フリートウッド・マック
フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)はイギリス、アメリカのバンド。2008年で結成40周年を迎える。ブルースロックのバンドだった1960年代から1970年代初頭までと、ポップバンドとして大成功を収めた1970年代半ば以降で音楽性が大きく異なる。
| フリートウッド・マック | |
|---|---|
| 出身地 | イギリス、アメリカ |
| ジャンル |
ロック アリーナ・ロック ポップ・ロック |
| 活動期間 | 1967年 - 現在 |
| レーベル | Blue Horizon, Epic, Reprise, Warner Bros., Sire, CBS Europe, Columbia UK, Sanctuary |
| 公式サイト | http://www.fleetwoodmac.com/ |
| メンバー |
ミック・フリートウッド ジョン・マクヴィー リンジー・バッキンガム スティーヴィー・ニックス |
| 旧メンバー |
クリスティン・マクヴィー ピーター・グリーン ボブ・ウェルチ ダニー・カーワン ジェレミー・スペンサー リック・ビトー ビリー・バーネット] ベッカ・ブラムレット デイブ・メイスン |
歴史
初期、ピーター・グリーン時代
1967年、ジョン・メイオールの門下生だったピーター・グリーン(ギター)、ミック・フリートウッド(ドラム)、ジョン・マクヴィー(ベース)らでバンドを結成。初期のバンド名はピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック(Peter Green's Fleetwood Mac)。グリーンのギターをフィーチャーし、当時イギリスで勃興していたブルースロックのブームに乗って成功を収めた。なおアルバム「英国の薔薇」収録の「ブラック・マジック・ウーマン」は、後にサンタナにカバーされてヒットしている。他にもジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、エアロスミス[1]が、この時期のフリートウッド・マックの曲をカバー。
英国活動期、ボブ・ウェルチ時代
やがてピーター・グリーンは麻薬に溺れて精神に異常をきたし、1970年にバンドを脱退。 1971年に、後にジョン・マクヴィーの妻になったクリスティン・パーフェクトが加入。ほぼ同時期に、新メンバーとしてアメリカ人のボブ・ウェルチが加入。バンド名をフリートウッド・マックと改めた。
この時期のマックは、従来のブルース色をやや弱め、ウェルチの影響下でジャズロック的アプローチをとった4枚のアルバムを発表するなど、コンスタントに活動を続けてはいたが、メンバーの度重なる入れ替わり、アメリカにおける「偽フリートウッド・マック全米ツアー騒動」[2]等、困難の多い時代でもあった。
1974年、USツアーを終えたマックは、彼らのこれからの活動をアメリカ中心にするべく、活動拠点をカリフォルニアに移した。しかし、その直後、フロントマンのウェルチが脱退。バンドは再び存続の危機を迎える。
全盛期
ウェルチに代わるフロントマンを探していたミック・フリートウッドとジョン・マクヴィーは、バンドの新作のレコーディングエンジニアのオーディションを通じて「バッキンガム・ニックス」というアメリカ人の男女デュオの作品を耳にした。1974年12月、ミックと「バッキンガム・ニックス」のリンジー・バッキンガムの間で電話による話し合いが持たれ、ミックは、リンジーをバンドに誘った。リンジーは、バンドに合流するにあたりガールフレンドを同行することを提案し、マックは、結局この二人(リンジー・バッキンガム、スティーヴィー・ニックス)を新しいメンバーとして迎え入れることになった。
再び生まれ変わったマックは、1975年にアルバム「ファンタスティック・マック」を発表、「セイ・ユー・ラブ・ミー」、「リアノン」といったヒット曲が生まれ、アルバムは全米1位を獲得、それまでにない成功を収める。安定したピアノプレイと穏やかで安心感を醸し出す暖かい歌声のクリスティン、絵になる二枚目ギタリストでありポップで張りのある声を持つシンガーでもあるリンジー、可憐な容姿と野性的なダミ声かつ哀愁味を帯びた個性派シンガーのスティーヴィーという三者三様のボーカルが醸し出すバラエティとハーモニーは、レコードでもライブでもバンドの大きな魅力となった。
1977年には、最大のヒット作となるアルバム「噂」を発表。シングルカットされた「ドント・ストップ」「ドリームス」「オウン・ウェイ」などの大ヒットとともに、アルバムは31週間に渡って全米1位に輝き、1700万枚といわれる史上空前のセールスを記録する。マックは一躍スーパースターの座に上り詰めた。
この後、「タスク〜牙〜」「ライブ」「ミラージュ」の3枚のアルバムを発表、スーパースターとして順調にヒットメーカーのポジションを維持し続けた。
