Wikipedia:執筆コンテスト/第参回執筆コンテスト/エントリー項目 (分野A)/コメント

これはこのページの過去の版です。Yosemite (会話 | 投稿記録) による 2007年4月7日 (土) 13:13個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

質疑の雛型

* (質問)- ○○?--~~~~
** (回答)- ○○。--~~~~

コメントの雛型

* (コメント)- ○○。--~~~~

過誤払い

過誤払い - ノート - 過誤払い(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問)- 構成に関してです。項目の「原因」のところと「対応」のところに、「金融機関の対応」がそれぞれありますが、理由はなんでしょうか?--Yosemite 2007年4月2日 (月) 13:20 (UTC)[返信]
    • (回答)「原因」の中の「金融機関の対応」は、相次いだ免責の判例を背景として過誤払い防止の方策を積極的に取らなかったのが過誤払いの遠因であるというくくりです。一方で「対応」の中の「金融機関の対応」は、過誤払いが発生したの対応、事故発生時の当事者としての行為を記しています。--東 遥 2007年4月2日 (月) 15:54 (UTC)[返信]
  • (質問)- もう1つ構成に関してです。大項目で「対応」と「対策」という名前で分けた理由がありましたら教えてください(本文を読むと、なんとなく括り方は分かりますが、一応理由を教えてください)。--Yosemite 2007年4月2日 (月) 13:20 (UTC)[返信]
    • (回答)「対応」は、過誤払いが発生した後の対応、事故発生時の当事者の動きを記載しています。「対策」は、事故が発生しない様にする為の防止策を記載しています。--東 遥 2007年4月2日 (月) 15:54 (UTC)[返信]
 (コメント)御指摘戴き有難う御座います。項目名はもう少し詳細にするべきですね。後ほど適宜修正します、って、今直しちゃまずいのかな....--東 遥 2007年4月2日 (月) 15:54 (UTC)[返信]


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ビルマの戦い

ビルマの戦い - ノート - ビルマの戦い(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問1)- 東南アジア連合軍司令部創設の項で、「イギリスとアメリカの戦略には根本的な対立があった」とありますが、その後を読むとビルマ奪還では利害関係の一致と読み取れます。根本的な対立点はどの辺りだったのでしょうか?--Yosemite 2007年4月3日 (火) 15:09 (UTC)[返信]
    • (回答1)- イギリスがラングーン奪回からマレー・シンガポールの奪回を目標とし、南ビルマを指向していたのに対して、米中連合軍が中国への地上連絡路打通を目標とし、北ビルマを指向していたことを書きたかったのですが、それを「対立」と表現するのは言葉の選択が良くなかったかもしれません。「不一致」とすれば良いように思われます。後ほどまとめて修正いたします。--Cave cattum 2007年4月4日 (水) 16:10 (UTC)[返信]
  • (質問2)- 終戦(1945年)の項では、アメリカおよび中国の動きの記述は無いようです。特に記述すべき事項は無かったと解釈して良いでしょうか?--Yosemite 2007年4月3日 (火) 15:09 (UTC)[返信]
    • (回答2)- 米中連合軍の動きについては1945年1月のレド公路打通までを書きました。以降は、米中連合軍の一部が3月のラシオ奪回までビルマで作戦を行っているのですが、特筆すべき事項ではないと思いまして、「目的を達成した蒋介石は中国軍を順次帰国させた」という説明で済ませてしまいました。その後も、OSSがカチン族を組織して作ったDetachment 101というゲリラ部隊がビルマ国内で活動していたのですが、やはり戦局にはさしたる影響はなかったと判断しまして省略しました。--Cave cattum 2007年4月4日 (水) 16:10 (UTC)[返信]

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タザリア王国物語

タザリア王国物語 - ノート - タザリア王国物語(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

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音象徴

音象徴 - ノート - 音象徴(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問)- 「音象徴の主要な研究」内の、Newman氏~Slobin氏のカタカナ表記と研究の詳細が述べられていませんが何か意図はあるのでしょうか?--ARI 2007年4月2日 (月) 01:57 (UTC)[返信]

