設計震度の低い既設橋の第1段階の補強計画として橋桁の落橋防止装置を取り付けた後、1989年から4か年計画で第2段階として不静定次数の低い1本柱鉄筋コンクリート橋脚の耐震補強を実施しようとしていた矢先に、本震が発生した[124]。1973年以降の耐震基準に準拠して設計された橋で本震により大きな被害を生じたものはなかった[121]。
サイプレス高架橋
州間高速道路880号線(ニミッツ・フリーウェイ)のサイプレス通り上にあるサイプレス高架橋は延長2㎞の鉄筋コンクリート構造の2階建て形式の構造物である[125]。スパン24mの3経間連続鉄筋コンクリート多重箱桁橋が連続しており、桁の両端がかけ違い構造で接続されている。そして、このかけ違い部には桁連結装置が設置されている[125]。設計震度0.06を考慮して設計され、1957年に開通した[126]。
サイプレス高架橋では延長2㎞の全長にわたり損傷または崩壊し、そのうち18番通りとの交差点から北側の州間高速道路80号線とのインターチェンジ部までの1.2㎞区間の2階の橋桁が崩壊して大きな災害となった[125]。2階の道路部分が支えを失って1階の道路上に覆い被さってしまう落橋被害が連続して発生した[127]。この事故によって42人(1993年のUSGSの資料では41人[24])が死亡し、数百人の負傷者が救出された[72]。崩壊現場では放置車両が多数あり、立ち入り禁止措置が取られるまでの間に車上狙いが横行して8人が逮捕されている[128]。通常時は17名の隊員を配置してサイプレス地区の交通の指導取締りなどを行っているカリフォルニア・ハイウェイ・パトロールは災害発生後に600名の隊員を投入して初動活動に当たった[129]。走行中の車が圧壊・炎上して2件の火災が発生したが、オークランド市消防局は他に延焼する危険も無いと判断して消化活動は行わず、多数の犠牲者の救出活動に専念している[130]。北側が軟弱地盤なのに対して南側は比較的硬質な地盤であったため、サイプレス地区の北半分と南半分で被害の程度がまったく異なっている[131]。なお、液状化や地盤沈下は主要な被災原因にはならなかったと推定されている[132]。
カルトランスは直営で敏速な点検と迅速な対応を行い、街路をなるべく早く復旧させるために7番通り交差点部から34番通り交差点部までのサイプレス通り全域にわたりその大部分を1か月以内に取り壊し、撤去した[133]。サイプレス高架橋の跡地には崩壊から15年後にマンデラ・パークウェイと呼ばれる地上部道路が完成した[134]。しかし、880号線の復旧が完了するまで10年ほどかかり[135]、州間高速道路980号線の渋滞が引き起こされた[136]。
サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジ
サンフランシスコ‐オークランド・ベイブリッジは全長13.3㎞の橋梁群でサンフランシスコ・ベイエリアの幹線交通網の一部を形成しており、1936年に開通した[137]。ベイエリアの両側にある人口77万人のサンフランシスコ市と人口35万人のオークランド市を結び、一日の交通量は27万台を記録するほどであった[122]。中間のイエルバ・ブエナ島と西側のサンフランシスコ間が2階建て形式の吊り橋、東側のオークランド間がカンチレバー型式を含むトラス橋である[138]。建設当時には一般的な耐震設計基準は存在しなかったが、設計基本震度として0.075(一説には0.1)を用いたと言われている[137]。
このベイブリッジではパイル基礎で比較的しまった砂層を支持層とする固定構造のE9橋脚において唯一、大きな被害が生じた[138]。2階建て形式の吊り橋部には一切損傷が無かったが、このトラス橋の橋脚が渡り桁の落下などの損傷を受けた[139]。オークランド側のトラス橋を固定しているアンカーボルトが切断されてそれに伴ってトラス橋がオークランド側へ移動し、長さ15mの橋桁も引っ張られ、橋桁を支えていた部分より大きく移動して落橋した[124]。このために通行中の自動車3台が桁の落下に巻き込まれ、運転手1人が死亡した[139]。事態に気付いた運転手の1人が車から降り、危険を対向車や後ろの車へと次々に伝えて惨事の拡大を防いだ[140]。修復作業では渡り桁が撤去され、トラスをジョッキによって元の位置まで引き戻してハイテンボルトで再び固定された[141]。11月18日にベイブリッジは復旧した[142]。
