ナム・ジュン・パイク
ナム・ジュン・パイク(Nam June Paik 1932年7月20日 - 2006年1月29日)は大韓民国ソウル出身の現代美術家。アメリカ合衆国に帰化している。ビデオアートの創始者の一人。
| ナム・ジュン・パイク | |
|---|---|
| 各種表記 | |
| ハングル: | 백남준 |
| 漢字: | 白南準 |
| 発音: | ペク・ナムジュン |
| ローマ字: | Namjun Baek |

生涯
朝鮮戦争の戦火を避け日本に渡り、東京大学文学部美学科にて音楽史、美術史、そして哲学を学び卒業。山口昌男や宇波彰は同窓生。1956年にはドイツに渡りミュンヒェン大学にてカールハインツ・シュトックハウゼンやジョン・ケージと出会い、多大な影響を受け、共に前衛音楽活動を行なった。またこのころフルクサスに参加し、ジョージ・マチウナス、ヨゼフ・ボイス、オノ・ヨーコほか多くのアーティストとの交流を持つ。以後、映像を駆使した独自のスタイルでの芸術活動を開始する。
1963年、最初の個展「音楽の展覧会―エレクトロニック・テレビジョン」を開催した。映像を用いた表現の発表はここからスタートしている。
このころ、テレビ技術者であった阿部修也と東京で出会い、ともにテレビの受像機の映像を電磁石でゆがめる実験を行なった。これは後に、「ヴィデオ・シンセサイザー」(1970年)として結実した。これは放送局から送られてきた映像を映すだけのテレビ受像機内部の信号を乗っ取り、異質な色や光を自由に画面上に映し出す作品であった。また1963年には阿部とともに廃品を寄せ集めて、歩きながら空気袋を膨張させたり豆をぽろぽろ落としながら歩くロボットも開発した。(このリモコン式ロボット「K-456」は1982年、ニューヨークのホイットニー美術館での個展の際、パフォーマンス歩行中に自動車にはねられ、史上初のロボットの交通事故犠牲者となった。)
1964年にアメリカ・ニューヨークに移住。チェロ奏者のシャーロット・ムアマンと、演奏パフォーマンスに映像を組み合わせた作品を上演した。1965年、当時発売されたばかりのソニー製ポータブル・ビデオレコーダーを使った映像作品を発表し、これがビデオアートの史上初の作品となる。以後、複数のテレビ・モニターを自在に組み合わせたヴィデオ彫刻などを制作するほか、ヴィデオ・シンセサイザーを利用した実験映像の制作を開始した。ビデオ作品における短いカット割りの連続や早いカメラの動きなどは彼の特徴であった。
パイクはテレビ映像を自在に操ることによって、マーシャル・マクルーハンの提唱した「グローバル・ヴィレッジ」(地球村、メディアによって人間の時間や距離の感覚が縮小し出現する社会)を実践した。彼は音楽や美学の理論、東洋哲学(禅など)を含む幅広い思想に通暁していた。それらの思想と先端のメディアや映像の奔流を組み合わせた作品により、情報のあふれた先にある「無」の世界、物理的な時間・空間の障壁をメディアによる時間・空間感覚の縮減で乗り越えて達する自他の融解した世界を目指した。1977年のドクメンタではパフォーマンスを衛星生中継し、以後坂本龍一らと協力して世界を衛星中継で結んだコンサートなどを数多く開催した。特に1984年(ジョージ・オーウェルの小説「1984年」に因む「オーウェル・イヤー」)正月にパイクの企画によりニューヨークとパリを衛星中継で結んで制作された「グッド・モーニング、ミスター・オーウェル」は重要な作品である。
1980年代には古いTVモニターをさまざまな形に積み上げて映像を流すビデオ・インスタレーションを多く制作した。これらの映像自体は、ニュース映像やポール・ギャリンなど若手ビデオアーティストに制作を依頼した映像などで、自分で映像を作ることにはこだわらず、むしろメディアとしてのTVの意味をこれらの作品を通じて問いかけた。このような態度はフルクサスでの活動のときから一貫したものと言えよう。1988年にはソウルオリンピックに合わせテレビ受信機を尖塔のように積み上げた代表作『多いほどよい』を制作している。(現在は韓国・果川市の韓国国立現代美術館に展示されている。)
1995年に、韓国で初めて開催された現代美術の国際展「光州ビエンナーレ」に招かれ、シンシア・グッドマンと共同で「インフォアート」展を企画した。ビデオアート、サイバネティックアート、草創期のコンピュータアート、最先端のインタラクティブ作品を一挙に見せる充実した展示で、パイク自身の「マグネットTV」やTVモニターを積み重ねた大規模なインスタレーション作品も展示された。韓国初の本格的かつ国際的なメディアアート展の実現はパイクの持つ影響力によって可能になったもので、パイクは展示準備段階でのさまざまな技術的問題に対しても精力的に対処した。パイク自身もレーザーを用いた新機軸の作品を発表して意気軒高だったが、翌1996年に脳卒中で倒れ、半身不随になった。
しかし献身的な看護で多少回復したのちは、再び制作にとりかかり、ロウソクの炎とビデオインスタレーションを組み合わせた新作などを発表した。
脳卒中で倒れ車椅子生活を送りつつも制作を続けていたが、2006年1月29日午前6時ごろ、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミの自宅で死去した。遺族によると、ビデオ・アーティストの妻・久保田成子と看護師が見守るなかで静かに生涯を終えたという。
ビデオアート、メディアアートの先駆者として世界的に高く評価されているが、韓国内では世界的な芸術家でありながらも米国に帰化しているため、パイクに対して複雑な感情を抱く人が少なくないと言われる。しかしながら、2006年には京畿道に白南準美術館が着工される予定で、再評価への動きが高まっていたところだった。
文献
著書
- 1983年9月 『フィード・バック&フィード・フォース』ワタリウム美術館、ISBN 4906371302
- 1986年4月 『バイ・バイ・キップリング』リクルート出版部、ISBN 4889910557
- 1988年8月 『あさってライト ICARUS PHOENIX』PARCO出版局、ISBN 4891941677
インタビュー
- 2000年3月 『想像と創造の未来 マルチメディア社会と変容する文化』(NTTインターコミュニケーション・センター企画編)NTT出版、ISBN 4757100299
- 「二一世紀には『甘い宗教性』が重要になってくるのね」を収録
外部リンク
- 白南準美術館(韓国語・英語)
- 松岡正剛の千夜千冊: ナム・ジュン・パイク『バイ・バイ・キップリング』(日本語)