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占田・課田制

占田・課田制 - ノート - 占田・課田制(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問)- 研究の項で質問です。中国での研究に関しては、万国鼎の説が若干記述されています。それ以外は日本での研究を中心にまとめられていますが、中国と日本でも同じような議論と考えてよいのでしょうか。また日本と中国での研究の差のような特徴的なものはないのでしょうか?(中国史の研究がどういう形で行われているのか良く分かってないので、的外れかもしれませんが)--Yosemite 2007年4月3日 (火) 15:40 (UTC)[返信]
    • (回答)- コメントをありがとうございます。中国での研究に付いては資料が手に入れられず、また日本の研究者の論文の中でも断片的に取り上げられているだけで書くに書けない状態でした。その意味でこの項目はまだスタブです。誤解を防ぐために「研究」の節を「日本の研究」とした方が良いでしょうか。--らりた 2007年4月4日 (水) 09:40 (UTC)[返信]
      • (コメント)- 回答ありがとうございます。項目名を変えるまでには至らないと思います。ただ、「日本・中国の史学界に於いて(中略)研究の節で記述する。」とあるのを、「研究の節で日本での研究を中心に記述する。」などとした方が誤解が無くてよいかと思います。--Yosemite 2007年4月5日 (木) 14:23 (UTC)[返信]


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新グレート・ゲーム

質疑応答

新グレート・ゲーム - ノート - 新グレート・ゲーム(4/1 0:00以前の版)


  • 各項目における詳細はこちらを参照のこととして「タジキスタンの政治」「トルクメニスタンの政治」「カザフスタンの政治」という項目が出ていますが赤リンクです。これは「今後の発展に期待」と考えておいてよろしいのでしょうか?リンク元が著しく少ないので不安ではありますが・・・Elthy 2007年4月4日 (水) 12:25 (UTC)[返信]

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会所 (中世)

会所 (中世) - ノート - 会所 (中世)(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問)- 室町時代以前の建築物である平等院鳳凰堂など、あるいは、松本城のように安土桃山時代の建築物が現存するのに対して、現在、会所として、威光が残っているものは具体的に何が挙げられますか?--Tantal 2007年4月4日 (水) 12:03 (UTC)[返信]
    • (回答)- そこは、書きたいところです。大阪の杭全神社に、連歌会所があって、これが室町時代のものであるらしいです。が、この記事に主に書いた中世会所とどういうつながりのあるものなのか、がよくみえないので、記述してません。これの写真でもとってきてのせれば、見栄えもしてよかろう、とはおもうんですが……(Commonsにもいま、連歌会所の写真はないようです)。ちょっと考えて押込んでみます。中世の会所は近世前までにすたれてしまった、というのは確かですし、なかなか建物が残らないのでしょうか。--じゆにち 2007年4月4日 (水) 13:49 (UTC)[返信]
  • (質問)- 辞書を引いたら「族の邸で、歌会や月見など多くの人々が集まる建物」と成っていました。歌会は記述があるのですが、月見に関しては特徴的なことはあるのでしょうか?しょぼい質問ですいません。--LonelyPlanet 2007年4月4日 (水) 15:57 (UTC)[返信]
    • (回答)たしかに、そうかいてありますが、わかりません。そこにかいてあるように、会所は客をもてなすためのものですので、色々な催し物がひらかれるわけですが、月見について、なにか特にかくべきこと、言及しているものは、であっていません。だから、いまかく用意はできていませんが、みつけたら、かいてみます。大辞林がなにをみてかいたのか、知りたい。--じゆにち 2007年4月6日 (金) 03:02 (UTC)[返信]

