小坂誠
日本の元プロ野球選手、プロ野球コーチ
小坂 誠(こさか まこと、1973年7月2日 - )は宮城県山元町出身のプロ野球選手。読売ジャイアンツ所属の内野手(遊撃手)。
| 読売ジャイアンツ #6 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 出身地 | 宮城県亘理郡山元町 |
| 生年月日 | 1973年7月2日(52歳) |
| 身長 体重 |
168 cm 65 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 遊撃手 |
| プロ入り | 1996年 ドラフト5位 |
| 初出場 | 1997年4月5日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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経歴
- 高校は宮城県柴田高等学校、社会人野球はJR東日本東北に在籍。
- 1996年 ドラフト5位で千葉ロッテに入団。
- 1997年 ルーキーながらショートのレギュラーを獲得。シーズン全試合出場を果たすなど活躍を見せ、新人王に選ばれる。この年に記録した56盗塁は、新人の記録としては歴代最多である(従来の記録は45盗塁)。
- 1998年 43盗塁で盗塁王に輝く(故意のボーク疑惑による盗塁阻止問題も発生。詳しくはそちらの項を参照)。
- 1999年 ゴールデングラブ賞を受賞。以後、2001年まで受賞し続ける。
- 2000年 33盗塁で自身2度目となる盗塁王を獲得。
- 2002年 右足骨折の影響で、入団からの連続100安打が5年でストップ。
- 2003年 通算50三塁打達成。
- 2004年 ボビー・バレンタイン新監督の統計スタッフの統計により「ゴロヒットよりフライヒットが多い」ので、転がすバッティングから外野へ飛ばすバッティングにスタイルを変える。シーズン途中から眼鏡を使用し出したが、2007年から着用せず、コンタクトを着用している。
- 2005年
- 12月21日 巨人に金銭トレードで移籍。背番号2。
- 報道によると、契約更改交渉予定だったが予定時間が二転三転し、交渉は行われたものの、その場で金銭トレードでの巨人移籍が通告され、その数時間後に巨人で入団会見をするという急な移籍となり、オフには小坂の加入により巨人の正二塁手仁志敏久が追われるようなかたちで横浜ベイスターズへ移籍。
こうした両球団の対応には両球団のファンからの非難の声が数多く上がったが、ファンの感情的な憶測とは裏腹に『「バレンタイン流マネジメント」の逆襲(高橋徹・著、講談社・刊)』によれば、金銭トレードは自身が主導したもので巨人1球団に対してというものでもなかったようである。不要な選手を放出して資金を捻出しただけとバレンタイン監督自身はMLB出身の監督らしく極めて冷静に振り返っている。
一方巨人側は「1年前から狙っていた選手」とコメントしている。2005年は一塁手に退団が規程路線となっていた清原和博(その後李を獲得)、二塁手に仁志、三塁手に小久保、遊撃手二岡智宏。当時の監督堀内恒夫が守りの野球を掲げており、1つ枠が空いた一塁三塁に、足に不安があるものの2割8分20本塁打を望める二岡をコンバート、二遊間を巧守の選手で固めるという構想があった可能性、その延長上で小坂を獲得した説もある。
数年続いた投手力低迷の低下の元凶を「すべて野手の守備能力低下のせい」と決め込んだ場合、攻守の選手をショートに固定すべきだが、投手自体の能力、ショートを小坂・さらに二岡が一塁三塁を守ることにより打撃力が著しく低下すること、他の選手の守備力などを総合的に天秤にかけると、少なくとも当時は新監督として復帰した原辰徳監督の「内野で守備機会がもっとも多く、巨人の野手で最も打撃力が低いセカンドの控えという位置に置く構想」が一番損失が少なかったと思われる(実際この年巨人はチーム防御率が1点以上向上しているが、怪我人続出による打撃力不足で低迷している)。
- 報道によると、契約更改交渉予定だったが予定時間が二転三転し、交渉は行われたものの、その場で金銭トレードでの巨人移籍が通告され、その数時間後に巨人で入団会見をするという急な移籍となり、オフには小坂の加入により巨人の正二塁手仁志敏久が追われるようなかたちで横浜ベイスターズへ移籍。
プレースタイル
