江梨鈴木氏
江梨鈴木氏(えなしすずきし)は、日本の武家のひとつ。伊豆鈴木氏とも。本姓は穂積氏。家系は穂積姓鈴木氏の本宗家である藤白鈴木氏の支流の一族で、伊豆国に下向した鈴木繁伴を初代とする。足利氏満に招かれて伊豆・相模国の船大将を務め、後に後北条氏に属して伊豆の江梨五ヶ村を支配した[1]。通字は「繁」または「重」。
江梨鈴木氏 | |
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![]() (家紋) | |
本姓 | 穂積姓藤白鈴木氏支流 |
家祖 | 鈴木繁伴 |
種別 | 武家 |
出身地 | 伊豆国田方郡江梨村 |
主な根拠地 |
伊豆国 武蔵国 |
著名な人物 |
鈴木繁宗 鈴木繁定 |
支流、分家 | 小屋瀬鈴木家(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要
鎌倉時代から室町時代
元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府倒幕の旗を挙げたとき、藤白鈴木氏当主・鈴木重実の長男である鈴木繁伴(鈴木重伴)は、鎌倉幕府14代執権の北条高時の命により熊野に来た護良親王と戦ったが、鎌倉幕府は倒れて窮地に陥り、建武3年(1336年)、家臣ら30余名を率いて海路で伊豆国に下向し、大瀬崎から上陸して田方郡江梨村(現・静岡県沼津市西浦江梨)に立てこもった。その後、後醍醐天皇の建武の新政が崩壊すると、本拠の紀伊国藤白に戻った[2]。
しかし観応2年(1351年)、繁伴は足利尊氏と弟の足利直義が争った薩埵峠の戦いで直義派について敗れ、再び伊豆江梨村に逃れて以降[2]、この地に定住し江梨鈴木氏の初代となった。また、繁伴は江梨の大瀬神社で祭祀にいそしんだとされる。繁伴の郎党には渡邉氏、加藤氏、武氏、木島法印などがいた[2]。
繁伴はその後鎌倉公方の足利基氏に帰属し、関東管領の上杉憲顕から江梨村の領有権を認められた。貞治6年(1367年)には足利氏満に招かれて、伊豆・相模国の船大将を命じられ、東国における室町幕府水軍の総大将となった[2]。繁伴は後に足利氏満から鎌倉に呼ばれ、配下の木島氏と追儺の式を行った。また、鎌倉公方に招かれて伊豆江梨村に下ったのは繁伴の子・重行の代とも云われる。
江梨鈴木氏は後に江梨村のほか、久料、足保、古宇、立保を含めた江梨五ヶ村を支配するようになり、西伊豆随一の有力武門へと成長していった[1][2]。
菩提寺の航浦院は、鈴木繁允(兵庫頭)の三世とされる鈴木左京大夫繁郷の開基と伝えられ、院号は繁郷の法号「航浦院殿前左京兆江巌道海居士」にちなむという[1]。
戦国時代
鈴木繁伴が上陸し、最初に居館を築いた場所とされる。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
明応2年(1493年)、伊豆に北条早雲が侵攻してくると、当主の鈴木繁宗(兵庫助)は堀越公方から離れていち早く馳せ参じ、堀越公方足利茶々丸攻めに参加した(北条五代記)[3]。その後は後北条氏配下の伊豆水軍(北条水軍)を率いる武将のひとりとして、伊豆衆21家のひとつに数えられた。また、江梨鈴木家文書中の大道寺盛昌書状に「御入国前後の忠節」や「数ケ度之忠節後感状数通拝領」により「其郷(江梨)不入子細者、早雲寺殿様駿州石脇御座候時より申合」とあり、江梨鈴木氏が早雲による伊豆討ち入り前後の忠節により不入の特権を得ている[4]。また、このころ早雲が駿河国石脇城に在城していたことがこの書状から知られる[4]。
伊豆国賀茂郡稲取村にも江梨鈴木氏の一族とする鈴木氏がおり、稲取に移った鈴木兵庫助の次男・孫七郎繁時が後北条氏の水軍として仕え、その後は繁則ー元繁ー方繁と続いた。武蔵国比企郡奈良郷の鈴木氏も江梨鈴木氏の一族とされ、鈴木重允(重光)の子・重安(左京)が北条氏綱、氏康に仕えたという[3]。
明応7年(1498年)に発生した明応地震の際に江梨村にも大津波が押し寄せたとされ、『開基鈴木氏歴世法名録』[5]には、
明応七午年八月廿五日未刻江梨村津浪寄来而庶人海底沈没不知数此時家系及重代之財宝等悉失之
また、明暦3年(1657年)再編の『航浦院縁起』[6]には、
後光厳院御宇貞治之頃鎌倉公方足利氏満公被招請伊豆相模両国之船大将鈴木兵庫允繁伴四世次郎兵衛尉繁用父之航浦院殿前左京兆為菩提後花園院御宇文安年中造立ス以法名号航浦院本尊者後土御門院御宇明応七午年八月□五日至未刻津浪寄来如覆天地依之男女之庶人海底之滓成者不知数此代者繁用之嫡子兵庫允繁宗也女子壱人引汐門外之榎二本之間ニ打挟両眼出露命且助ス然ハ萬行山峯之薬師竭丹衷祈祷七日之間平癒任立願奉安置当寺山号萬行山ト云右者系図之趣□予平昔依所聞為後覚記之備当寺什物者也
