広島東洋カープ/log20250923
広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。広島県を保護地域とし、同県広島市中区にある広島市民球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。
親会社を持たない市民球団として結成されたという独自の歴史を持つ。
| 広島東洋カープ | |
|---|---|
| 創設 | 1950年 |
| 今シーズン | |
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| 所属リーグ | |
| セントラル・リーグ(1軍)、ウエスタン・リーグ(2軍) | |
| 歴代チーム名 | |
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広島カープ(1950年~1967年) →広島東洋カープ(1968年~) | |
| 本拠地 | |
| 広島市民球場(1軍)、広島東洋カープ由宇練習場(2軍) | |
| 収容人員 | 31,984人(広島市民) |
| 広島県(1952年~) | |
| 獲得タイトル | |
| 成績(タイトル以外) | |
| 球団組織 | |
| オーナー | 松田元 |
| 運営母体 |
なし (独立採算・マツダも株を保有) |
| 監督 | マーティー・ブラウン |
球団の歴史
壊滅の広島からプロ野球を 第一次暗黒時代
- 1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。翌1950年3月10日に福岡平和台球場で行われたセ・リーグ開幕戦の選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。
- 本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。
- 1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な当時のお金で400万円を集めた。球団も四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。
- 翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行、続いて獲得に成功した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際には更に盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で、市中紙吹雪が舞った。「人出は天皇ご巡幸の時よりも多かった」ともいわれた。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)
- 1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
- 1953年のオールスターゲームのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手がトップ当選。当時の野球ファンを驚かせ、集団投票事件などと批判を浴びた。オールスターの「組織票」の最初のケースがこの年の広島カープと推測される。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)
- 1953年~1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで準生え抜きの門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年~1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。
- 1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭スポンサーとなり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
チームカラーを赤に 赤ヘル黄金時代
- 1973年、別当薫が監督就任すると、チームのイメージを一新すべくユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字、胸番号、背番号に赤の縁取り、袖、腰、ストッキングに赤色のラインが入り、チームカラーとなる「赤」が取り入れられた。
- 1975年、球団初の外国人監督として、前年より一軍打撃コーチを務めていたジョー・ルーツが監督に就任。燃える闘志を表す意味をこめて帽子、ヘルメットの色が赤になった。ルーツはシーズン途中で退団したが、後任監督の古葉竹識のもと球団初優勝。平和大通りで行われた優勝パレードはファン約30万人を集め、空前の盛り上がりを見せた。これは現在5月の連休に行われているひろしまフラワーフェスティバルの発端となっている。以降、カープは球団史上に残る黄金時代に突入する。
- 1977年、胸文字、胸番号、背番号、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり"カープ=赤”が定着する。
- 1978年、日本プロ野球史上初のシーズン本塁打200発を記録。山本浩二、衣笠祥雄をはじめジム・ライトルとヘンリー・ギャレットの両外人、水谷実雄や高橋慶彦らがアーチを描き赤ヘル打線が炸裂した。
