ヨーゼフ・マティアス・ハウアー
ヨーゼフ・マティアス・ハウアー (Josef Matthias Hauer, 男性, 1883年3月19日 - 1959年9月22日) は、オーストリアの作曲家、音楽理論家。シェーンベルクよりも早く、独自に12音技法を発展させていたことで知られる。
ウィーナー・ノイシュタット生まれ、ウィーンに没する。早くからチター、チェロ、合唱の指揮、オルガンなどの音楽教育を受けていたが、理論や作曲は独学であった。1918年にゲーテの色彩論に基づいた色聴についての音楽理論書を出版。1919年8月に12音による作曲技法を発明する。彼の作曲技法は、作品を追う毎に変化しており、1音1音を積木を積むように構築された作品もあれば、12音の並びから和声の連結を生成する手法を用いたもの、易学に基づくもの、図形楽譜まであり、非常に多彩である。中でも、いわゆる「44のトロープの理論」は彼の12音技法を語る上で欠かせない。なお、1919年作曲のピアノ曲「ノモス」は、世界最初の12音音楽と見なされている。
シェーンベルクとは1918年頃に交流を持ち、「ノモス」を含むいくつかのハウアー作品をシェーンベルクが私的演奏協会で紹介したり、2人で共著を執筆する計画を立てたり、12音技法のための学校を共同で開設する構想について議論した時期もあったが、やがてハウアーは、音楽家は芸術的な表現を志向するのではなく、12音のそれぞれが持つ霊的な真実を代弁することにのみ尽力すべきだという「新しい音楽」を主張してシェーンベルクとはげしく対立し、袂を分つに至った。ハウアーは自身を「12音の代弁者」と見なし、作曲家と呼ばれることさえ拒否した。
シェーンベルクが12音技法に基づく楽曲を発表し始めると、ハウアーは自分が12音技法の創始者であることを主張し、シェーンベルクを厳しく批判した。シェーンベルクやアドルノもハウアーをこき下ろした。しかし一方でシェーンベルクは、自身の12音技法がトロープ理論から一部影響を受けたことを認めている。
1920年代はハウアーの絶頂期であり、トロープ理論に基く楽曲が数多く発表された。1927年、「組曲第7番」(VII. Suite)がヘルマン・シェルヘンによりフランクフルトで初演され、フローベールの原作によるオペラ「サランボー」が1930年にオットー・クレンペラーによりクロル歌劇場で初演されるにおよび、彼の理論と作品はようやく識者の関心を得るようになった。1927年にはウィーン芸術家賞を与えられ、1930年からは州の助成金が支給された。1932年には、ゴットヘルフの原作による大作オペラ「黒い蜘蛛」を完成させた。
しかし、ナチスの擡頭により彼の作品は頽廃芸術の烙印を押され、公的な活動の場を奪われてしまった。彼はナチ時代を通じてオーストリアに留まり、作品も公表せず、やがてその存在はほとんど忘れ去られた。
第二次世界大戦後は、ウィーン・コンツェルトハウス協会の名誉会員に迎えられ、1954年には教授の称号を与えられた。戦後公表した作品は寥々たるものだが、1939年から1959年の死に至る20年間、ハウアーは自ら「12音の戯れ」(Zwölftonspiele)と呼ぶ作品のみを書き続け、原稿のまま発表されることなく終わったその数は1000曲に及ぶと言われる。
ハウアー畢生の大作であるオペラ「黒い蜘蛛」は、彼の死後1966年になってようやくミヒャエル・ギーレンによりウィーンで初演された(大橋国一がケラーマイスター役で出演している)。その実況録音はディスクとしても遺されている(Amadeo 431 079-2)。
主な作品
- オペラ「黒い蜘蛛」(Die Schwarze Spinne)
- オペラ「サランボー」(Salambo)
- 声楽曲「ヘルダーリン歌曲集(作品21ほか全6集)」(Hölderlin Lieder)
- ピアノ曲「ノモス(作品19)」(Nomos)
- 管弦楽曲「黙示録幻想曲(作品5)」(Apokalyptische Phantasie)
- 管弦楽曲「ロマンティック幻想曲(作品37)」(Romantische Phantasie)
- 管弦楽曲「組曲第7番(作品48)」(VII. Suite)
- 協奏曲「ヴァイオリン協奏曲(作品54)」(Violinkonzert)
- 「12音の戯れ」(Zwölftonspiele)―管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ独奏曲など多数