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ラインの黄金

ラインの黄金 - ノート - ラインの黄金(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問1)- 最初に告白しておきますと、音楽に関しては全くといって良いほど、知識がありません。で質問というよりお願いに近いです(^^;。ライトモティーフに関してです。リンク先の記事も読んだのですが、殆ど理解できませんでした。分かり易く教えてください。可能なら、記事の方を充実させてもらうと良いと思います。?--Yosemite 2007年4月5日 (木) 14:55 (UTC)[返信]
    • (回答1)身近な例?かどうかわかりませんが、たとえば「ドラクエ」などのゲームをしていると、城や街に入ったとき、戦闘場面、クエスト達成時などで固有の音楽が流れます。プレーヤーは、これらの音楽を聴くことで、ゲームの主人公の状況と結びつけて把握することができます。これらを「城のテーマ」、「戦闘のテーマ」などと名付けると、ライトモティーフのもっとも単純な形になると思います。ワーグナーの場合、これが通り一遍の形でなく、意外なところで現れたり、動機(音楽)と対象物が1対1で対応していなかったり、調や強弱、音色(楽器)など表情が変えられたり、別な和音を充てられたり、動機が組み合わされたりと、さまざまに扱われて、劇中の心理描写の説明や暗示・象徴的な働きをします。同時に、これらは変奏・展開といった音楽の技法上の働きと結びついており、オペラ全体は、これらの統合体として形成されています。ただ、ワーグナー自身はライトモティーフについてなんの説明もしていないので、これはあくまでも解釈上の話ということもできます。私はワーグナーや音楽学を専門にしているわけではないので、この理解は不十分かもしれません。いずれにしても、言葉だけで説明するのはなかなか難しいですね。--みっち 2007年4月6日 (金) 03:22 (UTC)[返信]
  • (質問2)- もう1つライトモティーフに関してです。「ラインの黄金」のものは、リヒャルト・ワーグナーの他の作品のライトモティーフと比べて異なる点はあるのでしょうか?--Yosemite 2007年4月5日 (木) 14:55 (UTC)[返信]
    • (回答2)「他の作品」というのが、『指環』四部作中の他の作品なのか、『トリスタンとイゾルデ』のような全く別の作品なのかによって、異なる点は変わってきます。前者については、『ラインの黄金』は最初の作品なので、本文でも触れたとおり、確認できるライトモティーフの数は四部作中でももっとも多く、ここで出てきたライトモティーフは、『ヴァルキューレ』以降の三作に頻繁に登場します。四部作以外の作品では、モティーフとして直接の関連はありません。例外的に、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第3幕に『トリスタンとイゾルデ』のライトモティーフが登場することが知られていますが、これは『ラインの黄金』とは関係のない話です。なお、「異なる点」という意味がよくわからなかったので、お答えがずれているかもしれませんが、扱い方という意味では、『指環』四部作のライトモティーフの扱いは、動機の数や規模、技法の徹底において、ワーグナーの全作品中でも群を抜いていると思います。ただ、この辺りのことは、四部作全体で語るべき内容であり、『ラインの黄金』一作として語るべき内容とは吟味して分けたつもりです。--みっち 2007年4月6日 (金) 03:22 (UTC)[返信]
      • (コメント)- 丁寧なご回答・解説ありがとうございました。すっきりしました。「異なる点」という部分は、元々ライトモティーフというのが理解できていなかったんで、色々な技法があったのかなとかん違いしていました。つまり、『ラインの黄金』ではライトモティーフが徹底して用いられているということですね。--Yosemite 2007年4月6日 (金) 13:18 (UTC)[返信]

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フレンキシェ・シュヴァイツ

フレンキシェ・シュヴァイツ - ノート - フレンキシェ・シュヴァイツ(4/1 0:00以前の版)

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国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案

国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案 - ノート - 国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案(4/1 0:00以前の版)

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シェイクスピア別人説

シェイクスピア別人説 - ノート - シェイクスピア別人説(4/1 0:00以前の版)

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ダルース (ミネソタ州)