なお、一部が落橋したために交通封鎖された結果、ベイブリッジの13㎞の区間がゴールデンゲートブリッジとリッチモンド‐サンラファエル橋とを経由する北側を迂回すると延長が46㎞、また南側へ迂回してサンマテオ‐ヘイワード橋を経由すると延長が78㎞と距離が延び、大きな交通障害が生ずることになった[122]。この深刻な交通支障を補うためにBART(ベイエリア高速鉄道)は平常のサービス時間が6時から24時までであるのに対し、10月23日から深夜も毎時間1本程度の列車を運行する終日運転を開始した[143]。この24時間のフルサービスは12月3日まで継続された[142]。
その後に本震によって損傷を受けた構造部を1500年に一度起こると予測される大地震にも耐えられる耐震構造に架け替える「ベイブリッジの東側スパンの架け替え事業」が開始され、2013年に完了した[144]。この事業はカリフォルニア州において史上最高額の64億ドルを費やす巨大公共事業となった[145]。
エンバカデロ高架橋
サンフランシスコ湾岸沿いの州道480号線(エンバカデロ・フリーウェイ)のエンバカデロ通り上にあるエンバカデロ高架橋は延長1㎞の構造様式がサイプレス高架橋とよく似た鉄筋コンクリート構造の2階建て形式の構造物である[146]。ベイブリッジからフェリー・ビルディングの前を通り、サンフランシスコ市のダウンタウン中心部に至る経路となっている[147]。1959年に一部完成して開通した[148]。
エンバカデロ高架橋では南側延長500mにわたってサイプレス高架橋の中で崩壊しなかった橋脚と同様に、橋脚の上層の柱の下端と下層横梁の接合部に損傷が生じた[146]。最卓越振動数の最大増幅倍率はサイプレス高架橋よりも2.5倍程度大きいことから、日本建築学会は地震動はサイプレスよりも大きかったものと推測し、両高架橋の被害の相違は構造特性の相違によるものと推察している[149]。そして、サイプレス高架橋の橋脚の断面が常時の段階から自重が作用していたのに対して本橋の橋脚の断面は変化していないのと、多用されているヒンジのタイプの違いから崩壊を免れたものとの見解を示している[150]。
エンバカデロ・フリーウェイは閉鎖された後[151]、大多数の市民からの支持も得て1991年に完全に撤去された[152]。
ストラブスルー橋
ストラブスルー橋は震源より南に30㎞[153]、ワトソンビル市南部の州道1号線が州道129号線と交差する地点から1.5㎞北の軟弱地盤の湿地帯に架かる21経間連続のRC桁橋(途中3か所でゲルバーヒンジによって接続)である[154]。杭頭は横桁に直接接合されていた[155]。
このストラブスルー橋では南行き2車線の21経間中10経間が落橋し、4本の杭頭が床板を突き抜けた[156]。南行き道路の中央部分が落橋し、北行き道路は落橋こそ免れたものの、RCパイルベント橋脚が著しく破損して桁が落下した[153]。
新橋の計画はただちに着手され、11月30日から1990年3月9日までの90日間の予定で工事契約が締結された[157]。なお、この新橋は当初の予定より35日も早く55日間で完成している[158]。
1989年のワールドシリーズ
映像外部リンク | |
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1989年ワールドシリーズの回顧 (2014年にアップされたMLB.comによる特集) |
この年のワールドシリーズは同じサンフランシスコ・ベイエリアに本拠地を置くオークランド・アスレチックスとサンフランシスコ・ジャイアンツの対戦であり、「ベイエリアシリーズ」として地元住民を熱狂させた[159]。このようなワールドシリーズの同地域対決はブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ヤンキースが対戦した1956年のワールドシリーズ以来33年ぶりである[160]。さらには76年ぶりとなる古豪チームの対戦であることでも注目されていた[159]。シリーズの第1戦・第2戦はアスレチックスが自チームの本拠地であるオークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアムで連勝し、舞台はジャイアンツの本拠地であるキャンドルスティック・パークへと移った[160]。