- 1979年・1980年には日本シリーズ2連覇を成し遂げた。
- 1984年は山本浩二、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍し3度目の日本一。古葉は1985年限りで勇退。
- 1986年から阿南準郎が監督となる。阿南は「山本浩二監督」実現までの繋ぎと言われたが、ガッツ溢れる采配と手腕で、就任1年目にリーグ優勝。
- 1989年に山本監督誕生。1991年、投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。1993年に最下位の責任を取り辞任。
- 1994年、三村敏之が監督に就任。1996年シーズン中盤は2位に最大7ゲーム差を付けるなど首位を独走していたが、最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、3位に。この年以降、現在に至るまでチームは深刻な投手不足に悩まされるようになる。三村は1998年限りで退任。この年、投打の主力選手だった大野豊、正田耕三の引退も重なった。
第二次暗黒時代の到来 ブラウン政権へ
- 1999年からは達川晃豊が監督に就任。しかし1999年、2000年共5位に終わり、わずか2年で辞任。また、引退直後から就任していた大野豊投手コーチと正田耕三守備走塁コーチ、6年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチは1年限りで辞任した。
- 2001年シーズンより再び山本浩二が監督として指揮を執るも、これといった補強の成果も見られず1度もAクラスを経験しないまま2005年終了後成績の低迷の責任を取り辞任。最終年となった2005年もチーム12年ぶりの最下位となった。なお、2001年は4位だったが、これはこの年に限り順位が勝利数順だったためであり、勝率では3位だった。
- 2005年
- 2006年
- ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティー・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を計った。
- キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹に決定。ユニフォームにはキャプテンマークとして「C」の文字を入れた。
- 年開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続とした。
- この年も、エース・黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられないなど、弱点の投手力の改善に失敗し、5位に終わる。
- 2007年
チーム成績・記録
- リーグ優勝 6回
- (1975年、1979年、1980年、1984年、1986年、1991年)
- 日本一 3回
- (1979年、1980年、1984年)
- Aクラス 20回
- (1968年、1975年~1976年、1978年~1981年、1983年~1991年、1994年~1997年)
- Bクラス 37回
- (1950年~1967年、1969年~1974年、1977年、1982年、1992年~1993年、1998年~2006年)※1
- 最多勝 75勝(1984年)
- 最多敗 96敗(1950年)
- 最多引分 18分(1978年)
- 最高勝率 .625(1984年)
- 最低勝率 .299(1950年)
- 連続Aクラス入り最長記録 9年(1983年~1991年)
- 連続Bクラス最長記録 18年(1950年~1967年、南海ホークス・福岡ダイエーホークス(1978年~1997年)の20年に次ぐ史上2位)
- ※1 2001年のセ・リーグの順位は、勝率順ではなく、勝利数順のため、勝率の場合はAクラス入り(3位)になっていた。
その他の記録
- 最小ゲーム差 3.0ゲーム(1992年)
- 最大ゲーム差 59.0ゲーム(1950年)
- 最多本塁打 205本(1978年)
- 最少本塁打 29本(1952年)
- 最高打率 .284(1978年)
- 最低打率 .213(1956年)
- 最高防御率 2.62(1959年)
- 最低防御率 5.20(1950年)
歴代本拠地
チーム特徴
- 加盟当初は「カープス」だったが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改め正式名称とした。他のニックネーム候補にはレインボー(虹)、アトムズ(原子)、ブラックベア(黒熊)、ピジョン(鳩)、グリーンズ(緑)などがあった。このうち「グリーンズ」は1954年に結成された2軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用された。また、アトムズは原子爆弾からの連想で、原子爆弾に広島を象徴させる事が提案されたのは核兵器廃絶運動の拡大前という時代背景があった。これはその後1966年から1973年にサンケイ→ヤクルトが、フジテレビジョンのアニメ鉄腕アトムに由来する名称として採用していた。
- 資金難もあって監督はチームの生え抜き、すなわち他球団への在籍経験がない選手が昇格することが多いが、球団の黎明期には白石勝巳、門前眞佐人といった準生え抜きが監督をつとめることもあった。広島初の生え抜き監督は球団創設16年目に中途就任した長谷川良平で、当時35歳だった。