ダルース (ミネソタ州) - ノート - ダルース (ミネソタ州)(4/1 0:00以前の版)

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  • (質問)- 参考文献や出典がないようですが外部リンクがその代わりと見て差し支えないでしょうか?--Mamekiti48 2007年4月4日 (水) 10:22 (UTC)[返信]
    • (回答)まさにその通りです。英語版en:Duluth, Minnesotaと見比べて頂ければ、日本語版の執筆にあたって付け加えたリンクも相当数あることに気が付かれるかと思います。refタグは編集画面で可読性を損ねてあまり好きでないので、敢えて使用しておりません。あとは、英語版でのリンク先の関連記事を読み込んで、必要なものについては関連記事の翻訳ではなく、私自身の日本語で表現したものを説明として付け加えています(その説明まで翻訳で済ませてしまうとすべての記事の履歴継承が要約欄のスペース上不可能であり、GFDL違反を問われかねないため)。Yassie 2007年4月4日 (水) 13:05 (UTC)[返信]
  • (質問2)- 構成に関してです。項目が「歴史」->「地理」という形式(英語版も同様ですが)になっていますが、何か意図はありますか?。フレンキシェ・シュヴァイツ、泡瀬干潟のように「地理」があって「歴史」と流れた方が自然な気もします(個人の嗜好かもしれません)。--Yosemite 2007年4月5日 (木) 14:28 (UTC)[返信]
    • (回答)「歴史」->「地理」という流れに関してですが、ダルースに限らず、今まで私が手がけてきたアメリカ合衆国の都市の記事はすべてそのような構成になっています。理由としては、「地理」は現在の都市の姿を描写したものであり、そこに至るまでの過程として「歴史」があると私は考えるからです。従って私にとっては、冒頭文で全体の概要を述べた後、その都市の最過去にさかのぼって「歴史」を順繰りに述べ、現在の姿である「地理」を説明するという流れのほうが自然であると思えています。なお、英語版でなぜHistory->Geographyとなっているかについては、私には判りません。Yassie 2007年4月5日 (木) 14:49 (UTC)[返信]


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ウイングス (テレビ番組)

ウイングス (テレビ番組) - ノート - ダルース (ミネソタ州)(4/1 0:00以前の版)

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  • (質問)- 要出典を必要としている記事ですが、具体的に、出典明示できませんでしょうか?また、概要のところに、高視聴率を継続して記録したと記述がありますが、他のシチュエーション・コメディと比較してどれくらいの数字を出していたのでしょうか?--Tantal 2007年4月7日 (土) 02:24 (UTC)[返信]


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雪形

雪形 - ノート - 雪形(4/1 0:00以前の版)

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チンドン屋

チンドン屋 - ノート - チンドン屋(4/1 0:00以前の版)