10月17日17時30分よりキャンドルスティック・パークでシリーズの第3戦が予定されており、主要メディアの取材班がベイエリア地域に結集していた[161]。NHK衛星第1テレビジョンによって日本で初めて全試合中継されるワールドシリーズでもあったため、その実況を担当する森中直樹に解説の梨田昌孝、高田繁ら放送クルーも球場入りして試合開始を待っていた[159]。シリーズを自宅で観戦するためにベイエリア地区では通常のラッシュ時よりも少し早めに帰途についた人が多く[162]、本震が発生した時間帯の道路や橋は通常時より交通量が少なく空いていた[163]。このために路上事故も予想より少なめで済み、死傷者の減少に貢献することになった[164]。アメリカ全土で放送されるABCの試合中継番組でキャスターのティム・マッカーバーが試合の見どころについて語っていた時に大きな震動がベイエリアを襲った[160]。同席していた実況アナウンサーのアル・マイケルズが「お伝えします。地・・・(地震)が発生した模様です」と叫んだ直後に番組の映像は途切れた[165]。
キャンドルスティック・パーク内でのMM震度階はⅦを記録した[36]。発生時、62000人以上が球場内に押し込められて混雑していた[166]。ジャイアンツのウィル・クラークは「この世の終わりだと思ったよ」[167]、梨田昌孝は「死ぬかと思った」[168]、森中直樹は「正直、殉職を覚悟して息子の顔を思い浮かべたものです」[159]とそれぞれコメントを残している。揺れが収まるとアスレチックスのリッキー・ヘンダーソンが真っ先にフィールドに飛び出して観客に落ち着くように呼びかけ、両チームの選手たちがこれに続いた[159]。また、両チームの選手の多くがすぐに観戦に来ていた家族を捜し始めた[169]。右翼席の上層スタンドには幅15㎝の裂け目が入り、コンクリート通路も多数の亀裂が入った。スタンド前列には金属やコンクリートの破片が降り注いだが、観客は落ち着いて行動したこともあって重傷者は1人も出なかった[167]。しかし、観客を救うために機転を利かせて行動したヘンダーソンのベイエリアにある豪邸はこの震災によって崩壊してしまっており、彼も被災者の一人となった[159]。
地震の時までにキャンドルスティック・パークの観客席の自分の席に達していたのは半分だけであったためにその分、球場の構造にかかる負荷が軽減された[169]。サンフランシスコ市警察のポリスカーがフィールド内に突入して三塁側ダグアウト近くで停車した[170]。そのポリスカーのスピーカーより、市警察の指揮を執るアイザイア・ネルソンが試合が延期されたとするMLBコミッショナー、フェイ・ヴィンセントの説明を中継して球場内の観客に伝えた[170]。
停電のために着替えることが出来ず、ユニフォームを着たままでポルシェに乗り、エスター夫人とともに球場を後にしたアスレチックスのホセ・カンセコはイーストベイ地域のセルフサービスのガソリンスタンドに立ち寄った。自伝『禁断の肉体改造』の中では、エスター夫人が夫が目立たないように気遣って自ら進んでガソリンを入れ始めたのに、誤解されて翌日の新聞には「ホセ・カンセコ。男性優越主義者のブタ」と出ていたと書いている。彼はこの出来事をマスメディアが物事をはき違えて報道した一例として取り上げている[171]。アスレチックスはスプリングトレーニング施設に向かい、2日ほど練習を積んだ。ファンはその練習を有料で見物し、集まった4万ドル以上の募金は被災者に贈られた[172]。ヴィンセントは第3戦を5日後に延期したが、インフラの問題が原因で試合の開催はさらに5日延期された[163]。
第3戦は10月27日に再開された。この試合では本震の救援活動に当たった医師、看護婦、レスキュー隊員、ボランティアなどが始球式に招かれ、アメリカの国歌「星条旗」の代わりにサンフランシスコ市民のための歌「サンフランシスコ」が斉唱された[159]。結局、アスレチックスは第3戦・第4戦も勝利して1976年のワールドシリーズのシンシナティ・レッズ以来13年ぶりとなる4連勝でワールドチャンピオンに輝いた[160]。アスレチックスのマーク・マグワイアは10年近く経過した後もこのシリーズ終了後にシャンパンで祝うことも優勝パレードを行うことも出来なかったのを残念に思っていた。地震のせいで優勝の影も薄れてしまったと考えており、「我々の89年の優勝にはこれから先もずっと脚注マークが付くことだろう」と述べている[173]。
