小野寺景綱
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小野寺 景綱(おのでら かげつな)は、戦国時代の武将。
時代 | 永禄年間 |
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氏族 | 下野小野寺氏 |
父母 | 父:小野寺長綱 |
子 | 八郎(正綱)、小六郎(重綱)、お藤、お鶴、お松 |
下野(川崎)小野寺氏13代目。現在の栃木県足利市川崎町に存在した小野寺城(川崎城)の城主。中務大輔・遠江守を称していた。
生涯
佐野昌綱と主従関係にあり、寺岡村(現在の足利市寺岡町)を知行していた。また、長尾景長の同心衆でもあり、永禄4年12月18日、長尾景長から下野国足利郡大窪(現:足利市大久保町)を所望し賜った。[1]当時から佐野と長尾(足利)の中立的な立場であることにあらぬ噂が立っていたのか、世間の噂は全くの誤りで、小野寺は佐野にも足利にも縁のある一族で、佐野と長尾の合戦には加担せず、平穏無事であることを願っていると小野寺文書に書き残されている。
豊臣秀吉によって後北条氏が滅ぼされると、改易され川崎村在住の浪人となった。家臣達は帰農した。
徳川政権の時代となった頃、事件が起こる。徳川家康によって川崎村に新たな領主が配属されたが、水害などを理由に家臣達は毎年年貢を遅延して納めていた。川崎村の代官はこの様子を見て、先代領主の小野寺氏を再興させるための企てに違いないと領主に報告し、領主は徳川家康に川崎村で一揆の兆候があると讒言。徳川家康は小笠原右近(小笠原貞慶か)に景綱を討ち取るよう命じた。
景綱はこの噂を聞きつけると、榊原式部・土井大炊頭に申し開きを行ったが、聞き入れてもらえなかった。そこで景綱は、同じ下野小野寺氏で従弟にあたる貞滝坊(小野寺慶範)を訪ね、私達の運命はこれまでだろう。6歳の娘であるお藤と、小野寺一族に伝わる文書や宝物一式を託したいと願い出た。貞滝坊(小野寺慶範)はこれを引き受け、梁田の領主小川甲斐守とお藤を婚姻させ、養子として小川甲斐守に家督を継がせた。
その後、江戸から小笠原右近が家来を大勢連れて川崎村を訪ねてきた。景綱の旧臣達100名近くは集って戦の準備を始めたが、ここで争っては罪が重くなると考え河内大和之助・丸山土佐之助を遣いとして送り、「幕府の治世の初めに領地を召し上げられたが、私の不注意であり、恨みに思った御座いません。土井・榊原両家に勘当を解いて欲しく願い出ましたが、願い届かず、今度は罪無くして死罪を申し付けられ、是非に及ばずです。父子共に速やかに自害を願い出たい。」と伝えたところ、小笠原右近は神妙な顔付きで「小野寺家は代々の名家である。もしかしたら上の思い違いもあるかもしれないので、ただちに自害する必要はない。」として、家来100人近くと景綱父子を舟に載せ、江戸へと向かった。そして小笠原右近は飛脚を送ったが、事態は変わらなかった。江戸からは即刻、切腹せよとの命が下り、古河の下大志田で舟を着け、切腹となった。
家臣(川崎城付)[2]
城代
- 河内大和之助
- 江田弾正
侍大将七騎用人
- 小林源太
- 河嶋原八
- 中井頼母
- 西城源七
- 尾崎源蔵
- 小堀壱岐
- 新藤帯刀
旗侍
- 蘇原又助
- 富田宇右門
- 横山兵庫
奥家老
- 丸山土佐之助
- 和泉玄番
勘定方
- 清水藤兵衛
- 関口宇右衛門
- 横山兵庫
小中物見番
- 多田兵部
- 秋山源三郎
小六郎殿後見人
- 河内弥八
- 藤木大七
小八郎殿後見人
- 蓮沼藤三郎
船奉行
- 神田新六
- 船田源蔵
目付
- 中山
- 和泉大八
足軽頭
- 仁木弥八
- 津久井惣右衛門
- 清水権七
代官
- 和泉
- 大行与右衛門
- 中山長兵衛
- 嶋田市郎右衛門
辞世の句
小野寺家に伝わる文書の中に、辞世の句と思わしき短冊が残されている。
「諸とともに あるかなきかの 身を詫びて ただ古へを しのぶばかりぞ」
脚注