重家ヨリ十四代 明暦三丁酉八月四日
鈴木三郎左右衛門尉穂積重義
とあり、大津波により多くの庶人が海底に沈み、江梨鈴木氏の系図と財宝が家屋とともに流出したと記録されている。また、この津波で鈴木繁宗の娘が両眼を患ったため、航浦院の薬師如来に回復を祈ったところ完全に治癒したとされる。
鈴木繁朝の三男・鈴木繁定は北条氏政から不審船の取り押さえ、他国船の改めなど駿河湾沿岸警備について頻々と司令を受けていたことが江梨鈴木家文書に残っており[7]、川越城宇佐曲輪に屋敷があったとされる。『小田原衆所領役帳』に「鈴木次郎三郎(繁定)」が江梨に100貫文の所領役高を有したとある[3]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉が後北条氏を攻めた小田原征伐で後北条氏に従って戦ったが、繁朝の次男・繁精が韮山城で戦死、繁朝の長男繁光の子・繁脩も小田原城で戦死するなどして勢力を失った[8]。繁脩の弟である鈴木繁氏は家臣らと陸奥国葛巻村高野城(現・岩手県葛巻町小屋瀬)に下り、小屋瀬鈴木家の祖となった[9]。
江梨鈴木氏の嫡流は江戸時代初期の鈴木繁義の代で絶えたとされ、沼津市西浦江梨の鈴木屋敷(鈴木氏館)には石垣が残っていた[3]。
系譜
- 太字は当主、実線は実子、点線は養子。
鈴木重実 | |||||||||||||||||||||||||||
[江梨鈴木氏] 繁伴1 | [藤白鈴木氏] 重恒 | ||||||||||||||||||||||||||
重行2 | |||||||||||||||||||||||||||
重家3 | |||||||||||||||||||||||||||
(三代略) | |||||||||||||||||||||||||||
繁允7 | |||||||||||||||||||||||||||
(一代略) | |||||||||||||||||||||||||||
繁郷9 | |||||||||||||||||||||||||||
繁用10 | |||||||||||||||||||||||||||
繁宗11 | |||||||||||||||||||||||||||
繁朝12 | |||||||||||||||||||||||||||
繁光 | 繁定13 | ||||||||||||||||||||||||||
繁脩 | [小屋瀬鈴木家] 繁氏 | 繁顕14 | |||||||||||||||||||||||||
繁輔15 | |||||||||||||||||||||||||||
[断絶] 繁義16 | |||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ a b c “翠園文庫「鈴木家代々法号」”. 昭和女子大学図書館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ a b c d e “翠園文庫「巡礼問答」”. 昭和女子大学図書館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ a b c d e 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店、1995年、558-559頁。
- ^ a b “江梨鈴木家文書「大道寺盛昌書状」”. 神奈川県立歴史博物館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ 辻真澄『沼津史談第5号「豆州江梨の鈴木氏について」』沼津史談会、1967年3月。
- ^ 辻真澄『沼津史談第5号「豆州江梨の鈴木氏について」』沼津史談会、1967年3月。
- ^ “江梨鈴木家文書”. 神奈川県立歴史博物館. 2025年8月7日閲覧。
- ^ a b 関為彌『沼津史談 第36号 –ルーツ探訪(そのニ)江梨鈴木繁朝の嫡子 大学繁脩の父は繁光か』沼津史談会、1986年。
- ^ 『葛巻町誌 一巻』葛巻町誌編纂委員会、1987年、282頁。
参考文献
- 静岡県姓氏家系大辞典編纂委員会『静岡県姓氏家系大辞典』角川書店,1995年,558-559貢。
- 葛巻町誌編纂委員会『葛巻町誌〈一巻〉』葛巻町,1987年,282貢。