報道体制
本震はアメリカの全国ネットのテレビ放送において、その発生する瞬間が生中継された最初の大地震である[174]。ワールドシリーズを衛星放送(日本の衛星放送)で中継するために試合が行われるキャンドルスティック・パークに布陣していた報道陣によって日本にもリアルタイムで伝えられた[26]。
ABCはワールドシリーズの中継番組を中断した後に放送番組を『ロザンヌ』の再放送、続いて『素晴らしき日々』の再放送に切り替えた[166]。さらにその後、CBSとほぼ同時に地震速報を伝える報道特別番組に移行した[175]。一方、NBCが連続放送を開始したのは両ネットワークより1時間近く遅れてからであった[175]。
サンフランシスコのラジオ局もテレビ局と同様に停電の影響をまともに受けて数分間の放送中断は起こしたが、即座に最小限のスタジオ機能やアナウンサーを確保して災害放送の体制を整えた。市内の被災情報を刻々送り続け、各局ともCM抜きで約2-3日間連続で放送を行った[176]。
地震報道が評価されてラジオ局のKCBS-AMとテレビ局のKGO-TVが1990年3月にピーボディ賞を受賞した[177]。また、日刊新聞のオークランド・トレビューン紙とサンノゼ・マーキュリー・ニュース紙も同じく評価されて1990年4月にピュリッツアー賞を受賞した[177]。
KRON-TVは地震発生当時はローカルニュースを放映中であり、地震によって30分ほど放送を中断し、5時35分に放送を再開した。放送は被災現場中継、電話レポート、スタジオからのコメントに重点を置き、CM抜きでその後30時間連続で災害報道を継続した。・・・375ページ
KTVU-TVも地震発生直後に自家発電装置が故障してしまい、約1時間以上も放送の中断を余儀なくされたが、放送再開後4日連続で災害報道を行った。376ページ
KGO-TVは野球中継のために上空に配備した飛行船を利用してベイブリッジの崩壊現場やマリーナ地区の火災現場などの映像を生中継でニューヨーク経由で放送することができた。
KPIX-TVは地震対策として建物の耐震補強と予備発電機を利用していたことから放送の中断は30%程度ですみ、5時15分頃から地震特番を組み、CM無しで19日10時まで放送した。また、野球中継のためにチャーターしていたヘリコプターから被災現場の映像をライブで伝えることができた。376ページ。このようにサンフランシスコのテレビ局は本震直後の停電によっておおむね20-45分間は放送することが出来なかったが、復旧した後は生活関連情報を主体とした内容でおおむね3日間・24時間連続のCM抜きで放送を行った[178]。
ボランティア活動
震災時に住民による無償のボランティア活動が活発に行われたことがマスコミによって大きく取り上げられている[179]。レベッカ・ソルニットによると、サンフランシスコ・ベイエリアに住む多くの人々が被災直後の階層や職業の違いを超えて打ちとけ合い、助け合った日々を懐かしみ、愛しているという[180]。被災地で救援活動に名乗りを上げる市民や献血を申し出た人たちは現地の報道で「さばき切れない状態」と表現されるほど多数にのぼった[140]。サンフランシスコ市の被害家屋の技術的診断では市から約100名の技術者が派遣されているが、その他にも建築事務所従業員と退職技術者など約300名が3日間ボランティアとして従事している[181]。アラメダ市、サンタクルーズ市、サンタクララ市、サンフランシスコ市のどのくらいの住民がボランティア活動を行ったかという167人を対象とした東京大学の新聞研究所が行った調査によると、何らかの形でボランティアを行ったと回答したのは56%にのぼり、その内訳では「食料、水、衣服などの提供」が69%ともっとも多くなっている[182]。NPO法人の災害・防災ボランティア「未来会」のホームページによると、日本赤十字社は本震の際にアメリカ赤十字社が多くのボランティアの力をまとめて被災者の支援活動を行ったことを参考にして、1991年から日本国内における防災ボランティアの養成・登録を開始したとのことである[183]。
