赤塚不二夫
赤塚 不二夫(あかつか ふじお、男性、1935年9月14日 - )は、『天才バカボン』『おそ松くん』などを代表作にもつ日本を代表する漫画家。本名は赤塚 藤雄(あかつか ふじお)。新潟県出身(出生地は満州国だが、終戦後に幼少期を新潟県で過ごした為、戸籍上は新潟県になっている)。1974年、実験的に山田一郎というペンネームを使っていたこともあるが、3ヶ月で元に戻した。
他の追随を許さない卓越したギャグ漫画センスの持ち主であり、バカボンのパパ、イヤミ、ニャロメ、ケムンパス、ベシ、ウナギイヌなどのマンガ史に名を残す個性的なキャラクターを生み出した巨匠である。
また、1970~80年代の映画のプロデューサー、あるいは音楽選曲担当者に「赤塚不二夫(もしくは赤塚不二男)」なる人物の名が見受けられるが、別人である。
人物
1935年に満州国の熱河省において出生。「バカボンのパパのモデル」とも言われる父親は、憲兵であった。幼少時から手塚治虫作品などを読み、12歳で『ダイアモンド島』というSF巨編を書き上げ、出版社へ持ち込むがダメ出しされる。第二次世界大戦の終戦後日本に戻り、新潟県や奈良県などで暮らした後、19歳の時に東京へ。江戸川区の化学工場に勤務する傍ら漫画を執筆し、その漫画が石ノ森章太郎の目に留まる。石ノ森が主宰する「東日本漫画研究会」の同人となり、また赤塚も石ノ森や藤子不二雄らのいたトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。しかし、当時の赤塚は石ノ森の漫画のアシスタントの傍ら、数ヶ月に一本程度の少女漫画を描いていたが鳴かず飛ばずの日々が続いていた。そんな中、穴埋めのために描いたギャグ漫画『ナマちゃん』(1958年)がヒットしそのまま連載扱いになり、それ以降はギャグ専門として展開して行く事になる。当時、トキワ荘一の美青年として認識されていた。
中でも、初期代表作『おそ松くん』の特にイヤミの「シェー」のポーズは当時の日本で知らない人はいないほどの爆発的な人気を巻き起こし(ジョン・レノンや皇太子徳仁親王、さらにはゴジラまでが「シェー」をした。[1])、赤塚を日本を代表する漫画家にした。1950年代~60年代生まれの男性の多くが、子供の頃記念写真を撮るときはふざけて「シェー」のポーズを取る事が「お約束」になっており、誰でもそのスナップが必ず一枚は残っていると言われるほどである。
第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞(『おそ松くん』)。
1963年、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加。アニメ『おそ松くん』の制作を担当させる。1965年、長谷邦夫、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等とフジオ・プロダクションを設立。分業制による漫画制作体制を確立させた。この意味で、「赤塚不二夫」は、本人自身にとっても、「藤子不二雄」や「さいとうたかを」などと同様、フジオプロダクションの共同製作グループ(担当編集者を含む)のペンネームと考えられており、逆に、他のメンバー名義の作品も、赤塚名義の作品とまったく同様の方法で、赤塚本人を中心に製作していたものが少なくない。いずれの作品においても、赤塚本人は、グループのアイディアをネームにまとめる役割のみで、実際の作画には関わらず、グループがペン入れを行っている。1967年、『天才バカボン』を発表。天才ギャグ作家として時代の寵児となる。
当時は、漫画家としては異例のテレビの司会に抜擢。「マンガ海賊クイズ」では、黒柳徹子と共に司会を担当した。これを機に、赤塚の交流は、芸能界にも広がる。一例をあげても立川談志、荒木経惟、由利徹、唐十郎など当時から一線で活躍していた人物たちであった。
1970年代半ばには、山下洋輔等を介してタモリと出会う。卓越した笑いのセンスを持つ赤塚は、たちまちタモリの芸を認め、大分県日田のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ芸能界入りに貢献した。のち、タモリや高平哲郎らと「面白グループ」を結成。
1979年には、愛猫の菊千代と出会う。菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫で、CMに出演、一躍人気者に。赤塚自身も『花の菊千代』(コロコロコミック連載)といった漫画を描いた。しかし、1997年に菊千代は他界、赤塚自身のみならず、周辺のファンも悲しませた。
ハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを範としていること、自分でパロディ映画を作ったことがあることなどから、かなりの映画通であることが確認されている。自宅のライブラリーには(当時としては高価で珍しい)大画面モニターと、数万本の映画のビデオがあるという。
代表作は単にアニメ化されるのみならず、何度もリメイクされているものも少なくない。また、自身の生み出したキャラによる絵本や学習漫画なども多い。視覚障害者向けに触図と点字でギャグ漫画を書くという画期的な試みも行い、2000年8月16日の毎日新聞に紹介されたこともある。2000年8月21日に点字の漫画本が発売されると、点字本としては空前のベストセラーになった。
2002年4月に脳内出血を起こし倒れて以来、創作活動を休止している。2007年現在は病院にて療養中。なお、「なぎら健壱FC会報」によると2004年から意識不明のまま植物状態にあるという(2006年末に眞知子夫人の訃報を取り上げた報道ステーションで、赤塚が現在意識不明であると改めて伝えられた)。
2002年に小学館から「赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX」としてデビュー作から現在までの作品を集めたDVD全集が発売された。後2005年には同内容をコミックパークのオンデマンド出版で刊行し(全271巻)、現在でも入手できる。ただしこの全集にも未収録のタイトルやエピソード(少年キング版「おそ松くん」など)は少なくない。
2006年7月12日には妻の眞知子を亡くす不幸に見舞われた。
長女・りえ子氏は、ロンドン在住の現代美術アーティスト。
作品リスト
- 天才バカボン
- おそ松くん
- もーれつア太郎
- ひみつのアッコちゃん
- レッツラ☆ゴン
- ギャグ・ゲリラ
- ナマちゃん
- へんな子ちゃん
- たまねぎたまちゃん
- まつげちゃん
- おハナちゃん
- キビママちゃん
- ジャジャ子ちゃん
- ヒッピーちゃん
- キツツキ貫太
- まかせて長太
- おた助くん
- メチャクチャNo1
- ハタ坊とワンペイ
- そんごくん
- 死神デース
- ニワトリ一家
- ぶッかれダン
- おれはゲバ鉄!