- プロ野球選手としては小柄な体格だが、特に走塁と守備の技術には非常に長けている。ゴールデングラブ賞を通算4度受賞しており、現役の遊撃手の中では宮本慎也(東京ヤクルトスワローズ)、井端弘和(中日ドラゴンズ)と並ぶ最高峰の守備能力を誇っている。走塁技術も高く、盗塁王を2度、リーグ最多三塁打を4度記録している。その俊足は右中間が狭い東京ドームで右中間に放った打球で楽々三塁に到達してしまうほどである。
守備の評価
- 遊撃手としては現役第一人者の呼び声高く、俊足と肩の強さ、安定した送球、柔らかなグラブ捌きに加え、ポジショニング、打球勘などその全てが高水準である。守備範囲の広さは「小坂ゾーン」とまで形容され、小坂自身は「平成の牛若丸」とも一部で呼ばれた。千葉ロッテ時代での二塁手・酒井忠晴とのハイレベルなコンビネーションは鉄壁と称され、マリーンズファンの誇りであった。
- 千葉ロッテマリーンズに入団して以来、千葉ロッテの1軍では2004年に一度だけ三塁手を守った以外は9年間遊撃のレギュラーを守り続けた。2軍やオールスターでは二塁手なども経験しているが移籍時に一部スポーツ紙で「2005年に二塁を守った」という記事が掲載されたのは誤りである。千葉ロッテ在籍時の小坂はショートのみを守る選手、「ショートの達人」と解釈できる。巨人に移籍後の2006年シーズンは、主に二塁手として起用されたが、持ち前の守備力を生かして遊撃手以外の守備も無難にこなしユーティリティープレイヤーとして活躍の幅を広げている。
年度別野手成績
| 年度 | 球団 | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 |
打 率 |
失 策 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1997年 | 千葉 ロッテ |
00 | 135 | 595 | 499 | 66 | 130 | 14 | 7 | 1 | 161 | 30 | 56 | 16 | 38 | 5 | 49 | 4 | 49 | 4 | .261 | 14 |
| 1998年 | 1 | 124 | 527 | 430 | 51 | 100 | 12 | 8 | 3 | 137 | 33 | 43 | 11 | 48 | 6 | 40 | 3 | 48 | 3 | .233 | 16 | |
| 1999年 | 130 | 586 | 482 | 64 | 135 | 18 | 10 | 3 | 182 | 40 | 31 | 15 | 42 | 2 | 57 | 3 | 59 | 2 | .280 | 13 | ||
| 2000年 | 135 | 559 | 462 | 57 | 110 | 17 | 4 | 1 | 138 | 30 | 33 | 11 | 23 | 5 | 69 | 0 | 69 | 4 | .238 | 11 | ||
| 2001年 | 140 | 657 | 550 | 79 | 144 | 16 | 8 | 1 | 179 | 35 | 32 | 9 | 22 | 7 | 77 | 1 | 70 | 8 | .262 | 16 | ||
| 2002年 | 93 | 380 | 334 | 35 | 82 | 13 | 6 | 1 | 110 | 15 | 11 | 3 | 18 | 0 | 26 | 1 | 54 | 2 | .246 | 3 | ||
| 2003年 | 134 | 592 | 516 | 67 | 133 | 21 | 7 | 3 | 177 | 40 | 27 | 7 | 19 | 3 | 53 | 1 | 84 | 5 | .258 | 8 | ||
| 2004年 | 89 | 300 | 242 | 33 | 61 | 9 | 3 | 1 | 79 | 26 | 6 | 8 | 21 | 3 | 31 | 1 | 37 | 1 | .252 | 8 | ||
| 2005年 | 118 | 367 | 321 | 64 | 91 | 14 | 6 | 4 | 129 | 31 | 26 | 11 | 10 | 1 | 29 | 6 | 47 | 3 | .283 | 3 | ||
| 2006年 | 巨人 | 2 | 92 | 255 | 218 | 24 | 40 | 5 | 2 | 0 | 49 | 12 | 4 | 4 | 8 | 2 | 22 | 5 | 41 | 3 | .183 | 4 |
| 2007年 | 6 | 56 | 31 | 24 | 13 | 3 | 1 | 1 | 0 | 6 | 3 | 2 | 0 | 1 | 1 | 4 | 1 | 8 | 0 | .125 | 1 | |