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  • (コメント)- 「参考資料」が多いように思われます。作者・著者が同一人物の資料が多いので、「~など」としたほうが良いかもしれません。--かずお 2007年4月3日 (火) 10:30 (UTC)[返信]
    • (おこたえ)-コメントありがとうございます。コメントとしていただきましたが、いくらか説明させていただこうと思います。個々に挙げた参考資料はほぼすべて本文記述と直接関係があるもので、削除することは先行する研究への敬意や本文の検証可能性などから困難であると考えます。また、こうした参考となる資料がまとめて記載されている資料は、他にないこともあって、このリストには、それなりの有用性もあるといいなと思っている部分もあります。学術的な研究として確立していない分野では、総論・概論としてまとまったものも少なく、断片的な記述を頼りに書かざるを得ない場合もありますから、随筆風に書くのでなければ、参考資料はどうしても増えてしまいます。これでもかなり絞ってあり、これが論文であれば当然参照すべきなところをさぼった資料があと10本ほど(古い週刊誌や女性誌の記事です)、「参照」した資料だと(たとえば、エッセイ的なものとして医学の分野の記事もありますが、トリビアではない形でこれを取り入れるには、いくらかの独自研究が必要かと考えました。また、用法について確認する際には、ある文献に「使われていない」ことを確認することも多々あります)、この数倍になります。--Ks aka 98 2007年4月3日 (火) 12:40 (UTC)[返信]
  •  (コメント)- この項目に興味を示した方のために、外部リンクを追加したほうがいいと思います。--松本ゆきお(仮) 2007年4月4日 (水) 8:33 (UTC)
    • (おこたえ)- 一つの営業形態の記事であり、組合なども存在しないこと、特定のチンドン屋さんのホームページをリンクすることは、宣伝に繋がり好ましくないこと、などから、適切なリンク先が極めて少ないという事情があります。ひとまず、本文で触れている二つのイベントを加えておきました。--Ks aka 98 2007年4月4日 (水) 02:50 (UTC)[返信]
  • (コメント)- 非常に詳細で読み応えがありました。サブカルチャーに近い位置付けにある題材ですので、典拠に基づいて書くのが難しかっただろうと思いますが、出典を最大限に利用して、信頼性が十分確保された記事になっている点を高く評価します。その上でいくつかコメントを。
    • 権利的に難しいとは思いますが、ぜひ音源が欲しい項目だと思いました。打ち出し〜竹に雀とか、美しき天然とか。さわりだけでもあると嬉しいですね。外部リンクでもいいので。
    • これも出典の関係から難しいとは思いますが、「職業」という観点からの記述をもう少し増やしてまとめられるのではないかと思いました。うまく意図を説明できてるか判りませんが、基本的に、現在の内容は「文化風俗」という切り口でまとめられていると思います。ただ、一方でチンドン屋は、日本標準産業分類で「広告業」の例として記載された職業でもあります。「広告としての位置付け」のところを足がかりに、「広告業」としてどういうものなのか……どの程度の宣伝効果(費用対効果)があると考えられているものなのか、どの程度の数が事業者登録(後のコメントも参照)されているかなど、また、英語版にはチンドン屋の収入に関する記載がありますが(出典が示されてはいませんが)、こういった内容も書かれているとよいのではないかと思いました。もちろん典拠になる資料があるかどうか厳しいところだと思いますが。
    以下はマイナーなポイントです。
    • 上にも関連しますが、チンドン屋の事業形態、つまり親方制度を取っていることや、楽士(出方を含む)を雇用しているという、事業者として見たときの、チンドン屋の内部構成が判りやすいように先に総括した文を置く方がいいと思いました。現在の記事からも理解はできますが、情報が分散して後から読み返すことになりますので。
    • チンドン屋の人数の歴史的推移についてですが、これは具体的にはどういう「人数」にあたるのでしょう? 出方の楽士など含めた人の総数のようにも思えますが……それと、高田宣伝社などチンドン専業としている広告業者数についてはどうでしょうか。
    • 日本だけでなく海外への波及事例はないでしょうか? もしあれば是非入れておいて欲しい内容だと思いました。
以上です。すでに完成度が高い記事だと思いますので、このコメントが蛇足にならないことを祈ってます。--Y tambe 2007年4月6日 (金) 08:56 (UTC)[返信]


オーストラリアの歴史

オーストラリアの歴史 - ノート - オーストラリアの歴史(4/1 0:00以前の版)