1980年代に入るとメンバー各自のソロ活動が活発化し、全米アルバムチャートでNO.1を記録したスティーヴィー[3]を筆頭に、リンジー、クリスティンも、それぞれソロでTOP10ヒットをものにする[4]。ミックも、アフリカのミュージシャンを起用した意欲的なソロアルバム「The Visitor」[5]を発表した。
しかし、バンドとしてもソロとしても順調に活躍していたこの時期のマックには、メンバー同士の関係の悪化[6]、スティーヴィーの薬物中毒克服のためのリハビリ施設入り、バンドのゴタゴタや妻との離婚、父の死など公私にわたるトラブルに疲れ切ってコカインとブランディに溺れたミックの破産など、バンド周辺でトラブルが絶えない、暗い側面が同時に存在していた。
停滞期
久々に全員が揃った1987年の「タンゴ・イン・ザ・ナイト」では、音楽面におけるリンジーの献身的な貢献もあり、いつも通りのヒットを記録したが、アルバム発表直後にそのリンジーが脱退。ライブツアーは、新メンバーとしてギター2名[7]を加えた新編成で行われた。
1990年には、ニックスとクリスティンが今後バンドのライブツアーに参加しないことを表明。1990年発表の「ビハインド・ザ・マスク」は、1975年の「ファンタスティック・マック」以来初めてゴールドディスクを逃した。
1992年、ビル・クリントン[8]の大統領選挙のキャンペーンソングに「ドント・ストップ」が使用されたことから、1993年初頭、クリントンを支援するために「噂」発表当時の黄金期メンバー5人が一時的に集まり再結成ライブを行なった。ただし、この再結成は一時的なもので、ライブ終了後バッキンガムが再離脱。1993年年末にはスティーヴィーが今後の活動に参加しないことを表明し、正式に脱退。ほぼ同時期に、リック・ビトーも脱退した。
1994年、ミックとジョンは、新メンバー二名の加入[9]とライブ・ツアーの開始を発表する。しかし、直後にクリスティンが脱退を表明。ツアーは、クリスティンを除くメンバーで行われた。
翌1995年に、新アルバム「Time」を発表[10]。しかし、全米アルバムチャートTOP200にチャートインせず、不発に終わる。
活動再開へ
1997年、リンジーのソロアルバムのレコーディングセッションにミックが参加したことを契機に、黄金期のメンバーが再集結。再結成ライブを行ない、ライブアルバム「The Dance」を発表。1981年発表の「Mirage」以来となる全米NO.1を獲得(Billboard Top 200)した。しかし翌1998年、クリスティンが引退を理由に再離脱した(その後、2004年、ソロとして復帰)。
2003年にクリスティンを除く黄金期メンバー4人による本格的な復活作「Say You Will」を発表、ライブツアーも大きな話題となり、全米3位(Billboard Top 200)の大ヒットを記録した。
オリジナル・アルバム
初期Peter Green's Fleetwood Mac期
- Peter Green's Fleetwood Mac (Blue Horizon, 1968, #198位)
- Mr. Wonderful (Epic, 1968)
- English Rose (Epic, 1969, #184位) 「英吉利の薔薇」
- The Pious Bird Of Good Omen (Blue Horizon 1969--UK only)
- Then Play On (Reprise, 1969, #109位)
- Fleetwood Mac In Chicago/Blues Jam In Chicago vols 1 & 2 (Blue Horizon, 1969, #118位)
Peter Green脱退〜模索期
- Kiln House (Reprise, 1970, #69位)
- Future Games (Reprise, 1971, #91位)
英国活動期
- Bare Trees (Reprise, 1972, #70位) 「枯れ木」
- Penguin (Reprise, 1973, #49位)
- Mystery To Me (Reprise, 1973, #67位) 「神秘の扉」
- Heroes Are Hard to Find (Reprise, 1974, #34位) 「クリスタルの謎」
全盛期
- Fleetwood Mac (Reprise, 1975, #1位) 「ファンタスティック・マック」
- Rumours (Warner, 1977, #1位) 「噂」
- Tusk (Warner, 1979, #4位) 「牙(タスク)」
- Fleetwood Mac Live (Warner, 1980, #14位)
- Mirage (Warner, 1982, #1位)
- Tango in the Night (Warner, 1987, 7位)
活動停滞期
- Behind the Mask (Warner, 1990, #18位) ※バッキンガム不参加
