上覧相撲
徳川家斉・徳川家慶の時代に江戸城で計7回催された相撲
上覧相撲(じょうらんずもう)は、将軍の観戦する大相撲のこと。
広義には、鎌倉時代や室町時代にも上覧相撲は行われていた。これは武芸としての相撲の技を、武士が主君である将軍に披露し競いあったものである。また戦国大名もしばしば相撲大会を催し、優秀な者は家臣に取り立てることもあった。
狭義の上覧相撲は、興行としての勧進相撲の成立した江戸時代、11代将軍徳川家斉と12代徳川家慶の時代に、いずれも江戸城吹上で計7回催されたものを指して言う。
力士を抱える諸大名にすると、「上様の覚えめでたき」を得られるかどうかがかかっていた。各力士は主君からその旨を厳しく申し付けられ、場合によっては抱えを解かれることさえあった。そのため、上覧相撲は本場所以上の真剣勝負の場となり、当時よくあった預りや無勝負も、上覧にかぎっては適用されなかった。
上覧相撲の一覧
- 寛政3年(1791年)6月11日
- 寛政6年5月
- 享和2年12月 - 雷電が幕下力士五人掛けを披露。
- 文政6年4月
- 文政13年3月 - 阿武松と稲妻が横綱土俵入り。
- 結びの一番で阿武松が「待った」、寛政3年の小野川の「気負け」を覚えていた将軍家斉は、「なぜ稲妻の勝ちにならない?」と側用人に質したという。
以上家斉時代。
以上家慶時代。
寛政3年の最初の上覧相撲は、大坂相撲や京都相撲に遅れをとっていた江戸相撲がこれを挽回するために企図した側面も強い。興行政策上のものだった横綱制度も、上覧を得て権威づけがなされることになった。小野川「気負け」の逸話にしても、上覧を機に相撲家元の地位を確固としたかった追風のパフォーマンスだったという説もある。