- 他球団が外国人選手を採用しても、平山智らのような日系人のほかは、外国人選手を長らく採用しなかったが、1972年にメジャー・アメリカンリーグでMVPに輝いたことのあるソイロ・ベルサイエスを日系以外の外国人選手として初めて入団した。その後、リッチー・シェーン、ゲイル・ホプキンス、ジム・ライトル、マイク・デュプリー、ネイサン・ミンチー、アンディ・シーツらの外国人選手が、カープ史に欠かせない活躍を残した。しかし球団創設当初から資金難に喘いでいることもありカープ在籍中に活躍したにも関わらずそのシーズンのオフに年俸などの待遇で契約交渉が纏まらず結局優良外国人選手を他球団に移籍する事例が後を絶たない。近年ではネイサン・ミンチー(2001年に千葉ロッテに移籍)やアンディ・シーツ(2005年に阪神に移籍)が代表例である。また、戦力外になった選手の移籍後の活躍も近年目立ち、トム・デイビー(2006年にオリックスに移籍)グレッグ・ラロッカ(2006年にヤクルトに移籍→現・オリックス)などの例が見られる。
- 球団マスコットは「スラィリー」。詳細はその項を参照。また、1975年6月より「カープ坊や」がマスコットとして存在している。スラィリー登場後も球団の応援グッズなどに描かれ続けている。
- 1963年春から、宮崎県日南市で春・秋キャンプを行っているが、1966年日南市が読売ジャイアンツからキャンプのオファーを受けたこともあり、ジャイアンツキャンプ誘致を検討されたことがあった。しかし地元協力者などの請願により白紙撤回され、現在に至るまで40年以上、日南市は広島カープのキャンプ地として知られる。(日南市天福球場の項も参照)
- 1984年に挙げた75勝がチームのシーズン最多勝記録で、セントラル・リーグに所属する球団では唯一のシーズン80勝未到達球団である。
- 球団創設から1967年までの18年連続Bクラスはセ・リーグワースト記録である。また、1996年に福岡ダイエーホークスに抜かれるまではプロ野球ワースト記録だった。
- 資金が豊富ではないため、選手のフリーエージェント宣言をしての残留は認めておらず、FA移籍選手の獲得も行っていない。ドラフト希望枠での選手の獲得にも消極的である。しかし、2006年に黒田博樹がFA資格を取得した際には、球団は宣言した場合残留要請を最大限行うことを表明した。結果的に黒田は宣言せず、複数年契約を結んだ。
- 合宿所は1軍と2軍それぞれに設けている。以前は広島市内の三篠寮1ヶ所だけだったが施設の老朽化が進んだことから、1984年以後佐伯郡大野町(現廿日市市)にある「大野屋内練習所」(カーサ・デ・カルピオ〔Casa di CARPIO〕、イタリア語で「カープの館」の意味)の敷地内に2軍の合宿所を建設。三篠寮は1軍選手専用となった。
- 8月6日の広島原爆忌当日に主催試合がある場合は広島市民球場は使用せず、倉敷、福山等で試合を行う。これは球場を保有している広島市が、8月6日を休日としているためである。
- 他の球団に比べ地方球場での主催試合が多い。上記の倉敷、福山以外にも、尾道、米子、松山坊っちゃん等の各球場で主催ゲームが実施される。なお2005年の松山での試合は、ヤクルトと阪神のそれぞれ主催で2連戦ずつ組まれた。
- 1980年代後半から90年代前半は、地方開催主催ゲームでもとりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月あたりは週末ともなればよく東北(福島、宮城、盛岡)でデーゲームを開催していた。2軍のフランチャイズを東北にということまで検討された時もあった。
- 1995年から2005年まで、広島市民球場でのナイターのレギュラーの試合開始時間は18時20分だった。これは広島市の日照時間が日本一長いための措置。1994年以前は18時試合開始としたこともあったが、特に日没が遅い夏場に球場の外野・レフト側から西日が差し込み、試合運営、特に外野手の守備の面で支障をきたすという理由から18時20分にしたという経緯がある。しかし、対戦カードの集客力と遠方のファンの観戦に柔軟に対応する、さらには球場周辺の滞在時間増加を見込む等の方針見直しに伴い、2006年よりナイター全試合を18時試合開始に変更している。一部試合は、薄暮試合という処置を取り、午後3時から試合を行う。
- 1990年代中盤以降は投手力の著しい低下に伴い、ルーキー投手も主力として投げることが多いが、これらの投手が1年目は活躍するものの、1年目の酷使がたたって早期に引退に追い込まれるケースが目立つ。逆指名入団の山内泰幸、澤崎俊和は新人王、小林幹英はセ・リーグ特別表彰を受賞したが、2年目以降は故障などで尻すぼみになり、3人とも10年以内で引退している。なお、3人とも現在は広島の一軍あるいは二軍投手コーチを務める。高卒では苫米地鉄人が1年目から開幕1軍入りするなど活躍したが、その後は伸び悩んで結局7年で引退した。
- 1998年以降、チームが9年連続でBクラスのため、主力選手のほとんどが優勝はおろか、Aクラス入りの経験すらしていない。21世紀になってから一度もAクラスになっていないのは、セ・リーグ球団では広島のみである。
- 2006年に北海道日本ハムファイターズがパ・リーグ優勝を果たしたことにより、2007年現在、新規球団の楽天を除く11球団の中で最もリーグ優勝から遠ざかっているチームとなっている。また、2007年に中日ドラゴンズが日本一になったため、日本一からも最も遠ざかっている。2007年現在優勝経験のある生え抜き選手は緒方孝市、前田智徳だけである。
