逗子開成中学校・高等学校

神奈川県逗子市にある私立中高一貫男子校

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逗子開成中学校・高等学校
国公私立の別 私立学校
設置者 学校法人逗子開成学園
設立年月日 1903年(第二開成中学校)
共学・別学 男子校
課程 全日制
所在地 〒249-8510
神奈川県逗子市新宿2丁目5番1号
電話番号 046-871-2062 
FAX番号 046-873-8459

逗子開成(ずしかいせい)は神奈川県逗子市にある私立学校。正式名称は逗子開成中学校(-ちゅうがっこう)、逗子開成高等学校(-こうとうがっこう)。神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校である。学校法人逗子開成学園によって運営され、2006年現在、理事長は小泉一郎(小泉純一郎の親戚、2005年12月就任)、校長は横山春夫(2004年4月就任)。

戦前の歌謡曲『真白き富士の嶺』で知られる1910年のボート遭難事故や、1980年の八方尾根雪山遭難事故で知られる。

歴史

創設

1903年、東京・西日暮里にある開成中学校分校第二開成中学校として設立された。本校の学生のうち、学業についていけない学生や、体が弱く自然環境が豊かな地域での療養が必要だとされた学生は、第二開成中学校に一時的に転校させられたケースも多かった(橋本龍太郎の父・橋本龍伍なども小児麻痺で病弱だったため、本校に通いながら、体の調子が悪くなると分校に通うという生活を続けていた)。1909年、独立組織となり逗子開成中学校に改名する。

ボート遭難事故

改名翌年の1910年1月23日、休日に無断で学校所有のボート(海軍の払い下げ品)を海に出した生徒ら12人が七里ヶ浜沖で遭難し、全員死亡する事故が発生した(定員オーバーが事故の原因だったといわれている)。この事故の補償のため、当時経営母体が同一であった鎌倉女学院が所有地を売却するなどしている。

戦前・戦中期

太平洋戦争前は退役した帝国海軍将官が校長を歴任したため、学年を「中隊」・学級を「小隊」と改称したり、「振武隊」と称する楽隊(現在の吹奏楽部)(谷啓はこの隊でトレードマークのトロンボーンと出会う)を作って軍艦行進曲を演奏させるなど、校風はきわめて軍隊調となっていった。これらの海軍寄りの校風から卒業後の進路として海軍兵学校を志す者も多く、敗戦を迎えるまでの逗子開成は、同じ神奈川の湘南横須賀、東京の攻玉社海城、広島の修道などと並んで、半ば海軍兵学校の予備校的存在となっていた。

戦後

戦後は帝国海軍の消滅に伴ってエリート養成校としての地位を失い、組合員の不当解雇を巡って訴訟に発展するなど経営側と教職員組合との間で労働争議が頻発、これに嫌気がさした生徒会が同盟休校を宣言するなど校内の風紀が荒廃してゆく。1973年には志願者減少により中等部の募集が停止され、高等部の生徒にも吉野敬介に代表されるような悪童が徐々に増えて、大学進学とは縁の薄い「高卒資格の取得を目指す学校」に没落していった。 「東京の開成は、まだ本校を見捨ててはいない」と、自嘲する教員が多かった。

八方尾根遭難事故

1980年の12月、冬休みを利用して顧問教師の引率のもと長野県の八方尾根に登山に向かった山岳部の生徒5名が消息を絶つ事故が発生。雪が解けた翌年の5月に、生徒と引率の教師の6名全員が遺体で発見された。この登山はメンバーこそ学校の山岳部員と顧問教師であったが、顧問教師が学校側に部活動として登山旅行する事を届け出ていなかったため、学校側は管理責任を否定し遺族からの賠償要求を拒絶した。この学校側の対応に憤慨した遺族は学校を相手取って民事訴訟を起こし、泥沼の法廷闘争に発展した。

八方尾根裁判を巡って、経営陣や教職員も含め校内の意見は二分し、1980年代初頭には学校運営が大きく傾きかけた。しかし、卒業生でもある徳間書店社長・徳間康快が、事態収拾と母校再建のため経営に参入。徳間書店の財力を背景に理事会での主導権を握った徳間は、八方尾根問題の早期解決を主張した。これにより理事会は裁判所の和解勧告受け入れを決定し、学校側の管理責任を認め遺族と和解した。

近年

その後、旧経営陣を一掃し自ら理事長兼校長となった徳間の下で、中等部再設置を軸に種々の改革が行われる。1985年の募集再開から、徐々に6ヵ年コース生徒の割合を増やして中高一貫教育によるエリート化が図られ、ついに2003年からは3ヵ年コースの募集が廃止された。これにより、戦前から1980年代末まで「蛮カラ」路線で名を馳せた逗子開成は、近年では横浜南部から湘南三浦半島にかけた地区において、鎌倉学園湘南学園と並ぶ大学進学校へ成長を遂げた。徳間はこの他にも、後述のような立地を活かした「海洋教育」や、名作映画による情操育成を目的とする「映像教育」(徳間自身が映画制作を手がけていたことが大きな要因)などを推進し、2000年に没するまで理事長職に留まり母校の再興に尽力した。

