小笠原忠知
江戸時代前期の旗本・大名。豊後杵築藩主、三河吉田藩初代藩主。従五位下・壱岐守。忠知系小笠原家初代。小笠原秀政の三男。
小笠原 忠知(おがさわら ただとも、慶長4年7月21日(1599年9月10日) - 寛文3年7月29日(1663年8月31日))は、小笠原氏で、豊後杵築藩主、及び、三河吉田藩の初代藩主。父は小笠原秀政(忠知は三男)。母は松平信康の娘。正室は多賀光定の娘。官位は従五位下、壱岐守。
慶長4年(1599年)7月21日生まれ、幼名は虎松丸。寛永2年(1625年)に書院番頭、翌年12月に大番頭、寛永9年(1632年)4月には奏者番となった。同年9月、兄の小笠原忠真が小倉藩主になったとき、杵築に4万石を与えられてその藩主となった。そして竹中重義改易時の府内藩在番、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功を挙げた。藩政においても植林政策に功を挙げている。正保2年(1645年)7月14日、5000石加増の上で三河吉田藩に加増移封され、吉田藩の藩主となった。侘び茶を求め「茶の湯」の千家を再興させた千宗旦を招請したが、明暦元年(1655年)、高齢の宗旦に代わって遣わされた「千宗旦四天王」と言われる高弟で後に茶道宗徧流を興した山田宗徧を小笠原家に召し抱える。
三河吉田藩主時代、豊橋向山の大池を郡代長谷川太郎左衛門に掘削させ、この大池より水を引いて吉田城の惣濠(外堀)を水堀にした。その水は堀を通り、豊橋吉田方地区の灌漑用にも用いたと言う。
寛文3年(1663年)7月29日、65歳で死去し、後を長男の小笠原長矩が継いだ。法号:一峰定水天真院。墓所:豊橋市の臨済寺。
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