- 2007年現在、新規球団の楽天を除き近鉄を含めた12球団で過去に在籍したことのある選手を含めてもメジャーリーグへ移籍した日本人選手が一人も誕生していない唯一の球団でもある。ただし大野豊などのようにメジャー球団からオファーがあった選手は過去にいた。また黒田博樹は2006年オフに広島と4年契約を結んだものの翌年以降にメジャー球団に移籍できるというオプションをつけたため、将来的には広島球団初の日本人メジャーリーガー誕生という可能性はある。
- 2007年から公式ファンクラブが結成される。12球団で最後の結成。
ユニフォーム
変遷
- 1950年~1952年 創設期はシールズやヤンキースを参考にしたユニフォームがあったが、球団の資金難などから1年で廃止された。その後ビジター用のグレーは1952年まで使用。
- 1952年~1953年 大下回春堂から資金援助を受けるため、フマキラーのロゴが登場。創設期からユニフォームは紺色をチームカラーとしていた。
- 1954年~1957年 フィリピン遠征を機にユニフォームが一新。ビジター用は南十字星がベース。
- 1958年~1962年 レッドソックスを参考にしたユニフォームが登場。この時初めてユニフォームに「赤」が取り入れられる。1960年にはビジター用がモデルチェンジされ、ドジャース型となり、この時初めて、現在使用されている筆記体の原型文字が登場する。(スペルはHirosima)。また、胸番号も登場。
- 1963年~1972年 色がやや緑のかかった紺色一色になる。帽子のマークが球団旗にも使われている「HIROSHIMA」のHマークになる。
- 1973年~1974年 別当薫監督就任に伴い、ニット素材の特徴を生かした丸首のベルトレスのユニフォームとなり、プルオーバーとなる。紺色主体のカラーは変わらず、背番号、ロゴに赤の縁取り、袖と首周りにに紺と赤のライン、ストッキングに赤の2本ラインが入り、帽子のマークがHから、シンシナティ・レッズ、中央大学と同じ形状のC(赤に白の縁取り)に変わる。
- 1975年~1976年 ジョー・ルーツ監督就任に伴い、帽子の色が赤になり、Cマークが紺に白の縁取りとなる。「赤ヘルブーム」なる言葉が生まれ、初優勝の象徴となる。さらに首周りがVネックとなる。
- 1977年~1988年 背番号、ロゴ、胸文字、アンダーシャツ、ストッキングが赤一色になり、カープ=赤が完全に定着する。ラインも紺と赤が逆転、スパイクが白地に赤のラインとなる。
- 1989年~1995年 山本浩二監督就任に伴い、ユニフォームを一新。シンシナティ・レッズを意識したデザインになる。左胸にCマークとCARPのロゴ、胸番号は右腹部。袖には赤の2本ライン、左袖に「HIROSHIMA」のロゴが入る。球団創設時から定着していた紺色が消え、赤のみになる。帽子のCマークが白一色になり、シンシナティ・レッズと全く同じデザインとなる。ビジター用もブルーからグレーに変更され、ホーム、ビジター共スパイクも白地に赤ラインとなる。プルオーバーから現在のボタン式(但し、第3ボタンまでがボタン脱着式で、あとは飾りボタン)に変更される。
- 1996年~2001年 大リーグで主流となった前立てラインが登場する、袖のラインが消え、ホーム用に「CARP」、ビジター用「HIROSHIMA」(1963年~1972年使用)のロゴが復活する。1999年のみ、球団創設50周年のマークが入る。
- 2002年~ 球団創設期に使われていた縦縞を復活。ロゴを桜文字からホーム用は筆記体デザインに、ビジター用はゴシック体に変更。2005年からスポンサー・マツダの広告が入るようになった。またビジター用では、左投げの選手には右袖に、右投げの選手には左袖にカープのロゴ(炎のボールマーク)が入る。
- 2006年より、スパイクの色が赤地に白ラインとなる。
- 2007年開幕よりビジター用ユニフォームに70~80年代に使われた「HIROSHIMA」の筆記体書体を復活させた。また炎のボールマークからキャッチフレーズのALL-INのロゴに変わってそれが入る。
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歴代監督
永久預かり(準永久欠番)
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
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経営事情
カープは当初、広島県、広島市、呉市、中国新聞、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り1960年代まで続いた。
また、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、カープの松田恒次オーナーがそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照されたい。
1960年代後半、東洋工業は創業家の松田家と共同で運営会社を全面買収したが、これには出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし現在もマツダは株を保有し、運営会社はマツダグループに名を連ねている。このように、実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム運営に多大な貢献があったことを称え[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。1984年にマツダが東洋工業から社名変更した際、球団名を“広島マツダカープ”に変更するという話[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。があったが、「販売店の広島マツダと混同する」という理由から立ち消えになっている。