逗子市に邸宅を構え徳間とも親交のあった石原慎太郎東京都知事は、都立高校改革のモデルとして当校を挙げている。

2003年に創立百周年を迎えるのに際して、1990年代末から大規模な校内の改装工事が行われ、校舎改造・新プール建設・全館冷暖房設置・敷地周囲の塀撤去など、施設の充実が図られた。

年表

  • 1903年 (明治36) 
    • 4月 私立東京開成中学校の分校として、第二開成学校を開校
    • 9月 現在地に移転 
  • 1904年 (明治37) 
    • 5月 中学校として正式認可を受ける 
  • 1907年 (明治40) 
    • 3月 第一回卒業式
    • 7月 東京開成中学校から独立、私立逗子開成中学校と改称 
  • 1910年 (明治43) 
    • 1月 七里ヶ浜沖でボート遭難事故  
    • 2月 追悼法会で鎌倉女学校生徒により「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の嶺)」が歌われる
  • 1916年 (大正 5)
    • 10月 校歌制定 (作詞:井上司朗 作曲:弘田龍太郎)
  • 1928年 (昭和 3) 
    • 4月 校章のペン・剣の交叉の上の「二」を「桜花」にを改める
  • 1931年 (昭和 6)
    • 12月 学校を財団法人化
  • 1932年 (昭和 7) 
    • 5月 創立30周年記念式典
  • 1947年 (昭和22) 
    • 4月 財団法人逗子開成学園と改称し、新制逗子開成中学校設置
  • 1948年 (昭和23) 
    • 4月 新制逗子開成高等学校設置
  • 1951年 (昭和26) 
    • 3月 財団法人から学校法人へと改組
  • 1953年 (昭和28) 
    • 2月 定時制高等学校を新設(1967年廃止)
    • 10月 創立50周年記念式典
  • 1963年 (昭和38)
    • 11月 創立60周年記念式典
  • 1973年 (昭和48) 
    • 1月 中学校生徒の募集中止決定
    • 11月 創立70周年記念式典
  • 1980年 (昭和55)
    • 12月 山岳部部員5名と顧問教諭1名、北アルプス八方尾根で遭難
  • 1981年 (昭和56) 
    • 5月 26日までに6名の全遺体収容される
  • 1984年 (昭和59) 
    • 4月 八方尾根遭難者の合同慰霊祭
  • 1986年 (昭和61) 
    • 4月 中学校再開 中学・高校の校章を「ペンと剣と桜花」に統一
  • 1989年 (平成元) 
    • 4月 三学期制を二学期制に変更
  • 1993年 (平成 5) 
    • 4月 創立90周年記念式典
  • 1997年 (平成 9)
    • 10月 創立95周年記念式典
  • 1998年 (平成10) 
    • 4月 週5日制実施
  • 2003年 (平成15) 
    • 3月 高等学校入学者募集停止
    • 4月 創立100周年記念式
    • 8月 第1回アメリカ合衆国長期留学開始
  • 2006年 (平成18)
    • 古くなった校舎3棟(理科棟・芸術棟・K++棟)を改修。K++棟の名が無くなり、新しくメディア棟の名ができた。

特徴

大学進学を第一目標に掲げ、早慶上智などの難関私大や、国公立大学の合格率は年々増え続けている。また、部活動で特徴的なものとしては、海に隣接した環境を生かしたヨット部や、2008年で創部80周年を迎える吹奏楽部などがあるが、部活動で積極的に校名宣伝をするような方針は持っておらず、スポーツ推薦入学のような制度は存在しない。

正規授業の枠内では海に近接した立地を生かしておよそ1.5km の遠泳(中学3年次に原則全員参加の大会が催される)やヨット実習(中学校のみ)などを行う「海洋教育」、校内に設けられた本格的な映写施設(徳間記念ホール)を用いて世界の映画を年数回鑑賞する「映像教育」などの特徴的な教育活動を行っている。

また、中学3年次にニュージーランド、高校2年次にはアジア各国(生徒が選択する)への研修旅行が実施される(いずれもホームステイ形式)。国際交流が主な目的となっているが、現地観光も行なうなど修学旅行としての側面もある。さらに、希望者は夏休みを利用した海外研修や1年間のアメリカ合衆国長期留学が可能である。


校内では、本校である東京の開成を「東京開成」または「日暮里開成」といい、自校は単に開成と呼ぶ慣わしがあった。しかし1990年代以降、逗子開成を縮めた逗開(ずかい)という呼び方が生徒を中心に定着し始め、開成と呼ぶのは中年以上の卒業生と一部の古参教師のみになりつつある。

出身者

関連項目

元姉妹校

※現在では資本や組織が完全に異なるため、学校レベルでの公式交流は全くなくなっているが、100周年式典の際には姉妹校として鎌倉女学院と合同合唱などを行った。

外部リンク