御囲堤

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御囲堤(おかこいつつみ)とは、尾張藩尾張国(現愛知県)に築いた木曽川左岸の堤防である。

歴史

御囲堤の原型は文禄3年(1593年豊臣秀吉によって築かれた。尾張国では天正14年(1590年)の6月に木曽川の大洪水によって大きな被害を受けていた。木曽川の本流は大きく流路を変え、それまでの葉栗郡中島郡海西郡は木曽川によって2分されてしまった(なお、この洪水で木曽川の右岸となった地域は美濃国に編入された)。しかし、堤を築いた理由は洪水の対策よりは、幾筋にも分かれていた木曽川の流路を固定し、水流や水量を安定させ、渇水期でも川を使って大坂城や城下町の建設に使用する木曽等の木材を運ぶ事が出来るようにする目的にあったと言われる。

関ヶ原の戦い後、尾張国清洲城徳川家康の九男、徳川義直(尾張藩初代藩主)が入城する。関ヶ原の戦い後も豊臣秀頼は健在であり、徳川幕府にとっては豊臣家及びその家臣の存在は大きな問題であった。この豊臣家の侵攻から尾張藩を守るという軍事的目的で、伊奈備前守忠次の指揮で1608年慶長13年)、御囲堤の築堤が始まり、翌年完成する。

また、尾張藩は美濃国で木曽川沿いの重要な拠点を直轄領にしている事から、木曽川の水運も重要視していたことが推測される。

大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと御囲堤の軍事的意味は薄らぎ、尾張藩木曽川の洪水から守るという目的が強くなる。尾張国の御囲堤に対し、美濃国は3尺(約1m)低い堤防しか築いてはならないという不文律により、美濃国は江戸時代を通じて洪水に悩まされ続けた。その為、各村は村又は周辺の村と共同で土地を堤防で囲み、洪水に備えた(輪中)。ただし、堤防を低く抑えたことについては、当時の史料・記録類からは確かめる事が出来ず、尾張側の堤防が三尺高くされたのも江戸後期の寛政年間とされる事から、御囲堤に関する伝承は、あくまで伝承の域に留めるべきではないかとの意見もある(木曽三川流域誌編集委員会,中部建設協会/編、『木曽三川流域誌』、中部地方建設局発行、1992年。)。また、御囲堤は木曽川の川筋よりも東側に築かれたため、尾張国内でも堤より川側の地域では輪中が発達している。

尾張国内の多くの地域では御囲堤で木曽川の洪水の脅威はほぼ無くなった。しかし、木曽川から分流する河川は全て御囲堤により締め切られ、この河川を農業用水としていた村々は水不足に悩まされる事となった。そこで尾張藩は農業用水の建設にも着手し、大江用水(宮田用水)、木津用水(合瀬川)、般若用水、新木津用水、新般若用水等が造られ、入鹿池などのため池を整備した。

御囲堤の規模・構造

現在の愛知県犬山市から弥富市までの木曽川左岸に、約48kmにわたって築かれている。御囲堤の高さは9.1m~14.5mある。堤の川側に外法(そとのり)という法面 があり、堤防の上には馬路(ばぶみ)という幅10.9m~18.2mの平らな部分がある、陸地側には犬走り(いぬばしり)という幅5.4mの段差がある。その法面を内法(うちのり)という。

御囲堤にはが植樹された箇所が多い。幕府が、人々がを観賞することにより堤防が踏み固められると考えて植樹したと言われている。

現在

御囲堤の大部分は残っている。現在も現役の堤防である箇所が多い。又、桜並木の一部は残されており、特に一宮市138タワーパーク周辺は花見の名所である。