| 通算 | 1246 | 4849 | 4078 | 553 | 1029 | 140 | 62 | 18 | 1347 | 295 | 271 | 95 | 250 | 35 | 457 | 26 | 566 | 35 | .252 | 97 | ||
年度別守備成績
| 年 | 位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 97 | 遊 | 135 | 197 | 459 | 14 | 86 | .979(4) |
| 98 | 遊 | 123 | 236 | 417 | 16 | 106 | .976(3) |
| 99 | 遊 | 130 | 230 | 421 | 13 | 84 | .980(1) |
| 00 | 遊 | 135 | 226 | 489 | 11 | 98 | .985(1) |
| 01 | 遊 | 140 | 252 | 492 | 16 | 99 | .979(3) |
| 02 | 遊 | 93 | 175 | 298 | 3 | 57 | .994(1) |
| 03 | 遊 | 134 | 226 | 483 | 8 | 86 | .989(1) |
| 04 | 遊 | 88 | 148 | 275 | 8 | 65 | .981(3) |
| 三 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 05 | 遊 | 112 | 142 | 290 | 3 | 64 | .993(1) |
| 06 | 二 | 76 | 114 | 196 | 4 | 34 | .987 |
| 遊 | 27 | 14 | 21 | 0 | 5 | 1.000 | |
| 07 | 二 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
| 遊 | 51 | 22 | 41 | 1 | 10 | .984 |
- 2007年シーズンまで
- 表中の太字はリーグ最高
タイトル・表彰・記録
個人記録
エピソード
- ロッテのアイスモナカ「モナ王」のコマーシャルに、初芝清、篠原ともえと共に出演した。
- 新聞などによると好きな女優は伊藤かずえ。夫人は伊藤とはタイプが違う小柄な一般人女性。
- 笑う事が少ないと言われ、踊る!さんま御殿!!に出演した際には「小坂さんの笑った顔を初めて見た」と他球団選手に言われたほど。2005年お立ち台の際、4安打目となる二塁打を放ったときに見せた笑顔について聞かれ、「まあ、たまには見せないといけないでしょう」と答えた。
- ホームランが2007年までの通算でも18本と少ない方であるが、2000年3月26日オープン戦の対横浜戦で1イニング2本塁打を記録している。この試合は千葉ロッテのかつての本拠地であり狭いことで有名であった川崎球場の取り壊し記念の最終戦で、両軍合わせて10本塁打が飛び出し、スコアも22-6(千葉ロッテ勝利)という乱打戦であった。パワーが無いと思われがちだが、広い福岡ドームで本塁打を放ったこともある。
- 2002年と2003年には千葉マリンスタジアムで、「小坂スチール弁当」が販売された。弁当の呪いによって2002年のホークスとの開幕カード3試合目で併殺を阻止しようとしたランナー・バークハートのタックルにより右足を骨折した。
- 2000年、2001年とオールスターに出場した際、TV中継のアナウンサーが小坂を「ロッテオリオンズの小坂」と紹介。その他の選手は「ロッテマリーンズの○○」と呼ばれていた中、一人だけオリオンズとされていた。
- 2000年のナゴヤドームで行われた「オールスター大運動会」において俊足の小坂に対し、恰幅良く鈍足と思われる阪神の中込伸と二人で100m徒競走を行うという企画が行われた。中込には半分の50m地点から同時に走るというアドバンテージがつけられ、差は縮まったものの、大方の予想に反し中込の圧勝だった。
- 芸人に守備のうまさをネタにされることが多い。上田晋也がリチャードホールのコントで、「なんであんたそんな拾いづらいとこ拾うんだよ!ロッテの小坂か!?」や、石橋貴明のとんねるずのみなさんのおかげでした食わず嫌い王での、「ロッテ(巨人)の小坂並に守備範囲広いですね~」など。
背番号
関連項目
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