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  • (質問)- 実は、Wikipedia:日本語版への投稿が望まれている記事/歴史で、オーストラリアの歴史を追加したのは私です。英語版がほとんどの国の各国氏を用意しているのに対して、日本語版は、主要国を除くとボツワナの歴史のような大作もありますが、意外と少ないのが実情なので、日本語版でどのように料理されるのか楽しみにしてました。さて、質問ですが、年表のところには付記されていますが、白豪主義からヴェトナムやレバノン難民を受け入れることによって、マルチ・カルチュラリズムへと政策を方向転換し、ワン・ネーションのような反動がオーストラリア現代史では重要なトピックであると思うのですが、マルチ・カルチュラリズムとワン・ネーションの言及は意図的に記事内に織り込まなかったのでしょうか?--Tantal 2007年4月3日 (火) 12:18 (UTC)[返信]
    • (回答)- 隅々までお読み戴いたようで、ありがとうございます。お尋ねの件ですが、きっとツッコミが入るであろうとは思っておりました。半分は意図的、半分はやむを得ずです。
概説は、「何を書くか」よりも「何を削るか」に神経を使います。冗長な文章は読まれる機会を減らしますので(当初は、今の半分程度の文章量に留めようかとも考えておりました)。今回概説書ばかりを参考文献としたのも、「削り方」を知ろうと思ったからというのが理由の1つにあります。
そこでマルチ・カルチュラリズム(多文化主義)とワン・ネーション党ですが、1997年4月に結党したワン・ネーション党は、同年6月のクィーンズランド州議会選挙でこそ11議席を獲得しましたが、10月の連邦下院選で党首ポーリン・ハンソン自身が落選、唯一の議席を失うという大失態を演じました。ゆえにワン・ネーション党は大きな時代のうねりを構成するには至っていないと判断し、本文では割愛しました。
マルチ・カルチュラリズムに関しては、戦後オーストラリア史を政権ごとに章立てして記述したため(これは主な参考文献の記述スタイルに倣った結果です)、大項目ごとの記述がしづらくなったという事情があります。私が当初設定していた大項目は、
・冷戦初期(メンジーズ時代。半日から反共へ、対米依存強化)
・ミドル・パワー外交及び多文化主義の発展(ウィットラム時代からキーティング時代。難民受け入れ活発化)
・保守回帰の動き(ハワード時代。アフガニスタンからのボート・ピープルへの強硬政策など)
…だったのですが、これはこれで気になるところ(バッサリ捨てる事象がさらに増えそう、そもそもこの章立ては適切か否か)があって、やめてしまいました。
政権が交代すれば政策も変わります。労働党と保守系政党の間で政策が行ったり来たりする、しかも労働党政権でもウィットラム政権期のように特異な時代もある中で、一本筋の通った主題が見出せるか、多文化主義がそれに当たるのかという部分が私には見極めが付きませんでした。多文化主義のみを扱った記事であればいくらかうまく書けるかもしれませんが(日本でも、関根政実『マルチカルチュラル・オーストラリア』などの本がありますし)、経済、軍事、外交などを包摂した「オーストラリア史」を記述するには、多文化主義だけではこぼれる部分が多く出ます。
ゆえに、政権ごとの記述の方がしっくりくると考え、今のような形に収まりました。多文化主義に関する記述をアジア・太平洋国家化の記述で代替させようと考えたことも影響し、多文化主義に関する具体的記述を欠いた次第です(早い話が力量不足)。大項目としてでなくとも、今の記述の中に少しは盛り込もうと思いますが。Tantalさんにとってはがっかりするような理由でありましょうが、いきさつはこのような感じです。悪文で失礼します。--Lombroso 2007年4月7日 (土) 03:26 (UTC)[返信]

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泡瀬干潟

泡瀬干潟 - ノート - 泡瀬干潟(4/1 0:00以前の版)

質疑応答

  • (質問)- 生物相のところにある生物の種の数の出典は、参考資料に挙げられている資料の中からと考えてよいでしょうか?(私の考えとしては、特に数値データの出典は「○○」の何ページと、脚注に記した方が良いと思います。)--Yosemite 2007年4月3日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
    • (回答)- 出典は参考資料の中からです。参考資料はそれぞれ、全般的に利用しておりますので、脚注にどこまで書くべきか迷いましたが、種数などはっきり出ているものについてはご指摘のように標記したほうがよさそうでうね。修正します。--Tdk 2007年4月4日 (水) 14:34 (UTC)[返信]