被災地や避難所周辺では救世軍などのキャンピングカーによる食事の配給風景が目立った[184]。また、サンフランシスコ市中心部のオールド・セイント・メアリー大聖堂に開設されていた赤十字の施設では、被災者に対して食料や衣料品の配給場所や新しい住宅に関する情報提供、相談業務などを40-50人のボランティアが中心となって行った[185]。
和田秀樹は 『震災トラウマ』の中で本震発生からわずか数時間後に、300人ほどの被災者を集めて順番に何でも好きなようにその時語れるだけ語れる場が設けられ(場所は触れられず)、ミニマラソン形式で約3時間ぐらい続けられたという話を心のケアのグループ治療の方法として紹介している[186]。
サイプレス高架橋が崩壊した事故では周辺に在住する多くの人々がロープやはしごを手によじ上り、生存者を背負われて次々に下ろし、消防車が救急隊員が到着するまでにほとんどの負傷者が下で介抱されていた[187]。崩れ落ちる高架橋を走っていた看護師資格を持つバスの女性運転手が無事に走り抜けて安全な場所に乗客を降ろすと再び現地に戻り、怪我人を応急手当してバスでピストン輸送したという話が現地では語り草になっている[140]。民間の建設業者から急遽借り上げた建設重機、検索犬、日本から提供されたファイバースコープなども投入して展開された大掛かりな救出活動はオークランド市消防局、オークランド市警察、カリフォルニア・ハイウェイ・パトロールなど各機関およびボランティアが一体となって1週間続けられた[188]。
サンフランシスコ市マリーナ地区の火災現場では最初の数時間は3対1でボランティアの数がプロの救助隊を圧倒した[189]。初期のうちから火災による負傷者の応急手当が積極的に行われた[190]。ボランティアに参加したのは現場付近に住む市民およびアメリカ陸軍関係者などの個人的な協力者と消防予備隊、アメリカ赤十字社ゴールデンゲート支部および救世軍などの組織的な協力団体である[191]。消火栓が一切使用出来なかったためにサンフランシスコ市唯一の消防艇『フェニックス』が出動した[192]。サンフランシスコ市消防局側がボランティアの呼び掛けを行ったところ、期待した20人を大幅に上回る50人以上が立ち所に手伝ってくれたという[192]。『フェニックス』が波止場への接岸を果たすと、待ち構えていたボランティアがホースを持って火災現場まで駆け上がった[193]。
この震災の後、各地で地震緊急対応チームをモデルとしたボランティア訓練プログラムが生まれた[194]。
復興事業
カリフォルニア地震災害軽減法に従って定めるカリフォルニア州で最も基本的な震災対策計画「カリフォルニア地震災害軽減計画」は2000年1月1日までに州全体にわたって地震被害を大幅に軽減することを目的としており、カリフォルニア地震安全委員会が5か年計画として策定し、毎年見直しと改訂が行われる[195]。
フェリー・ビルディングの再生
巨大な壁でサンフランシスコ港を市街地から切り離し、フェリー・ビルディングを遮断して港湾地区の景観を著しく破壊しているとしてエンバカデロ・フリーウェイは開通当初から建設の継続に対する激しい反対運動が起こっている[148]。1960年代前半にすでに建設された部分さえも撤去するという提案が市民団体と一部の市会議員によって提出されるに至り、撤去はされなかったものの、フリーウェイの延伸工事は中止された[196]。サンフランシスコ港はゴールドラッシュによって1850年代から急成長を開始して1920年代にはアメリカで最も利用者が多いターミナルとなっていたが[197]、このフリーウェイによって市民が近付かなくなったのと相次ぐ開発事業の失敗が原因で1970年代以降に急速に衰退の一途をたどった[198]。
