正司敏江・玲児
メンバー
来歴と芸風
敏江はかしまし娘の住み込み弟子として修行し、妹分・ちゃっかり娘の一員で1962年デビュー。同年、玲児は漫画トリオのサブマネージャーとして松竹芸能に入社、フラワーショウの担当を経て、1963年に音楽ショー・ピスボーイを中井次郎(後の池乃めだか)らと組んでデビュー。
共に売れていなかったが、当時から2人は交際しており、裏方(マネージャーの玲児)が商品(芸人の敏江)に手を付け、芸界の掟を破ったことで、師匠の正司歌江から破門される。
1966年夫婦漫才コンビで再出発。しかし敏江は台本の覚えが悪いのに稽古嫌いで、いい加減なアドリブで誤魔化してばかりだったため、くすぶり続けていた。ある日、舞台上で怒った玲児が敏江を本気で突き飛ばしたところ、これが初めて客にウケる。最初は一方的に張られていた敏江だったが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導の夫婦どつき漫才の型を確立、一躍注目を浴びた。
2人の熱心さにほだされ、周囲の抵抗も次第に解けて行き、1968年には再び『正司』の屋号を許される。「誰のお陰で正司を名乗れると思うとるんや!」の決めゼリフは、こうして誕生した。
現在では主に額を平手で叩いて音を出すだけだが、世間で仮面ライダーが流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江もサービス精神を発揮し、振袖の裾をはだけてのパンツ開帳を定番ギャグにするなど、生傷の絶えない熾烈な芸にエスカレート。
そんな事もあって私生活では離婚してしまうが、人気に後押しされてコンビは続行し、家庭の不幸すらネタにしてしまった。夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々・南都雄二以来で、その後に続く者は無い。
芸歴からすれば既に大ベテランの領域に入っているが、意気軒昂にどつき漫才を展開中。小林信彦の『日本の喜劇人』第9章「大阪の影」の末尾に「久しぶりに、ぞくぞくさせられる芸人に出会った」と敏江のことが出てくる。