FA残留拒否
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、広島は横浜やダイエーと共に一貫してFA権の行使は認めても行使後の残留(俗に言うFA残留のこと)は一切認めてこなかった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。他球団のFA選手の獲得も行っていない。浅井樹(当時選手会長)や金本知憲(現阪神)などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが結局認めてもらえなかった。そんな中、2006年にFA権を取得したエースの黒田博樹投手が「他球団の評価は是非聞いてみたい」と主張(他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要である)、これまで主力が次々とFA流出していき、また近年投手力が低迷の要因のひとつである広島にとって流出は死活問題となるので、今回ばかりはFA残留を認めざるを得ない状況になった。しかし黒田は会見で「市民球場で、カープの選手やカープファン相手に投げる自分が想像できなかった」と述べFA権を行使せずに残留したため、現在も広島にFA残留した選手はいない。2007年は新井貴浩内野手もFA残留を認める方針になった。
8人の侍
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
疑惑のホームラン
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた大洋松竹ロビンス戦で、広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込むホームランとなったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱えた。この試合の会場はフェンスがなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。その為「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか12日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、広島の選手のホームランをめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。
完全試合献上率が高いチーム
1949年の球団創設から現在に至るまでの特筆すべき事項として完全試合を献上する率が12球団一高い(楽天加盟の現行方式はもちろん、大阪近鉄が存在していた時代も含めて)事で知られている。広島がはじめて完全試合を献上したのは1956年9月19日の国鉄(現:ヤクルト)戦で宮地惟友に達成されたのが最初。1966年5月1日の大洋(現:横浜)戦で佐々木吉郎に達成されて2度目。そして1994年5月18日の巨人戦で槙原寛己に達成され中日と並んでワーストトップタイだったのが単独トップとなってしまったのである。しかしただ達成されただけではなく達成した選手もいて外木場義郎が1968年9月14日に達成しているがその相手は2番目のゲームでの達成者、佐々木吉郎がいた大洋である。
沖縄出身初のプロ野球選手
1964年入団の安仁屋宗八投手は当時アメリカの占領下にあった沖縄の出身で沖縄高校、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの『安仁屋流』を確立するも、投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
「カープを優勝させる会」
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島は最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに以前ほどではないが低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。
変則ダブルヘッダー
1967年10月12日、カープは日程調整の関係でデーゲーム(13時開始)に巨人戦(後楽園球場)、続いてナイター(19時開始)でサンケイ戦(神宮球場)を行った。同じ日に同じチームが違う対戦チーム・違う球場でのダブルヘッダーを行ったのは、1952年に現在のフランチャイズ制が確立されて以降これが唯一である。
外木場、3度のノーヒッター
日本のプロ野球において、ノーヒットノーランの最多記録保持者は沢村栄治(巨人軍)と当チームの外木場義郎の2名。回数は3回である。
外木場は1965年10月2日、デビュー2戦目の阪神戦でプロ入り初勝利・初完封をノーヒットノーランで飾る快挙を達成すると、1968年9月14日には大洋を相手に2度目のそれを完全試合(史上10人目、カープとしては初)で決め、日本タイの3回目のノーヒッターは1972年4月29日、沢村が所属した巨人との対戦で飾った。
