大内氏館
大内氏館(おおうちしやかた)は、山口県山口市大殿大路に建てられた城館で、周防国・長門国を本拠とした大内氏の居館である。国指定史跡。
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城郭構造 | 城館 |
築城主 | 大内弘世 |
築城年 | 14世紀半ば? |
主な城主 | 大内氏 |
廃城年 | (1557年) |
指定文化財 | なし |
沿革
大内氏24代当主の大内弘世が山口を本拠と定め移り住んだ時に居館として築かれた。正確な建築時期は不明であるが江戸時代に描かれた「山口古図」によると14世紀半ばの1360年頃とされるが、発掘調査によると1400年代半ば大内教弘の建築である可能性が高いとされる。
大内氏の繁栄とともに“西の京都”山口として栄えたが、次代の大内義弘の頃にはもう手狭になったようで、近隣に築山館を築いている。大内氏館もその領土の拡大とともに最低5回の増築を繰り返されていることが発掘調査により確認されている。
大内義隆の時代の天文20年(1551年)に家臣の陶隆房の謀反により山口は灰燼に帰した(大寧寺の変)。この時の大内氏館の状況は不明であるが、大寧寺の変の後、新たな大内氏の当主となった大内義長が大内氏館に入った。
1556年に毛利元就が侵攻してくると、大内義長は山口を放棄して逃亡。大内氏館もその役目を終えることとなった。そして翌年、同地に毛利隆元が大内義隆の菩提を弔うために龍福寺を建立している。
概要
京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。館の規模は東西160m、南北170m以上の規模を誇り、館とはいえ、土塁等を備えある程度の防御力を持った城館であった。 館の南東部には大きな池を持った庭園があり、北西部には枯山水の庭園、現在の龍福寺の南東でも詳細不明の庭園が存在していた。
遺構と復元整備事業
発掘調査が行われる以前、大内氏館で確認された遺構は土塁程度であったが、1978年より発掘調査が繰り返され多くの遺構が発見された。2008年の第34次発掘調査では、龍福寺本堂の解体修理に伴い初めて本堂地下の発掘調査を行った。
発掘調査により発見された遺構
- 石組溝
館跡の西辺の調査で石組の溝が見つかり、溝の底には水の流れた痕跡も発見され、排水溝と推定されている。
- 西門
館跡の西辺で小規模な門跡が発見された。その配置や大きさから屋敷内の内門の一つで、礎石が発見されなかったことから、礎石を使わない様式の門だったと推定される。
- 枯山水庭園
この庭は16世紀前半の構築とされ、その中頃に火災により焼失した。火災後に庭石のいくつかは動かされ、その後の改変により破壊されている。大内義隆の頃の庭と思われ、陶隆房の謀反により焼失し、大内義長によって改変されたと推定される。
その他1978年の最初の調査では金の瓦も出土している。
1997年から始まった復元事業により、2006年には西門と庭園の一部が復元されている。