- くそババァ!
- オッチャン
- 少年フライデー
- のらガキ
- 母ちゃんNo1
- コングおやじ
- ワルワルワールド
- つまんない子ちゃん
- わんぱく天使
- ニャンニャンニャンダ
- タトルくん
- おじさんはパースーマン
- チビドン
- 花の菊千代
- 大先生を読む
- ダイアモンド島
原作付き
共同作品
- くらやみの天使(U・マイヤ名義。ほか2作。いずれも石ノ森章太郎、水野英子との合作)
- ちりぬるを…(いずみあすか名義。ほか3作。石ノ森章太郎との合作。「石塚不二太郎」名義の作品も1作あり)
- おハゲのKK太郎(藤子不二雄との合作。チビ太とオバQの共演。)
- ギャハハ三銃士(藤子不二雄、つのだじろうとの合作)
- しびれのスカタン(原案とキャラクターデザインを担当。実際は長谷邦夫の作品)
- オールナイトデッコ(原案を担当。実際は古谷三敏の作品。赤塚の名前を出していないが、初期の「ダメおやじ」も同様のケース。なお、古谷との共作は青年誌向けを中心に他に数作ある。)
- 聖ハレンチ女学院(古谷三敏、芳谷圭児との合作)
- 天才バカボンのおやじ(連載途中より古谷三敏が作画を担当)
- 元祖天才バカボン(赤塚名義だが、長谷邦夫が作画を担当)
- 風のカラッペ(佐々木ドンとの共作)
- 0048チビ(佐々木ドンとの共作)
代表されるギャグのセリフ
- 『シェー!』(おそ松くん、イヤミ)
- 『これでいいのだ!』(天才バカボン、バカボンのパパ)
- 『賛成の反対なのだ!』(天才バカボン、バカボンのパパ)
- 『不思議だが本当だ。本当だが不思議だ』(天才バカボン、バカボンのパパ)
- 『クリーン、クリーン、クリーン…おでかけですか?レレレのレ!』(天才バカボン、レレレのおじさん)
※…レレレのおじさんが掃除をしていることと、クリーン(英語で「きれい」)をかけている
- 『タイホする!』(天才バカボン、おまわりさん)
- 『国会で青島幸男が決めたのか?』(天才バカボンほか)
- 『忘れようとしても思い出せない』(天才バカボンほか)
- 『…でやんす』(もーれつア太郎、ケムンパス)
- 『…のココロ?』(もーれつア太郎、ココロのボス)
- 『…べし』(もーれつア太郎、ベシガエル)
- 『…だニャロメ!』(もーれつア太郎、ニャロメ)
元アシスタント
(フジオプロの場合、特に古株は赤塚と年齢も近いため師弟関係はなく、実質的共同製作者である。)
関連項目
作品・キャラクター
- 下落合焼とりムービー(赤塚が企画・原案を手掛けた日本映画。監督は山本晋也)
- でん六(節分用豆製品に付録の鬼の面をデザイン)
- RIP SLYME(GROOVISIONSが赤塚に触発されたイラストでジャケットデザインを手がける)
- ウナギイヌ
人物
その他
参考文献
- 長谷邦夫 『ギャグにとり憑かれた男―赤塚不二夫とのマンガ格闘記』 ISBN 4938913151
- 武居俊樹 『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』 ISBN 4163670807
註
- ^ もっともレノン自身は『おそ松くん』の詳細は知らず、来日時に会った記者の薦めで「シェー」のポーズの写真を撮らせたに過ぎない