1979年、近鉄バファローズとの日本シリーズ第7戦で、江夏豊がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け広島を日本一に導く。このシーズンで自身初、そしてリリーフ投手で初のMVPに輝く。なお、この詳細はNHK特集に取り上げられた。
日本シリーズMVPの自動車
カープは過去に1979、80、84年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈される が、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
広島カープが敗れた1975、86、91年のMVP選手には通常と同じくトヨタ車がプレゼントされている。
停電事故
1982年7月8日に開かれた阪神戦と2004年9月15日の巨人戦、及び2006年8月2日の東京ヤクルト戦でナイター照明の停電事故を経験している。1982年のケースは岡山県営球場での事故で、ナイター照明に蛇が絡まったことによるもの、他2つは本拠・広島市民球場による事故で、試合中市内での落雷発生によるもので何れも数十分間試合が中断した。2006年の場合はその後豪雨が降ったためにグラウンドコンディションが悪化し7回表途中でコールドゲームとなった。
背番号0の男
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペンキャッチャー等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。
究極の右投手攻略法
1988年6月26日、盛岡での横浜大洋ホエールズ戦でのこと。大洋の先発投手を右の斉藤明夫と読み切った監督の阿南準郎は、以下のオーダーを組んだ。
小早川・長嶋・高・大野は左打者。また正田・山崎・高橋・松林はスイッチヒッターで右投手が相手だと左打席に入るので、達川以外の8人が左打者というスタメンになった。
試合は初回に正田・山崎が連打で無死2・3塁としたところで高橋の2点タイムリーで先制。4回表に同点に追いつかれたものの、7回裏に9人目の左打者・西田真二の2塁打を機に決勝点をもぎ取って勝った。この後もカープはしばしばこのオーダーを使い、他球団の右投手を苦しめた。
1984年2月28日、鹿児島でのロッテオリオンズとのオープン戦では、以下のような、山崎・高橋・川口のスイッチヒッター3人以外は左打者だけのオーダーを組んでいる。
日本球界初のアカデミー
アメリカ合衆国のメジャーリーグでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏季にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の2軍だけだったが、チームがメジャーリーグなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々のデメリットを危惧したことを受けて、上記メジャーリーグのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー(通称・カープアカデミー)をドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
クモ男
1990年5月12日開催の対巨人7回戦(広島市民球場)6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋をはいた男が出現。一塁側ダグアウト付近からバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったといわれるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒を焚き、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者だった。この日、野球中継はNHKで19時20分から始まっており、中継開始時刻を計算しての行動だった。当時監督だった山本浩二はこの一件についてマスコミからコメントを求められるや「バカなことをするわな!!」と吐き捨てた。翌日の新聞では記事に垂れ幕の写真が掲載されたが読売新聞は垂れ幕の写真を掲載しなかった。ちなみにクモ男は威力業務妨害罪で略式起訴され罰金20万円の刑事処分をうけた。
放火事件
1998年5月27日開催の対横浜戦(広島市民球場)試合終了後、広島が敗戦したことに怒り、広島のファンが右翼席のごみに放火した。火はすぐに消し止められ、けが人はなかった。
水道管破裂事件
2007年4月12日開催の対巨人戦(広島市民球場)2回表の巨人の攻撃中、突然3塁ベンチの水道管が破裂し、10分間試合が中断した。巨人の門倉健投手が最も近くにいたが、少し濡れた程度だったらしい。
スパイダーマン事件
2005年7月9日開催の対巨人11回戦(広島市民球場)試合終了後、広島が勝利したことに嬉しさのあまりか、広島ファンのスパイダーマンがグラウンド内に乱入したが、すぐにグラウンド外につまみ出された。試合は、広島が9-8で巨人にサヨナラ勝ちした。
社会人野球大会出場
カープ2軍チームは2002年から社会人野球の公認大会であるJABA広島大会(毎年5月)にエントリーするようになった。これまで社会人野球の試合にプロチームが出場することは規制の問題から実現できなかったが、近年のプロ・アマ交流が盛んになったこと、特に社会人チームとプロ2軍の練習(交流)試合も盛んに行われるようになったことから、日本野球連盟・中国地区連盟は広島大会に限定してカープ2軍チームの出場を許可し、社会人野球公式戦の舞台で社会人チームとの対戦が実現した。