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ブルネイの歴史

ブルネイの歴史 - ノート - ブルネイの歴史(4/1 0:00以前の版)

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  • (質問)- 一時期、日本語版に望まれる記事/歴史で各国史の整備をしていたことがあったので、4言語版にしかないブルネイの歴史がフィリピンの歴史インドネシアの歴史マレーシアの歴史よりも充実した形で、登場したことに驚嘆の意を隠せません。いずれ、言及されることかと思いますが質問です。大航海時代以前の中国-ブルネイの朝貢貿易とインドの中継貿易、大航海時代のスペイン、ポルトガル、オランダ、19世紀のイギリスとブルネイとの関係は文中を読めばよく理解できるのですが、さて、ヒンドゥー化したブルネイ社会がイツイスラーム化したのかについての言及がほとんどありませんが、大体、いつのころなんでしょうか?--Tantal 2007年4月7日 (土) 01:18 (UTC)[返信]
    • (回答)- 残念ながらブルネイの歴史は私の能力を超えたテーマだったようです。それはともかく、Saunders (p.38) には、some time between January 1514 and December 1515, the King or Maharaja of Brunei embraced Islam and became the first sultan と記されています。
    • 本文ではまったく触れておりませんが、マラッカなきあと、東南アジア島嶼部東部の島々には急速にイスラム教が普及したようです。早瀬によると「(マギンダナオの)イスラーム化の時期は、ブルネイやスールーと同じ1515年ころと考えていいだろう」(p.25) とあります。マギンダナオとは現在フィリピン南部のミンダナオ島を支配していた王国です。さらにMajulの著書を引いて「ムラユ世界で広まっているアラブ7兄弟伝説によると、ブルネイ、…、マギンダナオなどに最初にイスラームをもたらしたイスラーム教徒は、皆「兄弟」である」(p.44) とも書いています。Majul, Cesar A., "The Muslims in the Philippines: An Historical. Perspective, " in Peter G. Gowing and Robert D. McAmis, eds., The Muslim Filipinos: Their History, Society and Contemporary Problems. Manila: Solidaridad Publishing House, 1974, pp.1-12
    • ポルトガル人の記録としては、参考文献にはまだ挙げておりませんが、コロンブスほか『航海の記録』、林屋永吉ほか訳、岩波書店、1978年、に収録されている「マガリャンイス最初の世界一周航海」があります。「この国の王はモロで、名前はシリパダという」(p.591) 、「これらのモロはマホメットを信仰し、その教義に従っている」(p.595)。蛇足ですが、マガリャンイスとは1521年に亡くなったマゼランのことです。
    • 以上が定説です。多くの参考文献には1514年から1515年ごろとあります。ただ、この時期以前にもイスラム教徒はブルネイに存在していたようです。
    • 早瀬はMajulの別の著書を引いて、1514年から1515年にかけての急速なイスラム化の前に、第一波とも言えるイスラム化について記しています。「1460年ごろマギンダナオにやってきたアウリヤは」、「アウリヤが聖者を表す名であることから、巡回伝道師であったと考えられている」。Majul, Cesar A., Muslims in the Philippines. Quezon City: Asian Center, The University of the Philippines Press, 1973
    • Al-Sufriは、「推定1368年、Sultan Muhammad Shah(初代)の時代、イスラム教を公式に受け入れ」、第2代ブルネイ国王Sultan Ahmad、Awang Alak Betatar(1408年-1425年)の時代に「ブルネイ王室がイスラム教徒となり」(p.46) と記しています。首都バンダルスリブガワンのイスラム教徒墓地にある、没年が1422年と書かれた墓碑についても触れています (p.48)。全般にAl-Sufriの記述はイスラム教伝来、普及の時期をかなり初期においていますが、pp.84-87では、「11.イスラム教のブルネイ伝来の定説」として西欧の歴史家をはじめ、さまざまな説を紹介しています。Hareno 2007年4月7日 (土) 07:36 (UTC)[返信]

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