ホスロー1世
ホスロー1世(?-579年)は、サーサーン朝ペルシア帝国の第21代皇帝(在位:531年-579年)。

生涯と功績
531年に即位する。この頃、サーサーン朝は相次ぐ対外戦争などで国内が荒廃して衰退の兆しを見せていたため、ホスロー1世はこの再建に取りかかった。まず、土地台帳を作成して徴税を整備・強化した。さらにバビロニア地方に大々的な大運河の建設・修復を行なった。また、サーサーン朝は東西交通の要衝にあったが、ホスロー1世はこれに目をつけた。交通路や都市を整備し、交易による繁栄をもたらしたのである。また、宗教においては父の代から社会不安を増長していた新興宗教のマズダク教を徹底的に弾圧して根絶させた。自らはゾロアスター教徒であったが、異教徒であるキリスト教徒などに対しては寛容な態度で臨み、国内の安定に努めている。
対外面においては東ローマ帝国のユスティニアヌス1世(大帝)と戦い、562年にアンティオキアで東ローマ帝国軍を破って優位に立ち、自国有利の和睦条約を締結した。さらに567年にはバクトリア地方、570年にはイェメン地方(アラビア南部)に勢力を拡大し、当時ここを支配していたエチオピア人を追い払った。
ホスロー1世は文化面でも功績を残した。ホスロー1世自身が教養に秀でた文化人だったこともあり、彼は様々な諸国から書物、文芸品などを多く取り入れてイラン文化に東西文化を融合させた独特のペルシア文化を築き上げた。東ローマ帝国のユスティニアヌスがアカデメイアを閉鎖した際、東ローマ帝国から流出したギリシア知識人を保護したり、イラン南西部のジュンディーシャープールに研究所を設置し、古代ギリシアの学術をシリア語に翻訳させたことも後代に大きな影響を与えた。
ホスロー1世の時代、金や銀、ガラスでできた工芸品や岩に掘られた壁画などが大いに栄えた。そして、その優れた工芸品が欧州や中国に輸出され、世界各国に大きな影響を与えた。日本においても、奈良の正倉院宝物などにサーサーン朝の影響を受けた工芸品がある。
579年死去。ホスロー1世の時代、サーサーン朝は黄金時代と称されている。その時代の繁栄を示すものとして、大英博物館に純金で作られたホスロー1世の皿がある。しかしホスロー1世の死後、サーサーン朝は内乱と東ローマとの抗争で疲弊、衰退してゆくのであった。
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