- Time (Warner, 1995) ※バッキンガム・ニックス不参加
活動再開後
- The Dance (Reprise, 1997, #1位) ※黄金期メンバーで再結成。ライブ盤。
- Say You Will (Warner, 2003, #3位) ※クリスティン不参加[11]
※順位は全米。The Billboard 200の最高位。
コンピレーション盤
- Greatest Hits (Warner, 1988, #14位)
- 25 Years - The Chain Box set(国内未発売) (Warner, 1992)
- The Very Best of Fleetwood Mac (Warner, 2002, #12位)
メンバーの変遷
- 「Peter Green's Fleetwood Mac」発表時
- ピーター・グリーン
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- ジェレミー・スペンサー
- 「Bare Trees」発表時
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- ジェレミー・スペンサー
- ダニー・カーワン
- クリスティン・マクヴィー
- ボブ・ウェルチ
- 「Heroes Are Hard to Find」発表時
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- クリスティン・マクヴィー
- ボブ・ウェルチ
- 「Fleetwood Mac」発表時[12]
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- クリスティン・マクヴィー
- リンジー・バッキンガム
- スティーヴィー・ニックス
- 「Behind the Mask」発表時
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- クリスティン・マクヴィー
- スティーヴィー・ニックス
- リック・ビトー
- ビリー・バーネット
- 「Time」発表時
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- ビリー・バーネット
- ベッカ・ブラムレット
- デイブ・メイスン
- (クリスティン・マクヴィー)
- 「The Dance」発表時
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- クリスティン・マクヴィー
- リンジー・バッキンガム
- スティーヴィー・ニックス
- 「Say You Will」発表時(現在)
- ミック・フリートウッド
- ジョン・マクヴィー
- リンジー・バッキンガム
- スティーヴィー・ニックス
日本公演
- 4月23日,24日 東京厚生年金会館
- 4月7日,8日,9日 東京厚生年金会館
脚注
- ^ 『Stop Messin' Round』がジョー・ペリーのお気に入りの一曲であり、長年ステージで演奏されている
- ^ このため、全米ツアーの一部がキャンセルされた。その空き時間を活かしてL.A.で制作されたのが「Heroes Are Hard To Find」である
- ^ 「Bella Donna」、1981年、Billboard Pop Albums(所謂「ビルボード全米トップ200」) #1
- ^ リンジー:「Trouble」1981年 9位、クリスティン:「Got a Hold on Me」1984年 10位、Billboard Pop Singles
- ^ 1981年、#43位、Billboard Pop Albums
- ^ クリスティンとジョン、スティーヴィーとリンジーの二組のカップルが「噂」のレコーディング中に破局したことに始まり、ツアー中、公私にわたってスティーヴィーに辛く当たり、遂にステージ上でスティーヴィーを蹴ってステージを降りてしまったリンジーにクリスティンがワインを浴びせかけて大げんかするなど、バンドとしての絆を失っていた。当時の彼らをかろうじてバンドにつなぎ止めていたのは、リーダーであるミックの存在だった。
- ^ リック・ビトー、ビリー・バーネット
- ^ ビル・クリントンは、1970年代全盛期からのFleetwood Macファンであることを広言していた
- ^ ベッカ・ブラムレット、デイブ・メイスン
- ^ クリスティンが5曲を提供・演奏するなど、全面的に協力している。プロモーションやライブには不参加。
- ^ 数曲にバックボーカル、キーボードで参加
- ^ 余談だが、全盛期のメンバーを生年月順に並べてみると、クリスティン(1943年7月)、ジョン(1945年11月)、ミック(1947年6月)、スティーヴィー(1948年5月)、リンジー(1949年10月)という順番になる。