- 戦績一覧
- 2002年 1回戦敗退(2-3 三菱三原硬式野球クラブ)
- 2003年 優勝(決勝戦:4-0 三菱重工広島)これは全国の社会人野球の大会でプロチームの初めての優勝だった
- 2004年 優勝(決勝戦:4-3 三菱自動車水島=現・倉敷オーシャンズ)
- 2005年 準決勝敗退(準決勝:4-6 デュプロ)
- 2006年 予選リーグ敗退(7-0 常石鉄工、1-4 JFE西日本 予選Bグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
- 2007年 予選リーグ敗退(8-1 ツネイシホールディングス野球クラブ、2-3 伯和ビクトリーズ 予選Aグループ2位に終わり、決勝トーナメントに進めず)
ベースボールドッグ
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。日本球界初の試み。3回裏と5回裏終了後に登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では背番号111のカープのユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(数枚限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50~60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組「ペット大集合!ポチたま」とのコラボレーションでエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)ミッキーと共演を果たした。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなし、多くのプロ野球ファンを魅了した。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
始球式
本拠地での開幕試合は広島市長が始球式を行うこともあり、有名人の起用があまり無く、2004年まではほとんどは抽選で選ばれた子供たちなどの一般者が投げることが多かったが、2005年から主にカープファンの有名人、番宣絡みでの有名人起用を増やしてきた。
- 過去の有名人の始球式
- 奥田民生(2004年8月20日対巨人戦 打者・仁志敏久。082(広島市の市外局番)の背番号が入ったユニフォームの姿で投球。同年10月30日に行われる『奥田民生ひとり股旅スペシャル』の告知を兼ねて)
- 角田信朗(2005年4月17日対横浜戦 付き添いにチェ・ホンマン。打者・石井琢朗。6月に広島グリーンアリーナで行われるK-1の宣伝告知を兼ねて)
- 堂珍嘉邦(CHEMISTRY・2005年5月21日対楽天戦 4492(よしくに)の背番号が入ったユニフォームの姿で投球。打者・礒部公一)
- 中尾明慶(2005年7月8日対巨人戦 打者・清水隆行。同日TBS系列で放送のドラマ「ドラゴン桜」の番宣告知を兼ねて)
- TIM(レッド吉田・ゴルゴ松本)(2005年8月3日対巨人戦 打者・川中基嗣。「TIM神様の宿題」の企画。投手役がゴルゴ、捕手役がレッド)
- 尾方剛(2005年9月2日対巨人戦 中国電力所属・2005年世界陸上男子マラソン銅メダリスト 打者・清水隆行)
- キム・ヨンチョル(2005年9月3日対巨人戦 韓国人俳優 打者・清水隆行)
- 平井理央(2006年4月25日対巨人戦 打者・鈴木尚広 『SPORT』新キャスター就任記念)
- アンガールズ(2006年4月26日対巨人戦 打者・鈴木尚広 『TIM神様の宿題』企画)
- 岸田繁(2006年6月4日対ロッテ戦 ロックバンドくるりのボーカリスト 打者・西岡剛)
- 大野豊(2007年4月3日対横浜戦 広島市民球場開場50周年記念及び星野ジャパンの広告活動 打者・仁志敏久)
- 石原さとみ(2007年4月10日対巨人戦 フジテレビ系火9ドラマ花嫁とパパの番組宣伝 打者・高橋由伸)
- 上野隆紘(2007年5月10日対中日戦、キャッチャー:横山雄二 RCCラジオデー 打者・井端弘和)
- 宮崎萬純(2007年5月19日対東京ヤクルト戦 ピンクリボンキャンペーン 打者・青木宣親)
- 北斗晶(2007年6月9日対ソフトバンク戦 広島ホームテレビ北斗晶の鬼嫁運動記者倶楽部番組企画 打者・川崎宗則)
- 1999年度には球団設立50年として過去のカープOB、当時の現役選手が連日広島市民球場で始球式を行った。
| 月日 | 対戦相手 | 氏名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 4月6日 | 阪 神 | 白石勝巳 | ※1 |
| 4月7日 | 阪 神 | 長谷川良平 | |
| 4月8日 | 阪 神 | 長谷部稔 | |
| 4月9日 | ヤクルト | 渡辺信義 | |
| 4月11日 | ヤクルト | 松山昇 | ※2 |
| 4月20日 | 巨 人 | 川本徳三 | |
| 4月21日 | 巨 人 | 備前喜夫 | |
| 4月23日 | 中 日 | 原田信吉 | |
| 4月24日 | 中 日 | 緋本祥男 | |
| 4月25日 | 中 日 | 平山智 | |
| 5月8日 | 中 日 | 古葉竹識 | |
| 5月9日 | 中 日 | 鵜狩道夫 | |
| 5月11日 | 巨 人 | 山本一義 | |
