令狐景
令狐 景(れいこ けい)は、3世紀の中国、三国時代の魏の官僚である。令狐が氏、景が名。252年から254年に清商令として曹芳に仕えていた。
解説
清商令は、儀式のための伝統的音楽を職務とする太楽令と別に、娯楽として演奏される音楽を掌った官職である。令狐景は、『三国志』裴松之注が引く『魏書』の説明に見える。
それによれば、魏の皇帝曹芳は、倡優(芸人・俳優)の郭懷と袁信を寵愛し、彼らに裸で公然と淫らな行為をさせて楽しんだ[1]。清商令の令狐景は、その相手をさせられた保林(下級の女官)の李華と劉勲を叱り、「おまえたちは上(皇帝)の左右にあり、各々官職もある。どうしてそんなことをするのか」と言った[1]。李華と劉勲は令狐景を悪く言い、それを聞いた曹芳は、弾(はじき)を飛ばし、令狐景の首や目を打った[1]。令狐景は「先帝と異なり、今の陛下は日々妃后と遊び戯れるのに節度がありません。裸で乱れる倡優を見物していると、皇太后に聞かせてはなりません。景は死にたくありませんが、陛下のために言うのです」と言った[1]。曹芳は「天子である我に自在にできないことがあるのか。太后が我が事に何をするというのか」と答えて、焼いた鉄を令狐景に当てさせ、身体をやけどだらけにした[1]。
曹芳は幼少のとき、子がないまま死んだ明帝(曹叡)の後を継いで即位し、明帝の皇后だった郭皇太后の後見を受けていた。令狐景が皇太后を引き合いに出したのはそのためである。
嘉平3年(251年)、曹芳が20歳のとき、甄皇后が亡くなった[2]。嘉平4年(252年)に新たに張皇后が立った[3]。曹芳は王夫人の立后を望んでいたが、皇太后の意向で皇后が決まったので、意のままにならない不満を令狐景に漏らした[1]。清商丞の龐熙も別のことで諫言してはじきで打たれた[1]。令狐景と龐熙は畏れてもう何も言わず、へつらうだけになった[1]。
嘉平6年(254年)、張皇后の父である外戚の張緝が、政治の実権を握る司馬師を除こうとして失敗した[4]。張皇后が退けられた後、王夫人が皇后になったが、曹芳はその年のうちに司馬師と皇太后によって廃位された[4]。そのとき、曹芳に皇帝の資格がない証拠として、上述の令狐景とのやりとりがあげられた。
令狐景につき、他に知られることはない。