フリーウェイは震災で損傷を受けたために一時的に閉鎖された[151]。1990年3月に市の今後の発展のためにフリーウェイを撤去したいという考えを明らかにしたサンフランシスコ市長アート・アグノスの提案に対して大多数の市民が震災前と異なり、支持する意思を示した[152]。半年の討議を経た後の1990年4月16日にサンフランシスコ市議会は6対5の僅差でフリーウェイを撤去することを可決し、翌1991年に撤去工事が完了した[199]。フリーウェイが撤去されたことで、6万㎡以上のウォーターフロントの土地が開放されて大規模な開発事業が可能になり、港湾地区が再び市街地に接続されたために多くの民間企業の開発事業を誘発するという効果をもたらした[199]。フリーウェイの代わりの交通システムとして、エンバカデロ大通りの建設を軸とした複数の事業から構成される「エンバカデロ交通プロジェクト」が実施され、2000年に完成した[200]。
また、サンフランシスコ地震ではほとんど損傷しなかったフェリー・ビルディングはその後に老朽化が進行し、震災で大きく損傷してしまった[201]。その修繕について議論するために1991年1月に27人で構成される諮問委員会が組織され、100回以上の市民会議と数度の草案修正を経た後の1997年にサンフランシスコ港に関する初めての総合ビジョン「ウォーターフロント土地利用計画」が港湾委員会によって承認された[202]。歴史的建造物の保存と市民の利用に重点を置き、4社の企業連合がこの計画を実施した[203]。計画の一環として2003年に開業したフェリー・ビルディング1階のマーケットプレイスには40店舗以上の地元食料品専門店、約10軒の地元レストラン・カフェと数店舗の地元食器・料理器具専門店が入居し、チェーンストアの入店は断られた[204]。マーケットプレイスの地元を優遇した戦略は功を奏しており[205]、サンフランシスコ港は市民の買い物とレジャーの中心に回復しただけでなく、多くの観光客が訪れる人気の観光スポットとなっている[197]。サンフランシスコ観光協会が2010年に実施した調査によると、「サンフランシスコ市を旅行先として選んだ理由は何か? 」といった質問に対して回答した観光客の91%がレストラン、70%がショッピングを挙げている[206]。1990年から2011年にかけてサンフランシスコ市の人口は11.2%増加し、2011年にはサンフランシスコ市はCNBCがランク付けする「全米で最も歩行者が楽しめる町」において2位のボストン市と3位のニューヨーク市を抑えて1位を獲得した[205]。
サンタクルーズの「物語復興」
大衆文化における描写
- スポーツ情報サイト「ブリーチャー・レポート」のエディターが選定する格付け「MLB史上最も衝撃的な場外の瞬間50」において、本震は9位にランクインした[207]。
脚注
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関連項目
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参考文献
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外部リンク
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- Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Then And Now
- Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Rebuilding Santa Cruz
- Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - San Francisco's Marina District
- Loma Prieta Earthquake: 25 Years Later - Cypress Freeway in Oakland
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[[Category:1989年の地震]
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- ^ Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 url と title は必須です。“[ ]” (英語). [[|]]. 2015年3月1日閲覧。
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