| 5月12日 | 巨 人 | 安仁屋宗八 | |
| 5月28日 | 横 浜 | 衣笠祥雄 | |
| 5月29日 | 横 浜 | 大石弥太郎 | |
| 5月30日 | 横 浜 | 三村敏之 | |
| 6月11日 | ヤクルト | 河合昭時 | |
| 6月12日 | ヤクルト | 高橋里志 | |
| 6月13日 | ヤクルト | 久保俊巳 | |
| 6月15日 | 阪 神 | 水沼四郎 | |
| 6月16日 | 阪 神 | 深沢修一 | |
| 6月25日 | 巨 人 | 木下富雄 | |
| 6月27日 | 巨 人 | 山本浩二 | ※3 |
| 7月6日 | 横 浜 | 北別府学 | ※4 |
| 7月7日 | 横 浜 | 小林聖始 | |
| 7月8日 | 横 浜 | 今井譲二 | |
| 7月30日 | 巨 人 | 金石昭人 | |
| 7月31日 | 巨 人 | 川口和久 | |
| 8月1日 | 巨 人 | 高橋慶彦 | |
| 8月4日 | 横 浜 | 渡辺弘基 | |
| 8月5日 | 横 浜 | 宮本幸信 | |
| 8月13日 | 中 日 | 及川美喜男 | |
| 8月14日 | 中 日 | 高木宣宏 | |
| 8月15日 | 中 日 | 福島久晃 | |
| 8月19日 | ヤクルト | 新美敏 | ※5 |
| 8月25日 | 阪 神 | 小川達明 | |
| 8月27日 | 巨 人 | 高橋直樹 | |
| 8月28日 | 巨 人 | 定岡徹久 | |
| 8月29日 | 巨 人 | 中利夫 | |
| 9月4日 | 中 日 | 野村謙二郎 | |
| 9月5日 | 中 日 | 江藤智 | |
| 9月14日 | ヤクルト | 前田智徳 | |
| 9月15日 | ヤクルト | 浅井樹 | |
| 9月25日 | 横 浜 | 金本知憲 | |
| 9月26日 | 横 浜 | 福地寿樹 | |
| 9月28日 | 阪 神 | 玉木朋孝 | |
| 9月29日 | 阪 神 | 木村拓也 | |
| 9月30日 | 阪 神 | 嶋重宣 | |
| 10月1日 | 阪 神 | 江夏豊 | ※6 |
| 10月3日 | ヤクルト | 朝山東洋 | |
| 10月4日 | ヤクルト | 野々垣武志 | |
| 10月5日 | 横 浜 | 新井貴浩 | |
| 10月6日 | 横 浜 | 東出輝裕 | |
| 10月11日 | 巨 人 | 緒方孝市 |
※1 実際の始球式は秋葉忠利広島市長が行ったためVTRで登場。
※2 前日が雨天中止のため長持栄吉と務める。
※3 前日が雨天中止のため金城基泰と務める。
※4 来日したゲイル・ホプキンスと務める。
※5 前日が雨天中止のため杉本正志と務める。
※6 8月16日が雨天中止となったため。
好きなチーム調査
2006年3月2日、読売新聞掲載の、同社がおこなった全国世論調査で、好きなチームの問いに、 巨人、阪神、中日、ソフトバンクに次いで、広島は5位にランクされた。この調査は全国250地点でおこなわれた。
2007年度の中央調査社の調査では6位。最高順位は2003年の4位(ダイエーと同率)。
応援の先駆者
一般に広島県民は「進取性がある」という県民性を持つと言われ、新商品のテスト販売が広島県内で行われることが多い。この進取性がある性格は広島県民の大半が当てはまるカープファンにも言えることで、現在のスタイルにつながる数々の応援方法を生み出したことで知られている。
- トランペット応援・選手別応援歌
- 戦前のプロ野球ではチームをグループ企業全体を上げて応援するスタイルが見られた(大阪タイガースや阪急軍のブラスバンド演奏は数々の文献に出ている)が、戦後は手拍子や野次を中心にした応援が主流だった。しかしカープ応援団が1975年、球場にトランペットを持ち込みコンバットマーチを演奏したことから応援スタイルが徐々に変化していった(トランペット応援の発祥がカープにあるというのは「プロ野球ヤジ講座」〔おかひろみ編・自由国民社〕、「巨人がプロ野球をダメにした」〔海老沢泰久著・講談社〕にも記述されている)。また1978年にはチームの中心選手である山本浩二を特別な形で応援するため、山本が打席に入る際に他の選手と異なる曲を演奏したことが選手別応援歌の始まりとされている。
- ジェット風船
- スクワット応援
- 応援歌に合わせて立ったり座ったりするスタイルは、1990年代に泥酔した観客が始めたものと伝えられている。この応援を1試合続けるとなるとかなりの運動量(ズームイン!!朝!の放送によると、約200キロカロリー)になるため、「カープファンはスクワット応援のための自主トレを行っている」「巨人の選手よりカープファンの方が体力がある」などとジョークのネタにされることもある。
1975年の初優勝時、カープファンはスタンドでしゃもじを打ち鳴らして応援していた。しゃもじは広島湾に浮かぶ宮島の名産品として知られ、「勝ちを召し取る(=飯取る)」、また打ち鳴らした時の「カチカチ(=勝ち勝ち)」という音からゲン担ぎとして使用されていた。現在でも高校野球において広島県代表が試合をする際に、しゃもじが応援アイテムとして使われることがある。この様子を見ていたスポーツ用品メーカーの社員がプロ野球チームのペットマークが描かれたシールをチームカラーのメガホンに貼って球場で売ったところ、飛ぶように売れたという。
応援歌
キャッチフレーズ
カープ応援番組
関連項目
外部リンク
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