孫正義

日本の実業家 (1957-)

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孫 正義(そん まさよし、1957年8月11日 )は、日本実業家

ソフトバンクグループの創業者として知られ、ソフトバンク株式会社代表取締役社長ソフトバンクテレコム株式会社代表取締役社長、ソフトバンクモバイル株式会社代表執行役社長兼CEO福岡ソフトバンクホークスのオーナーなどを務める。アジアングルーヴ株式会社代表取締役社長の孫泰蔵は実弟。

かつては、ベンチャー企業の先駆けとして、パソナ南部靖之エイチ・アイ・エス澤田秀雄とともにベンチャー三銃士と称された。また、かつては、「パソコン界の天才」と呼ばれたアスキー西和彦に対比して、「パソコン界の神童」と呼ばれていた時期もある。

創業したソフトバンク株式会社の株式31.5%を保有する筆頭株主(2007年現在)で、日本有数の資産家。フォーブスの調査による世界長者番付2006年度版日本人8位、2007年(総946人)には58億ドル(約6800億円)で日本人1位(全体では129位)。

略歴

特記事項

人生の目標
19歳の時に、「20代で名乗りを上げ、30代で軍資金を最低で1,000億円貯め、40代でひと勝負し、50代で事業を完成させ、60代で事業を後継者に引き継ぐ。」という人生50年計画を立て、今もその計画の実現に向けて走り続けているという。
大学検定
カリフォルニア州での大学検定試験の際に、「この問題は日本語ならば必ず解ける。」と言い、辞書の貸し出しと時間延長を試験官に申し出た。試験官は、自分の上司にあたる人間に相談。さらにその上司は、自分の上司に相談。そうこうしているうちに、最後は州知事にまで孫は電話で交渉して、「辞書の貸出し」と「時間延長の要求」をのませたという逸話が残っている。さらに、州知事とは「厳密な終了時間」を決めず、「辞書を引くのに適当な時間だけ延長する」という結論であったとして、無期限の時間延長と孫は解釈して、テストを受けて合格したという。
インベーダーゲーム
日本ではやっていた「インベーダーゲーム」を、ブームが沈静化した後に大量に安価で買い取り、アメリカで売り出して大もうけした。
野球ファン
子供の頃からの野球好き。打順は3番で、三塁手だった。明け方のまだ薄暗い中グラウンドで練習したり、家の周りを鉄下駄を履いて走ったりしていたという。特に王貞治選手のファンで、ホークスダイエーから買収するきっかけとなったのは王が監督を務めている事と、出身地の鳥栖市に近くソフトバンク創業の地であった福岡県の球団であった事である。
ゴルフ好き
ゴルフはハンデ2の腕前。

ソフトバンクの創業

自分で考案した「音声機能付き他言語翻訳機」を当時シャープ専務の佐々木正に約1億円で売り込み、その資金を元に米国で事業を起こし、1981年には「日本ソフトバンク」を設立。電話の際に自動的に安い回線を選ぶNCC BOXフォーバル大久保秀夫とともに開発した。大久保秀夫との交流は以後も続き、BBフォンおとくラインの販売など、ソフトバンクグループの法人向けの営業では常にフォーバルと協力体制を取ってきた。

1994年7月ソフトバンク株式会社の株式を店頭公開した。

「日本ソフトバンク」名義の会社を設立したのは1981年であるが、孫自身は事あるごとに「私は、福岡の雑餉隈で、アルバイト社員二人とソフトバンクを始めました」と話している。雑餉隈の雑居ビルに存在した会社は、ソフトバンクの前身である「ユニソン・ワールド」という会社であるが、孫自身はこの「ユニソン・ワールド」がソフトバンクの起業だと考えていることがこの言葉から分かる。同社員の前で、立ち上げた会社を「10年で年商500億の会社にする」と豪語したが、これを聞いた二人は非現実的な法螺話と受け取り、孫の力量を見限って辞めてしまった。この二人は後に会社の急成長を目の辺りにして残念がったと思われる[1]

その他

堀江貴文三木谷浩史など、現在知られているIT関連企業関係者などはいずれも、孫が会社・製品のインパクトを強調することで高株価を維持していく、所謂「発表会経営」の手法を模倣してきたといわれている。

参考文献

  1. ^ 大下英治著『孫正義起業の若き獅子』講談社1999年

関連項目